協調行動と「アイデンティティ」

アニメ「八月のシンデレラナイン」は結局、大会が始まる前に、放送が終わるんだろうか? 毎回、おもしろく見ていたのだが。
ただ、おそらく脚本の問題なのだろうが、2点、理解できない点がある。一つは、練習試合で相手チームの内野と外野が入れ替わっていた件で、こんなことをやる意味が分からないってこと。もう一つが、野崎夕姫がチームスポーツが苦手という設定で、そう言いながら、小学校の頃は、かなりドッチボールをやっていたと言っているわけで、チームスポーツやってんじゃん、ってこと。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが、これを見ていると、つまりは野球って、チームスポーツなんだよな、と。もっと言えば、

  • 体育系

なんだよな、っていうのを思い知らされる(そのことは、ガルパン劇場版第2話を見ても感じたが、これもチームプレーであり、「体育系」なんだよな)。前回、大学出が本質的にチームプレーができない。というか、それを評価されて大学に入っていない、ということを書いたわけだが、その代替的な機能を「体育会系」が与えていたんじゃないのか、と思っている。実際に、体育会系は就職に強かった。
まあ、考えてみれば、当たり前だとも言えるわけである。大学とは研究機関なのだから、大学が欲しいのは、

  • 発明・発見

をしてくれる人ということになる。そう考えれば、少し人格がおかしかろうが、研究成果を出してくれるような人が求められているわけで、そもそも、彼らに「協調」行動を求めるのが、どうかしているのだろう。
大学教授は人格的に問題のある人が多いのはそういうことなわけで、普通に生きている人たちは、できるだけ、こういう人たちと関わらない方がいい、ということになるw
しかし、そうは言っても、私たちはきっと大学の研究者の人たちというのは

  • 私たちのためになること

をやってくれている、と思っている。つまり、私たちはみんな、今も、大学では、マルクス主義が教えられていて、 学生もマルクスを学び、先生もマルクスを研究して、

  • どうすれば貧乏な人々がなくなる社会になるのか?

を研究してくれているんだろうな、と思っていて、そうであるなら、と考えて、彼ら大学関係者に一定のリスペクトをもっているものだ。
ところが、である。
前回、マーク・リラの本を紹介した。そこで、考えさせられたのは、今の大学はマルクスなんて読まない、ってことなのだ。つまり、彼らはプチブルジョアで、自分の小金を守ることにしか興味がなく、お金がなくて大学に入れなかった同級生になんの感情移入もしない。じゃあ、彼らは大学で何をしているのか?

