誰も謝っていない

今回の、あいちトリエンナーレでの津田さんの謝罪は奇妙である。

あいちトリエンナーレの芸術監督を務める津田大介さんは同日夕方に会見を開いた。「表現の不自由展・その後」への抗議や中止は開催前から想定の範囲内だったことを明かした一方、「これを続けるとトリエンナーレそのものが成立しない」として、「わずか3日で作品を撤去するのは断腸の思い」と苦渋の決断だったと明かした。
その上で、「表現の自由」というデリケートなテーマを「民間よりも表現の自由が薄い」と言われる公立美術館でやることで「物議をあえて醸すことに意味がある」と思っていたという。
ただ、「鳴り止まない電話」のような予想を超える反響が事務局などに寄せられたことに「ジャーナリストとしてのエゴだったとも感じています」と打ち明け、責任を「大きく感じている」と話した。
津田大介さん「ジャーナリストとしてのエゴだったのではないか」。“表現の不自由展”中止の責任を痛感 (あいちトリエンナーレ) | ハフポスト

まず、

  • 物議をかもすことに意味がある

とある。つまり、やはり「メタ」なのである。それぞれの作品が

  • 価値

があるから(と自分は思っている)、みんなに見てもらいたいじゃなくて、その評価も含めて

  • 物議をかもす

ことさえできれば、「成功」だったと言っているのだから、なぜ津田さんは「謝罪」をするのだろう? 事実、今、津田さんの考えた通りになっているではないかw ネット上では、進歩派左翼による

の大合唱である。お前は、中国人、朝鮮人の多くを

  • 焼き殺した

んだから、写真を焼かれるくらいで、ぐだぐだ言うな。昭和天皇の場合は、写真を焼くのは当然認められなければならない。戦犯の昭和天皇に人権なんてあるわけがない、と。
こういった主張は、韓国の左翼のスタンダードな主張なのだろうが、韓国に親和的な日本の進歩派左翼は、彼らに

  • 共感

をすればするほど、昭和天皇を死刑にして、天皇制を廃止しておけばよかった、と、まさに「意識高い系」として主張する。
まさに、津田さんが思った通りに、ネットでは議論が

  • 誘導

されている。

これに対して、アドバイザーというより「友達」として、津田さんに助言をしていた東浩紀先生は以下のように述べている。

つぎに天皇の肖像を用いた作品について。ぼくは天皇制に反対する立場ではありません。皇室に敬愛の念を抱く多くの人々の感情は、尊重されるべきだと考えます。天皇制と日本文化の分かち難い関係を思えば、ぼく自身がその文化を継承し仕事をしている以上、それを軽々に否定することはできません。
けれども、同時に、「天皇制を批判し否定する人々」の存在を否定し、彼らから表現の場を奪うことも、してはならないと考えます。人々の考えは多様です。できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。市民に多様な声の存在に気づいてもらうことは、公共事業の重要な役割です。
しかし、これについても、報道を見るかぎり、その役割を果たすためには、今回の設営はあまりに説明不足であり、皇室を敬愛する多くの人々の感情に対して配慮を欠いていたと感じています。この点についても、役割を果たせなかったことを悔いています。
政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。すぐれた作品は、友と敵の対立などどうでもよいものに変えてしまいます。これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます。
にもかかわらず、今回の事件においては、芸術こそが友と敵を作り出してしまいました。そしてその対立は、いま、どんどん細かく、深くなっています。それはたいへん心痛む光景であり、また、私たちの社会をますます弱く貧しくするものです。それは、あいトリがもっともしてはならなかったことです。
東浩紀氏が謝罪 あいちトリエンナーレ「企画アドバイザー」、今年度の委嘱料辞退を申し出 : J-CASTニュース

東先生はこの全文を通しては、明確に「謝罪」の言葉を使っているという意味では謝罪をしていると言えるが、そもそも、

  • 抗議をしてきた人

の主張を「認めた」から謝罪をしているのではない。つまり、

  • できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。

については、一歩も引いていないわけで、何を悪いと思っていないわけです。
前にも書きましたが、今回の問題は

  • メタ

というところにあります。一方で、今回の目的を「メタ」として語りながら、実際には

  • 左翼の主張

をテロ的に公共の施設で行うことが目指されていた。そもそも「メタ」な主張においては、美術館に拒否された(表現の自由が毀損された)作品

  • 一般

を展示することを目的とすると言っておきながら、実際に行われたことは、左翼の「テロ」だったわけで、多くの人にその

  • 意図

において、不信感を抱かれた(そして、こういったことは、東先生のゲンロンのゲーム特集や、原発マージャンでの批判が起きた経緯と非常に似ている)。彼らがそこで行なった「言い訳」は、結局はそれは

  • 主観

なんだ、と言ったわけだ。まさに、ハイデガー的な主観哲学なわけで、そこでなんらかの「客観」を担保することは

と相性がよくない。

ただ、今回の問題の本質は、税金が使われて公共の場で展示される「パブリックアート」の矛盾です。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

1930年代の米国で、芸術家の失業対策として、公共建造物に税金で壁画や彫刻を作らせたのがパブリックアートのルーツです。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

住民や政治家は日常になじむもおを求め、「心に傷をつける」非日常的作品には抗議しがち。アートとパブリックのねじれです。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

津田さんと東先生に共通しているのは、

  • アートなんだから<なにをやってもいい>

という話で、だったら、日本の左翼が「アート」を使って、右翼を攻撃し、ここで

  • 反転攻勢

をかけようと考えるのは「当たり前」ではないのかw そして、実際に、ネット上では、今回の事件を契機にして、やっぱり天皇制は止めるべきだったとか、昭和天皇A級戦犯として死刑にすべきだたとか、今の天皇も、その地位を継承しているんだから、同罪だとか、こういった議論が満載なわけであろう(そして、そういった意見を言うことも「表現の自由」だ、と言っているわけで、よく、津田さんに「趣旨」を学んでいるわけだよねw)。
まあ、私なりに一言だけ言っておくなら、もしも、昭和天皇A級戦犯として死刑にされるべきだと言うなら、ほとんどの日本人だって、

  • 積極的に戦争に加担した

んだから、みんな「死刑」にすればいいんじゃなかったんじゃないでしょうかねw つまり、あんんたの、おじいちゃん、おばあちゃんは「死刑」にされていたわけで、あんたは今、生まれていない。だから、今あんたが

と<言う>こともなかった、というわけで、すべてが「正しかった」ということなんですかね...。