表現の自由という「形式」

ネット上ではさっそく、今回の津田大介の「テロリズム」に対して

  • 出羽守

が跳梁跋扈しているw こういった「エリート」さんたちは、またまた、日本は世界から「遅れている」だとかw、日本を「愚民国家」とか嘲笑して、マウンティングをとって、だからポピュリズムは駄目だ、エリートに政治を任せなければ駄目だ、とか説教を始めるんでしょうねw

フランスではサルコジ政権を批判する作品を政権への忖度で撤去した美術館の館長が市民の抗議デモに合い更迭された。韓国の映画界では「多様性映画」という支援事業における助成金の条件のひとつには、「商業映画の外で文化的・社会的・政治的イシューを扱う映画」という項目がわざわざある。
@fukada80 2019/08/02 17:03

英国では「文化行政において芸術の自由と独立性を保つための「arm's length(アームズ・レングス)の法則」と呼ばれ,現在の文化行政も芸術と行政が一定の距離を保ち,援助を受けながら,しかも表現の自由と独立性を維持する,という法則に基づいて」行われている。
平成18年版 文部科学白書 第1部 特集2 第3節 1.英国の文化行政−文部科学省
@fukada80 2019/08/02 17:03

@Ryosuke_Nishida これがもしアメリカだったら、すでに全国の美術館の館長が「憲法修正第1条(表現の自由)マター」として連盟で抗議声明を出している頃…表現作品は「美術作品を展示する目的の場」に置かれた以上、表現作品としてのみ扱われるべき。観客の主観や政府・行政の方針が展示に影響を与えてはならない。
@tawarayasotatsu 2019/08/03 13:59

@tawarayasotatsu @Ryosuke_Nishida 日本は「公共」とか「公共空間」(パブリック)の概念や識が欧米諸国と違うのでこういう問題が起きてしまうのかも知れないが、芸術作品を展示する目的を明示した公共空間(美術館や国際芸術展会場)は駅や道路、ホテルのロビーなどとは異なるルールが適用され、表現の自由が最優先されます。
@tawarayasotatsu 2019/08/03 14:13

ていうかさ。こういうことを言っている連中は、なんでそれがそうなっているのか、とか一度でも考えたことがあるのかな。なぜ日本はそうなのか。まあ、こいつらに言わせれば、

  • 日本は野蛮国家だから

の一言でかたづけられるんだろうけどw、じゃあ、なんでそうなのか、ってまでは考えないんだよね(つまり、思考停止w)。だって、そう考えたら、それぞれに「理由」があることが分かってしまって、「マウンティング」にならないですからね。
だれもが知っているように、「表現の自由」とは、日本の憲法で宣言された文言である。しかし。もしもその意味を「普通」に考えるなら、

  • 差別

を禁止していると解釈される、その他の憲法の文言と「矛盾」している、ということになるわけで、こういった混乱の言説は非常に多く流布されている。つまり、「どっちが優先されるのか」を憲法には書いていないわけだから、どうなのか、となると。
しかし、これを普通に解釈するなら、差別や侮辱・名誉毀損の大半は、「表現」の問題なのだから、「表現の自由」と書いて、その「例外」として、差別や侮辱・名誉毀損と解釈するのであろう。
しかし、よく考えてみると、これでもあんまり納得しない解釈には思われる。
つまり、これをリバタリアン的に考えるなら、なぜ

  • 一切の自由

を認めないのか、といった疑問は生まれるからだ。つまり、これも一種の「奴隷化」なんじゃないのか、と。なにかを語ることに、なぜ「禁止」がつきまとうのか。本当にそれでいいのか。人間という共同体の「生存」にとって、誰かがなんらかのアラートをあげようとしたときに、それが、「表現の自由」以外のなんらかの「禁止条項」

  • によって

できなかった場合に、それによって人類が滅亡したとして、それでよかったのだろうか?
こういった発想を、「原理主義」的に突き詰めていくと、今、ネット上で猛威をふるっている

にまで辿り着くことになる。
ここまで辿り着いて、多くの人たちは「んっ?」となるわけだ。なんか変だな。「表現の自由」って、そんな話だったっけ、って。
このことについて、一つの考えさせてくれる「アイデア」を、建築エコノミストの森山高至さんがつぶやいている。

表現の自由」が、事前に社会に埋め込まれているものと勘違いし、「何を表現してもいい」アンリミテッドな権利と誤解釈している者が多いが、表現活動の自由を保証しているだけであって、その表現内容については各社会組織の思想や慣習や文化によって、時代ごとに制限が加えられているのが常態であり、
@mori_arch_econo 2019/08/11 18:18

