表現の不自由展をめぐって

まあ、すでに何回か書いているわけで、今さら何かを言う必要があるのか、という話なのだろうが、今回は、さまざまな論点について検討してみようと思う。

税金を投入するが政治や行政はほっとくと内容を検閲するから別団体を設けてそこに丸ごと助成金を渡してそこで審査して交付させる。つまり行政や政治はルール以外での介入は認められないし、ルールの設定だって恣意的に行うべきでもない。大学の研究、芸術関係の助成金ってみんなこの仕組みですよ。
@mdsch23 2019/08/04 04:30

これは、大学自治などを念頭においた議論だと思うが、ここに一定の正当性があることは私の主張でもある。
しかし、そのことと、例えば、国や地方自治体の所有する土地や建物に実際に、どういったものを置くのか、といったレベルにおいて、なんらかの国や地方自治体側の意志が介在しない、と考えることは無理がないか。
なぜなら、だとしたら、一体何が置かれることになるのか? だれかが、統一した意志において、設計なりが行われなければ、当然、つじつまが合わなくなる。自然にアナーキーに任せた方が、合理的になる、とこの場合に主張するのは馬鹿げているだろう。
この前も書いたが、別に、表現したい人たちは、個人的なスペースで好きにやっていいし、実際にそうしているわけであろう。だとするなら、その公共空間がどのように設計されるのかに対して、大学自治と同じようなレベルで、国家の介入に反対するというのは、非現実的な主張に思えるわけである。

このツイートに対して、いや政治的に偏ってたからではなく侮辱的、挑発的だったから芸術じゃないんだってコメントを複数もらったんですが、それ全部同じ話ですやんという感想。自分の好みとは別に、多様な芸術や表現を他者に許容しておかないと、あっさり自分が縛られる側になる。

今回、普段信頼している人たちの中にも、政治的に偏った表現は芸術ではない、と当然のように言う人が多くて驚いた。芸術は多様であって、その多様な表現の中には、政治的なバランスなど考えずに己の価値観をストレートに表現するものがあって当然だし、歴史的にもそうでしょう。
@yoshikawanori 2019/08/03 17:55

@yoshikawanori 2019/08/04 01:19

まず、今の法律上でも名誉毀損罪はある。しかし、じゃあ、今回の昭和天皇の写真を焼く行為がそれに該当する可能性はどうなのかということに対しては、故人に対する名誉毀損を遺族が訴えることは現実的なのか、ということになる。
しかし、おそらく今回の問題に対して、より近似的な印象をもつのは、シャルリー・エブド事件なのではないか。イスラーム教の神を侮辱した絵を描いたゴシック雑誌がテロにあった事件であるが、つまりは、ある宗教の崇める神聖な象徴を汚す行為ということになるだろう。
戦前、日本には不敬罪があったし、タイでは今もあるそうだが、日本は戦後すぐに、この戦前の不敬罪の法律は廃棄されている。
かといって、名誉毀損罪や侮辱罪が、なんらかの宗教に向かって行われるといったときでも、それは具体的には、ある誰かに対して行われたものと解釈して、こういった罪に問われる、といった解釈になるのだろうか。

表現の自由」に関連して、不愉快な表現は禁止すべきで、抗議を受けても当然だと言う人がいる。抗議もまた「表現の自由」である。その抗議が不愉快であると言われたら、その抗議は成り立たない。簡単な理窟。ただし双方ともに無制限ではないのは言うまでもない。
@akisumitomo 2019/08/06 12:34

どちらも怒る人がいるでしょうね。しかし何度も言ってるのだが、「表現の自由」は怒る人がいるから制限できるわけではない。そして聖典・経典を焼くことを禁ずる法律が外国にはあるから、それはそれで禁止されるだろう。しかし天皇の写真を焼くことを禁ずる法律はない。権力は法に従うしかない。

じゃあ聖書とコーラン焼かれた相手の気持ちはなんだよ。自国民の写真を悪意を以て焼かれたら怒らねぇのかよ。いくら思うところがあっても、言い過ぎだ。
@TunderFive 2019/08/06 16:28

