- 理想の社会
にならないのかと
- いらだつ
わけであるが、そういった光景は、どこか「滑稽」である。
その滑稽さは、カントをまったく理解していなかったニーチェが、勝手なイメージを押しつけたカントという名の偽物をボロクソに罵倒して、その
に「伝染」して、ニーチェの口パクを死ぬまでし続ける、彼ら「リバタリアン」の
- ニーチェ・ロボット
の滑稽さ、と言ってもいいのかもしれない。
そもそも、リバタリアンはものを考えていない。彼らが行っているのは、終始、ニーチェの口パクという、「なんか考えた気にさせてくれるもの」であって、そこには、ドラッグにも似た
- 達成感
の快楽が伴う。しかし、結局彼らが言っている「自己所有権」とはなんなのか、について彼らは死んでも説明できないのだ。
たとえば、福祉システムに代表される富を個人から個人へと強制的に移転させる財の再分配は、個人の自己所有権に対する侵害を含まざるを得ないという理由から退けられる。このように、ノージックは自由の権利を政治哲学のすべての領域の根幹に置く。とはいえ、ジョナサン・ウルフが批判するように、ノージックの「自己所有権」は見方によっては極端に形式的、もっと言えば無内容であるとも言える。ノージックは概念を、人間が生まれながらにして所与のものとして与えられている権利として叙述する。だが、彼はこの概念を養護するためのそれ以上の論拠や基礎づけを避けているように見える。自己所有権は自明の真理なのだから、それ以上の説明は要らないとでも言うように......。たとえば、『正義論』のジョン・ロールズであれば、権利は先行する正義の構造との関係で相対的なものであり、何物であれ「絶対的に私のもの」はなく、「そのルールによって私のもの」に過ぎないと言うだろう。
(木澤佐憲志『ニック・ランドと新反動主義』)
ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想 (星海社新書)
よく考えてみよう。自己所有なんて
- 存在しない
のだ! あるのは、この社会が、つまり、人間が決めた
- ルール
に過ぎない。しかし、そんなものは人間が自分たちで「そういうことにする」と打ち合わせたものに過ぎず、人間以外の
- 他者
には、最初から関係ないのだw
なぜリバタリアンは滑稽なのか。それは、端的な事実性が証明している。たとえば、リバタリアンが国家によって、自分の資産を税金として奪われたとして
- 自殺
する人間が一人でもいるだろうか? 私は今だかつて、そんな奴は一人も見たことがない。逆に、富の再分配を受けられなかったことで、飢えて死んだ人は
- 今までの人間の歴史の中で「無限」にいる
わけであってw、さて。どっちが、その
- 事実性
において、真面目に相手にするに値する真実だろうか。どうせ、リバタリアンは福祉に自分の財産を収奪されても自殺しない。資産家のわがまま息子のように、イライラした態度をすることはあっても、彼らは適当に、弱者いじめをしながら、ストレス解消して、むしろ今以上に
- 健康
だっていうんだからw、人生に正面から向き合って、短い人生を真剣に生きようとしている人に比べて、こんな怠惰な奴らを相手にしているほど、私たちの人生は暇ではないわけである...。