キャンパス内のリベラルが個人のアイデンティティだけに固執するようになると、彼らは理詰めの政治的議論をしたがらなくなる。過去一〇年くらいの間に、断定的で反論を認めないような話し方をする人が増えてきている。「Xの立場で言えば、〜」という言い回しははじめのうちは大学の中だけだったが、やがて主流のマスメディアにもそういした話し方が入り込んだ。Xとして意見を述べるというのは、一見、謙虚なようだが、実はそうではない。Xとして発言すると言えば、聞き手に対し、「私は特権的な立場から発言する」と告げたことになるのだ(たとえば、「ゲイのアジア系の立場で言うと、私はこの問題について判断するには不適任なんじゃないかな」という発言はありえない)。自分の意見に対する疑義を跳ね返す壁を築いているのである。自分の意見に疑義があるのは、すなわち、その人はXという立場にいないということなのだから、聞く必要はないというわけだ。どの立場で話すかは、議論での力関係を決める。道徳的に上であると思われるアイデンティティを使い、また疑問を呈された際に最も激しく怒った者が議論の勝者となるのだ。たとえば教室での議論なら、過去には誰かがまず「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。今はそうではない。Xの立場で意見を言った人は、たとえば誰かがBという意見を言っただけで、それを自分への攻撃だと受け取り、怒り出す。アイデンティティがすべてを決めていると信じているのだとしたら、意見に反論されて怒るのは当然である。アイデンティティを否定されたのと同じだからだ。これでは偏りのない公平な対話の余地はどこにもないことになる。白人の男性には白人の男性の認識があり、それは黒人の女性とは違っている。それに対して何を言えばいいというのか。
他人の意見を変えさせようとするのはタブーにすらなっている。誰もが特権的な立場で話をし、誰も人の話を聞かないキャンパスにいると、宗教に支配された古代世界にいるような気分にもなる。どの問題についても、それについて話すのは、話すのにふさわしいと皆が認めるアイデンティティを持っている必要がある。適切なアイデンティティを持つ者だけがシャーマンのように言葉を発することができる。アイデンティティは古代社会の「トーテム」にも似ているだろう。重要性を持つトーテムはその時々で変わる----現在ならたとえば「トランスジェンダー」かもしれない。保守の人が議論の場にいれば。即座に見つけ出され、「生贄」のように扱われる。そして排除の儀式を受け、キャンパスから逃げ去ることになるのだ。意見が正しいか誤りかではなく、純粋か不純かが問題にされる。それは意見の内容のみならず、意見を伝える言葉についても同じだ。自分たちが過激であること知っている左派のアイデンティタリアンたちは、反論を受けた時、それに打ち勝つために。あえて堅物のプロテスタンティストの女性教師のように振る舞う。相手の発言の中に下品で不穏当な言葉がないかを探し、もし、うっかりそういう言葉が使われていることを発見すれば、ここぞとばかりに叩くのだ。
(マーク・リラ『リベラル再生宣言』)
リベラル再生宣言

結局さ。アメリカの大学って、お金持ちしか入れないわけでしょ。そして、彼らはマルクス主義者にはならない。マルクスの勉強もしない。じゃあ、なにをやっているかというと、ひたすら

  • 自分語り

なんだよね。つまり、アイデンティティ。それは、女性だったり、黒人だったり、なんでもいいんだけど、ようするに

  • そればっかり

研究するんだよねw だって、自分ほどの「専門家」はいないのだからw
まあ。上記の引用を読んでみてよ。典型的な、大学の文系の連中の、虫酸が走るような、気持ち悪さを象徴しているでしょ。
文系で、大学に入って、こういった「アイデンティティ」哲学を学んで、そうなると、普通の大衆の人とは、そのことで議論しようなんて思わないんだよねw だって、自分が大学で「専門」を学んだんだから、一番分かっているんだからw
なんか、上記の引用を読んでいたら、典型的な、東浩紀先生だよな、って思いませんかね。まるで、ハイデガーみたいに自分語りばっかりしたがるし、自分という

  • おたく

を論じた、『動物化するポストモダン』って、典型的な「アイデンティティ・アカデミズム」だったわけじゃないw こういう学問に、なんの恥ずかしさもないんだよね。
ようするにさ。大学って、いつの間にか、典型的なプチブルジョアの巣窟みたいになってしまったわだ。みんあ自分語りにしか興味がないし、自分の意見に文句を言ってくる人は

  • クレーマー

とレッテルをはって、自分のアイデンティティを否定された、と「ヒステリー」になって、絶対に自分の意見を変えようとしない。自分の書いた本を、絶対に否定させないし、自分という

  • ブランド

を維持することにしか興味がないし。
でもさ。
考えてみると、マルクス主義を「止めた」文系学問って、まあ、そのことの必然的な帰結って、こういうことなんじゃないのかな、と思わなくもないよね。だって、自分の周りの貧しい人に興味ないんでしょ? そんな人に、なにを勉強することがあるんだろうね。あとは、死ぬまで、さんざん、散財して、遊んで暮らすしか、やることなんてないわけだよね。まあ、好きなだけ、贅沢三昧をすればいいんじゃないんですかね。まあ、私はこういった連中とは関わり合いたくはないですけど...。