@akisumitomo 2019/08/06 19:10

いみじくも上記の方が言っておられるが、ここで「無制限ではない」と言っているのは、おそらく、名誉毀損罪や侮辱罪のようなことをイメージされているのだろう。しかし、今の一般的な法律の解釈では、今回の事案は「法で禁じられていない」との理解だ、ということであろう。
ただし、これは戦前だったら明確に違っていた、と言っているわけである。つまり、戦前には天皇への不敬罪があった。この自明性とのコントラストにおいて、現代において「禁じられていない」と、ひとまず言うことには一貫性がある。
しかし、こういった分析の前に、もっと直截に、今回の問題は私たちの倫理において認められなければならない、といった主張も過激な形で主張される。

天皇の写真を実際に燃やすかどうかなんて本当にどうでもいいこと。一枚や二枚の写真を燃やしたぐらいで、消しされるような罪では絶対にない。何千万の人々の命と血の滲むような苦しみを想像したことが少しでもあるなら、天皇を敬うなんて絶対にありえない。「たかが」とはそういう気持ちで書きました。
@klezmer722 2019/08/05 02:27

昭和天皇は悪いけど今の天皇はいい人だ」といった台詞、聞き飽きる程聞いてきた。親の責任を子に負わせるのかといった罵倒も沢山聞いた。でも天皇の地位が「世襲」なのに、責任だけ都合よく切断できる訳がない。いじましく天皇を救い出そうとするのは、加害に向き合いたくない自分を救いたいだけ、、
@klezmer722 2019/08/05 03:11

こういうのがいる限り天皇の写真は目の前で何度でも焼かねばなるまい

日本政府上げて慰安婦像撤去を世界中で取り組んでいる中で、これはありえない。ましてや、日本
国民の象徴たる(当時は現人神)天皇陛下のお写真を焼くということは、日本という国で許される
べきことではない。それは芸...
@Matsukawa_Rui 2019/08/03 05:59

@tcy79 2019/08/04 07:22

昭和天皇の写真を聖書やコーラン並みに扱うことの方が(キリスト教徒やイスラム教徒に対して)侮辱なのでは?かつては「現人神」とか言われた人間かも知れないけど、戦後に人間宣言をした1人の人間ですよ。国の象徴?象徴って飾りじゃん。宗教的シンボルでは無いし、聖書扱いするのオカシイ。

聖書やコーランを火にくべることが何を意味するのか。日本人が大切にしているものを燃すことが
何を意味するのか。表現の自由、芸術の名の下に許されていいのか?表現の自由といえども人々の心を傷つけることまで容認されていいのか?私は許されていいとは思いません。抗議の声をあげるのは当然です。
@kharaguchi 2019/08/04 10:44

@CordwainersCat 2019/08/05 07:50

今更、昭和天皇を「君主」だとか、何かの宗教のシンボルみたいに言いたがる人は時代を戦前、戦中に巻き戻したいの?あなた方がそうしたいと思うのは勝手だけど、それは今の憲法が否定してますよ。アァ、だから無理筋でも何でも因縁を付けて現行憲法を変えたがってるんですか。
@CordwainersCat 2019/08/05 08:08

昭和天皇は自身に責任のある戦争で大勢の人間を空襲で焼き殺した。それを思えば写真を焼く程度で国民が、諸外国の人間が寛大にも許してやってるんだと思うなぜ思えない?

