資本主義ゲームについて考えてみよう。このゲームの特徴は、
- 初期条件
に集約される。「最初」に既に、親の財産を相続した、などの理由で多くのお金をもっている人は、そもそも、このゲームにおいては
- 圧倒的に有利
である。なぜなら、「それ」を元手に
- 資産を増やす
ことを「仕事」にしている、世界中の優秀な人に、それを任せれば、「かなりの確率」で財産を増やし続けることは可能だからだ。
いや、そんなことはないんじゃないかと、あなたは思うかもしれない。世の中は、確率的な世界であって、成功する人もあれば、失敗する人もいる。だから、「公平」にできているから、生きていくことはフェアなんだ、と。
しかし、私はまったくそれと「同じ」理由から、まったく逆の結論を主張しているわけで、確率的だから「こそ」、
- 初期条件
が「統計的」に圧倒的に、結果において「有利」な結果をもたらす、と言っているわけである。そりゃあ、お金持ちの中にも、何人かは没落する人はいる。しかし、そういう数えるほどの脱落者が問題なのではない。
そうではなく、この資本主義「ゲーム」における勝者に残っていく上で、時間が経過すればするほど
- その「勝者」に占める、初期条件が「有利」に設定されていた特権階級の<割合>が増加する
と言いたいわけである。
この対応関係は、現在の韓国の左翼政権による、徴用工政策や遡及法における
- 過去に遡った「懲罰」
がなぜ、これだけ時代を経ておきながら、一層過激になるのかを説明する。
資本主義ゲームは、そもそも「不公平」ゲームである。その最初の
- 初期条件
とはなんだろう? 韓国においては、それは日本の植民地支配からの解放であった。この解放が達成されたとき、 その最初において、
は、この「最初」において、他を圧倒する有利な条件をもっていた。そして、彼らはその最初における有利さをうまく使って、この社会の支配層になっていく。
しかし、である。
時代がどんどん過ぎて、さて。この社会を見渡したとき、一体何が起きているか? なんのことはない。
- ほとんど
の韓国社会の「成功者」は、ようするに、日帝時代の「親日派」だった、というわけである。逆に、日帝の支配の自らの「正義」が許せず、徹底したレジスタンス運動を行った、この韓国社会の礎(いしずえ)を築いてくれた人々の子孫は、その「初期条件」の差によって、今も貧困階層の
- 底辺
を彷徨っている、というわけである。
さて。過去に遡って、歴史の「正義」に鉄槌を下さなければ気が済まない、現在の韓国左翼政権は、この事態をどう裁けばいいのだろうか?
一つの答えは、今の韓国政権が行っている政策である、
- 日帝協力者の子孫の富裕層の財産没収
である。こういった政策は、一見すると、筋が通っていて、合理的なように思われる。少なくとも、範囲は限定的で、自分が「どちら側か」は自明なように思われるのだから、ひとまず
- 安心
できると。しかし、よく考えてみよう。本当にそうだろうか?
私達の目の前には、ある富裕層がいるとする。その人は、自分でも祖先に、日帝協力者はいないと主張し、事実、貧困から「自分の力で」成り上がってきたことにプライドをもっていた、と。しかし、こういった反論は、そもそも自明なのだろうか? 誰かが、ある小金を手に入れたとき、それを「その人の努力」と言って、一体、誰が信じるだろう? きっと、なにか裏があるに違いない。なんかヤバい、裏社会に手をつっこんで、財産を手に入れたに決まっている。なぜなら、そうでもなければ、そんな高額なお金をサラリーマンが手に入れられるはずがないからだ。
ようするに、どういうことか? 全ての資産家は
- 究極的
- 協力
なしには、その財産を手に入れられたはずがない。よって、全ての資産家の財産を没収することには
- 正当性
がある、という結論になる。なにを馬鹿なことを言っているんだ、と思うかもしれない。しかし、そうだろうか? むしろ、これは「左翼」の標準的な思考だったのではないか。だから、左翼は
- 究極的
な意味においては、一切の私的所有権を認めない。それは、プルードンが言った有名な言葉に象徴される「財産とは盗みである」に代表される。