この「表現の不自由性」から、表現可能な範囲を拡張し続けているのが実情である。つまり、この「表現の自由に対する盲信」はどこから来ているかというと、戦後の日本国憲法の第二十一条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」の英語文では次のように表現される。
@mori_arch_econo 2019/08/11 18:22

憲法21条:Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed. 「集会する自由、結社、演説、出版、その他の表現形式の自由を保障する」これを、表現内容についての自由といえるのか、「表現の自由」とは曖昧な解釈といえないか。
@mori_arch_econo 2019/08/11 18:29

ここで、森山さんが示唆している英語の「form」という言葉、つまり「形式」は、実は、この言葉を哲学の文脈で、非常に重要な単語として使用し始めた始めての哲学者として

  • カント

がいる。ご存知のように、カントは実践理性批判において、まさにカントが「自由の哲学者」と呼ばれているように、一切の道徳をほとんど

  • 自由

と同値の意味で説明した本であって、カントにおいて自由がいかに重要な言葉であるかがそれを示している。しかし、そのカントが他方において、

  • 形式の哲学者

であったことは、このカントの自由という言葉への「偏重」に対して、決して無視できない関係にあると考えなければならない。
形式とは、カントが選択した「哲学の手法」に関係しているもので、私たちが一般に、「何か」を考えるとき、それを「そのもの」としてアプローチする前に、そこに「形式」と呼ばれる、抽象的かつ形而上学的なワンクッションを置く、ということを意味する。
例えばそれは、時間や空間を考えるとするときに、まずそこに「時間形式」や「空間形式」があるとして、その後に、そのものの時間や空間を考える、という形になる。
このことは、カントの哲学が、それ以前の「存在の哲学=存在論」と呼ばれるものから、「認識論」と呼ばれているものへの「コペルニクス的転回」と対応しているもので、つまり、直接、「存在」を考えるのではなく、「認識」についての分析が、「存在」と今まで呼ばれていたものの<からくり>を写し出してくれる、といったようなアイデアだと考えてもらっていい。
ようするに、なぜ「世界標準」に較べて、日本の「表現の自由」が

から一定の距離を置いているのかについては、日本の憲法が世界の憲法より後にできたこともあって、より「カント主義」的になっている(確かに、世界平和の理念とか、カントの影響が大きいことは知られていますし)、とも考えられるのではないか(世界的により、カント哲学が大衆レベルで理解されてきた段階で作られた憲法だ、と)。
では、この「表現の不自由展」の場合に、この「形式」の問題がどのように扱われているのかを考えてみたい。

----しかし今回は企画展自体が中止になりました。表現の自由を後退さたとの批判もあります。
「今回の中止が『後退させた』という批判は甘んじて受けます。しかし同時に、こうも思います。本当にトリエンナーレが後退させたのでしょうか。警備などに莫大なコストをかけないと表現ができないというこの現実は、すでに表現の自由が後退していることを示していると言えないでしょうか」
不自由展中止が投げかけたもの 津田大介氏、改めて語る [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

津田はここで、自分たちが

  • 意図的

に「軽警備」で、あえて「あいちトリエンナーレ」を行ったことを自白している。つまり、「だから」中止にしたんだ、と。また、展示物の公表が前日になったことが「警備上」の理由とされていたことからも、これも「軽警備」で挑むという決断と同じ理由でされていることが分かるわけで、つまりは自分で

  • 異常

なことをしたことを分かっているわけです。ただし、ここで「異常」と言っているのは、上記の津田の発言にあるような、津田が考える「異常」ではなく、

  • 社会の常識

から考えた「異常」です。ようするに、

  • セキュリティ上の危険性が、あらかじめ「分かっている」のに、その行為を「あえて」行なった

という「異常」です。これは、今回、3日目で中止になりましたが、3日前に

  • 暴力テロ

が起きていたら、美術品は破壊され、多くの重症の観客を生みだしていたわけで、この責任は、愛知県と津田が背負わなければならなかった、ということを意味します。
しかし、「それでも」津田は、あえて

  • 軽警備

を選んだわけですが、そこには「大衆批判」の含意があります。「莫大なコスト」をかけなくしているのは大衆なんだ、と。悪いのは大衆なんだから、だから「あえて」やるんだ、と。
しかし、そうでしょうか?
上記の朝日新聞によるインタビューでは、インタビューアは何度も、この津田の行為の「意図」を批判的に質問しています。