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」。昭和天皇の笑顔の御写真(御真影)が焼かれる映像。皆様はどのようにお考えになるでしょうか?
@wadamasamune 2019/08/05 06:55

@CordwainersCat 2019/08/05 20:08

あなた方がそのように騒ぐのであれば彼は終戦後、軍事裁判で絞首刑にされるべきだったと思いますよ。真面目にね。
@CordwainersCat 2019/08/05 20:09

昭和天皇は本来なら東條英機同様、軍事裁判で処刑されたはずの人間なんだ。それを忘れるな!
@CordwainersCat 2019/08/05 20:11

上記の意見は、そもそも昭和天皇は「戦争責任」があるのだから、もっと言えば、中国での日本軍による空爆が分かりやすいように

  • 大勢の人間を空襲で焼き殺した

んだから、それに較べれば、写真を「焼く」ことなんて、たいしたことはない、と。
この場合、まず、昭和天皇の戦争加害の当事者である、という立場が、ほとんど自明な形で主張されている。これは確かに、一つの見識であって、昭和天皇にこのプロセスになんの責任もないと言うことは非現実的だと言わざるをえないだろう。しかし、そのことと、

は分けて考えられなければならない。もしも犯罪者なら、裁かれなければならない、ということになるだろう。しかし、それが裁かれずに今に至って、そしてこれからも裁かれないのだとしたら、なぜ私たちは裁いていないのかを整合性をもって説明するしかなくなる。
そうした場合に、戦後の日本社会が行ってきた議論は、かなり無理があるとは思われるとしても、彼は本質的には「決定」できる立場じゃなかった、といった形で行われてきたのだと思われる。実質的には、天皇は「かざり」であり、なにかができる実権はもっていなかった、という主張だ。
これに納得しないとするなら、一つ一つの問題に、反証していく、という作業になるだろう。
しかし、いずれにしろ、今に至るまで、これは行われて、実行に移されてはいないのだから、「本当は死刑にならなければならなかった」という主張も、名誉毀損罪や侮辱罪と主張されるリスクはある、とは言えるように思われる。
上記の、「天皇の写真は目の前で何度でも焼かねば」という主張も、基本的には「戦争犯罪の加害者の責任者」としての責任という延長で、解釈されているわけだから、まったく、同じ議論になると考えられるだろう。
また、上記の

といった主張のベースには、

  • 戦前の天皇制は「宗教」だったけれど、戦後の天皇制は「宗教」でない

といった解釈なのだろうが、これはどうしても「ねじれた」印象を受ける。まず、戦前の天皇制は明治の欧米列強に受け入れてもらう過程において、建前上は政教分離にみせかけた、といった側面がある。つまり、神道(しんとう)は宗教「ではない」といった議論が行われた。その延長で、靖国神社も宗教施設とは解釈されなかった。
しかし、そのことが実際に宗教行為でなかったかというと、まったく逆だと言うことができる。それが一番分かりやすいのが、小学校での御真影であろう。子どもたちは、小学校に入ってまず行われるのが、この御真影に向かっての礼拝である。そして、これが学校に通っている間、ずっと行われる。
私たちの現代の感覚からはこれは宗教だと言わざるをえないわけであり、戦中世代はこの「洗礼」を一生涯、背負ってきたわけで、それに対する態度は必然的に人それぞれとなっていった。
こういった子どもの頃に強いられた「すりこみ」は、そう簡単には抜けられない。多くの日本人に戦後も、こういった作法を骨の髄まで意識させられた人たちは多くいたわけだ。
しかし、これに対して、戦後世代は、まず、教科書が一変する。昨日まで、天皇のために、お国のために死にましょうと言っていた教師たちが、一日でころっと

  • 今日から民主主義です

と言い始めやがった。この「変わり身の早さ」に多くのこの世代は、国家に対して「不信感」をもつようになった。もっと言えば、

  • 人間を信じない

ということである。
いずれにしろ、この流れを決定的にしたのが、戦後の靖国神社の宗教法人化である。これはGHQに強いられたものだったにしても、いずれにしろ、靖国神社自身が「選択」したものだったわけで、これによって、戦後のフレームは、より欧米型の民主主義に近い

  • 見た目

になったことは間違いない。しかし、ここで「なった」という言い方が何を意味しているのか、なのである。
戦前において、日本のドメスティック型宗教はことごとく「神仏習合」と解釈された。それは、ようするに、日本のドメスティック型宗教は、その教義において、必ず天皇は、なんらかの