そもそも、財産を築くことは、なんらかの「社会悪」に手を染めることなしに実現できない。なぜなら、社会的に「認められている」ことは、そもそも、誰もがやっていることであり、誰かがやっていることであり、既に先駆者がいることを意味し、そのビジネスモデルは、それに応じた結果を当人たにち示しているわけで、結局は、後続者はその後に続くことを意味するに過ぎない。よって、一切の至富運動は、なんらかの意味で、その社会で「悪」と呼ばれる行為に、積極的に手を染めていくことを意味する。ようするに、社会の
- 秩序破壊者
なのだ。ようするに、
- こういった「性格」の連中を、この社会が尊重するのかどうか
が問われているわけである。彼らは反道徳主義者であり、進んで、社会のルールを破り、そのことになんの罪の感情にも囚われない。ある種の「サイコパス」であることが、富裕者になるためのパスポートなのであり、事実彼らは、タックスヘイブンを利用することに、なんの罪悪感もない。他者は
- 自分が生きるために利用する便利な道具
であって、その他者が不幸になることが、自分が幸せになるために「役に立つ」ことを
- 喜ぶ
ことはあっても、彼ら自体の不幸を、それそのものとして「悲しむ」ことはない。彼らには社会はない。彼らにあるのは、財布の中のお金が増えたか減ったかしかなく、それに対応して、喜び悲しむ
- 二元論
しかない。しかし、である。
(つまり、左翼とは究極のペシミズムの一種なのだ。どうせ人間は「良く」生きることはない。だとするなら、社会はこういって人類の「自由」を一定の形において規制しなければならない。そして、その方が未来への社会の「継続」的な維持を達成していける。)
しかし、彼らリバタリアンはある、大事な一つの事実を忘れている。それは、
- 誰でも、いつかは死ぬ
という、端的な事実である。なぜこれが重要なのか? 言うまでもない、地上での財産をいくら積んでも、それを天国には持って行けないからだ。
人間の人生は必ず、ある「シンギュラリティ」を、いつかは迎える。そこにおいて、資本家はある「思考の変換」を迎える。それ以前まで、彼らはひたすら
- お金を稼ぐ
ことが人生の生きる目的だった。なぜなら、
- そう毎日を生きているから
というわけである。毎日、朝起きたら、今日もお金を稼ごうと「考えている」わけで、そうである限り、この自明性を改めて問い直す必要はない。なぜなら、事実「そう」生きているのだから。
ところが、ある程度の年齢を重ねて、人生を終わりに近づいた頃になると、そもそも、この稼いだお金は
- なんのため
であったのかが分からなくなるのである。私はもう少しで死ぬ。それは間違いない。そして、その死を迎え、過ぎたとき、今
- 私のモノ
となっているこの財産は、言うまでもなく、私が死ぬやいなや
- 私のモノではなくなる
わけである。なぜなら、もはや私は、この世にはいないのだから。
だったら、
- なんとかしなければならない
のではないか! だって、おかしいだろう。だったら、なんで私は今まで、こんなに苦労をして、これだけの財産を稼いできたのだ。なにかの目的があったからではないのか!
私たちは生きることは「当たり前」のことだと思っていた。そして、それは「いつまでも」続くことだと思っていた。しかし、そうではないことに、いつか気付くわけで、そうなったとき、
- そもそも、今までの人生はなんだったのか
に打ち拉(ひし)がれるわけである。
さて。リバタリアンとは何者だろうか? 私の定義は彼らは、ある意味での「楽天主義者」なのだろう、と思っている。彼らは、左翼のペシミズムを嫌う。人間は、徹底的な「自由」を彼らに与えれば、きっと素晴しい人間としての「良い行い」をしてくれると思っている。つまり、彼らがこの人生の最後の時を迎えて、きっと
- 自分が貯めたそのお金を「良い」こと(例えば、貧困層への寄付など)に使ってくれる
と「信じている」のだ。つまり、彼らは
- 人間を信じている
わけである! きっと、「良い」ことに使ってくれる。だから、彼らの稼いだお金は彼らに使い方を任せて「いい」わけで、
- それ
によって、まさか人類が滅びることなんてないんだ、と思っている。
しかし、である。まあ、よく考えてみよう。そんな「信仰」の根拠なんて、どこにあるんだろう? きっと、それを見つけたと思ったときには、リバタリアンによって人類は滅びているだろう...。