----中止も折り込み済みだったのでは、との見方もあります。再開する意志はありますか。
不自由展中止が投げかけたもの 津田大介氏、改めて語る [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

----会見で物議を醸すことにも意味があると思った、と説明していました。反発覚悟で注目を集めようと「炎上」を狙ったのでは?
不自由展中止が投げかけたもの 津田大介氏、改めて語る [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

例えば、今回の「表現の不自由展」はそう語っているのに、例えば、シャルリー・エブド事件のイスラム教を侮辱した漫画は展示されていません。あるのは、はっきり言ってしまえば

するための、昭和天皇の写真を焼く(ように見えるようにした)パフォーマンスであり、ようするにここにあるのは「天皇制批判」だけなわけです。
しかし、です。
もし、シャルリー・エブドの漫画を展示していれば、世界中のイスラム教徒から「クレーム」が来たでしょうし、実際に「テロ」の確率も大きかったでしょう。でも、津田はやらなかった。つまり、「何か」を津田は「慮った」わけですw 他方で、「天皇」に対しては、津田は一切の

  • 遠慮

をしませんでした。だから、日本の国民「だけ」がほとんど怒っているわけですが、これを「日本国民を<挑発>した」と言わずに、なんと言うんでしょうかねw
要するに、津田は

  • 国民をあえて「怒らせようとした」

わけで、そうした場合に、本当に「悪い」のは、その「マインドコントロール」に操られた国民の方なのか、津田の方なのか、こそがカント的な意味において問われるわけであろう。
大事なことは「形式」です。津田は、自分たちが「中止」に
−追い込まれた
と言っています。それは、一般市民からの電話などによる「クレーム」対応によってです。そこで、二つの理由をあげています。

  • 脅迫的な「言葉使い」
  • 石油缶をもちこむなどを匂わす「暴力の示唆」

しかし他方において、このクレームは「電話がひっきりなしに鳴り続ける」と言っているように

  • 大量

にあった、ということも示唆しています。つまり、どういうことでしょうか? まず、もしも津田が上記の二つのケースが「問題」だと考えるなら、どちらにしろ

  • 警察に捜査を依頼

すればいい話なわけでしょう。だって、これは「犯罪」なのですから。また、「電話がひっきりなしに鳴り続ける」ことは、国民の権利ですよね? これを理由に「職員が止めたい」と言ったから、中止するって、なにを言ってるんでしょう?
カントが「形式」と言っているのは、こういうことです。津田は、

と言っているわけです。つまり、そういった一つ一つの中には、まったくもって「合理的」なクレームもあったであろうにも関わらず、

  • それ

を理由にして中止を決めた津田の態度には、やはり「計画的中止」という

がそこにはあったのではないか、と疑われるわけですw
(ネット上では、今回の問題について、芸術作品が「挑発的」であることは、むしろ評価されることはあれ、それを理由に非難をされる理由にはならない、といったようなことを言っている人もいたが、津田自身も言っているように、彼は基本的には「作品の制作サイド」とは距離をとった、作品を人々にまで届ける、言わば、愛知県側に近い立場の側だと言っているわけで、それを考えたとき、その津田による

とする、さまざな「策略」が、まさに<メタ>のレベルの意味で、「挑発的」であることの悪質性が問題にされているのであって、この区別は明確に分けた方がいいと、私は考えるわけである。)
ようするに、津田は国民の

  • 内面

を問題にしているわけですね。人間の心はそういうふうに「思う」ようになっていなければならない、と。まったくもって、連合赤軍の「自己批判」と同じロジックなわけですw
さて。津田は、今回の「表現の不自由展」の中止以降に、最近、毎日新聞に、以下のような

  • 事件の事実経過

なるものを投稿しています。

元々の発端は、トリエンナーレ開幕前日、七月三十一日の中日新聞朝日新聞の朝刊で「表現の不自由展・その後」の具体的内容が報道され、その中に二〇一一年、在韓日本大使館前に設置された《平和の少女像》が含まれることが明らかになったことだ。一日に開幕してからは、同作品だけでなく、昭和天皇の肖像をコラージュした自作を燃やす映像作品を展示したことも含めて波紋を呼び、河村たかし名古屋市長や、松井一郎大阪市長が展示内容を批判。菅義偉官房長官文化庁トリエンナーレへの補助金交付について「事実関係を確認・精査した上で適切に対応していきたい」と述べた。
これらの発言も後押しとなり、連日トリエンナーレ事務局に大量の電話抗議や脅迫が殺到した。二日早朝には、ガソリンを使ったテロを示唆する脅迫ファクスまで届き、現場の事務局機能が完全に麻痺(まひ)してしまった。
東京新聞:表現の不自由展中止 津田大介さん「回復の手だて全力で探る」:社会(TOKYO Web)