  • 聖人

のような位置付けがされていた、ということを意味する。その中心的な団体が神道であり、ようるすに、 神社である。彼らは、戦後、天皇を「神」とすることを止めたのだろうか? そのことが、大きなことというより、アマテラスを始め、 深く天皇の歴史に関係した神々を祀っているのだから、そう簡単にこの関係を分断はできなかったはずなのである。
そして、そのことは多くの日本国民の日常生活に関係してくる。彼らは確かに、戦後、天皇を「国家」の元首としては眺めることはなくなったとしても、神社を通した、なんらかの

  • 宗教的な神聖な対象

として理解することをやめたわけではない。教養のある進歩派左翼が自らを

として生きていることと、対して、多くの大衆が神社や寺を介した、「ゆるやかな宗教生活」を送ていることは、対照的だろう(このことを分かりやすく言えば、自分の家に、神棚があるのかないのか、というところに現れている。進歩派左翼は無神論者だから、そんな神頼みはしないわけで、当たり前のように、神棚なんてないが、多くの大衆は、今も、日々の豊作を願って、神に祈っている)。
そう考えると、上記の「天皇は戦後、ただの人になったんだから、天皇の写真を聖書やコーランと比較することは、キリスト教イスラーム教への侮辱になる」といった解釈とか、相性がよくない、ということになるだろう。
また、

  • 天皇の写真は目の前で何度でも焼かねばならない

というのは、例えば、徴用工裁判では、戦前の植民地支配の違法性の「慰謝料」として、当時の徴用工とされている本人、または遺族への金銭の保障が命令されたわけだが、もしも天皇の写真を焼く行為が、なんらかの「名誉毀損罪」や「侮辱罪」と解釈されるなら、それを「何度も」行う行為には、その「慰謝料」の反復的な適用が成立してしまう可能性もある。

どうしても天皇がなくては生きていけないニッポソ人が多数派だとして、*憲法上*天皇はいまの天皇・皇族の血縁者である必要は全くない。極端な話デーブ・スペクターでもチコちゃんでも問題ない。日替わりでもよいし、選挙で決めてもよい。そこから逆算して天皇制の馬鹿らしさを考えてみるべきです。
@pon_kin 2019/08/05 05:21

ここで、この方が言いたいのは、「政治君主」としての今の天皇の「制度」が私たちがイメージしているものでは、すでにないんだ、ということが言いたいのだろうが(だから、馬鹿げている、と言っているのだろうが)、問題は上記で検討したように、

  • 日本のドメスティックな宗教内における、天皇に与えられた「聖人」的な神聖性

の方にあるのであって、あくまでも、その範囲で彼らが、自らの信仰において、どこまで、やんごとない存在と受けとっているのか、ということになるわけで、こういった「政治制度」としての「おかしさ」をあげつらう態度は、あまり的をえているとは言えないように思われる。
上記までの議論をまとめる形で、最後に書いておくとするなら、まず、進歩派左翼が今回の「表現の不自由展」が

  • 問題ない(と概ね解釈できる)

と言っているのは、あくまで「憲法」や「法律」の解釈において、ということであって、このことを逆に言うなら

  • 戦後の私たちは、「憲法」「法律」をキリスト教における聖書のように受けとって生きている

ということを意味している。とにかく、私たちは「憲法」「法律」に従わなければならないから、従うとしか言っていないわけで、別に、本当にそのことが「良い」ことなのかを、自分で考えて言っているわけではない。
つまり、このことは、上記でも検討したが、戦争直後に、教師が、てのひらを返して、「今日から民主主義です」と言い始めやがった、その「人格異常」な態度が、なにか反復されているんじゃないのか、と疑われるわけであろう。とにかく、 憲法に書いてあること、法律の解釈で概ね認められていることは

  • 絶対

なんだと考えて、そこから外れているものに、一切の「倫理」の可能性を見ようとしない。
こういった連中は、おそらくまた歴史が変わって、もう一度、明治憲法に戻るとなったら、また一夜にして、人格が変わるんじゃないのか、そんな奴らに本当に「人間」の姿はあるのか、と問いたい、ということになるだろうか...。