しかし、これは明らかな、

  • 歴史修正

です。なぜなら、本人が対談で言っていたように、そもそも、河村、松井、菅の発言の

から、クレームが殺到していたことを認めているからです。大事なポイントは

は、ネトウヨだけが行っているんじゃない、ということです。そもそも津田は、今回、第三者委員会から「監査」「チェック」を受ける立場の人間です。こういった人間が自称する

  • 事実経過

なるものが、そもそも「客観的評価」に耐えうるものになりうるのかを疑うべきです。
つまり、「あらゆる」ことは、現代社会には

  • 情報戦

として位置付けなければならないのであって、そこに右翼、左翼はないわけです。
私は、同様の問題を、例えば、以下の藤田直哉さんの発言にも感じます。

筒井康隆さんが90年代に行った「言葉狩り論争」のときは、「差別表現」に怒った市民たちが関係者に抗議や嫌がらせをし続けて、それが耐えられない、という感じだったけど、右左が逆転しているのに今なおパターンは同じ。なんでなんだろうねぇ……。
@naoya_fujita 2019/08/02 19:28

あのときの筒井さんは、マスメディアの「自主規制」に抗議していたんだった。その意味では、今のいわゆるネトウヨの人の言いがちな「マスゴミ」批判に通じるんだけど、しかし、筒井さんは「自主規制するな」と要求したんだから、ちょっと今の状況とは捻れてるね。
@naoya_fujita 2019/08/02 19:36

藤田さんは、筒井の「言葉狩り論争」を

  • あのときの筒井さんは、マスメディアの「自主規制」に抗議していたんだった。

と総括しているわけですが、明らかにこれは、

  • 歴史修正

です。

「差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた」(「噂の真相」九三年十月号)という筒井の「断筆宣言」の冒頭は、それ自体、きわめて文学的なイデオロギー性(すなわち、政治性)を帯びていると言えます。
その後、筒井康隆は「僕はてんかん協会が声を上げたことはいいと思っているし、論争はどんどんやればいいのです。問題なのはジャーナリズムが論争すべき土俵に僕を上げてくれなかったことなのです」(「東京新聞」九三年九月十一日朝刊)と言って、言説の方向を転換させているようです。
「超」言葉狩り論争

藤田さんは、筒井の途中からの「転向後」をとらえて、

  • マスメディアの「自主規制」に抗議

と言っているわけだが、明らかに、筒井の最初の論点は、

に対してのものだったわけで、この筒井による「芸術聖域論」こそ、今回の「表現の不自由展」においても繰り返されている「主題」なわけで、私には何も変わっていないようにしか思えない。
というか、むしろ、

  • 自主規制

の問題を明確に主題化したのは、上記の筒井に批判的な本を書いたすが秀実さんの方であることは、以下を見られればよく分かるのではないか。

彼女たちは、ここぞとばかり、最近のジャーナリズムにおける言葉の「規制」を嘆いています。確かに、「規制」にはとんでもないものが多々あることを、ぼくも知らないわけではありません、しかしそれなら、彼女たちはその場その場で、まず担当編集者と闘えばよいのだし、納得できないのなら----そういうことも多々あるでしょう----原稿を引きあげればよいのです(その後の対応も、いろいろとありうるでしょう)。そういうことをしないで、筒井問題が起こると、ここぞとばかり「やたらと『表現の自由』を叫ぶ」のは、醜悪以外のことではありません。筒井康隆を擁護する側の人たちは、日本的なジャーナリズムの環境では、なかなか編集者と闘えない(「闘う」と、仕事がこなくなる)と言って、"言葉がり" の責任を、自主規制するジャーナリズムの側にではなく、「差別糾弾」の側(たとえば、部落解放同盟)に転化する場合がありますが、本末転倒もはなはだしいと言わねばなりません。
「超」言葉狩り論争

無人警察」における「癲癇」記述について、それが差別的表現であるという日本てんかん協会の指摘は、それ自体としては、全く正しいものでしょう。簡単に言えば、筒井は癲癇という病気について無知だったというに過ぎません。そして、無知だったということについては、それを知ったなら----ひとは知らないことなどたくさんあるのですから----率直に謝罪し訂正すれば済むはずです。てんかん協会が要求していることも----当初はいろいろと過剰な要求や糾弾があったようであり、そのことに筒井康隆も過剰にナーヴァスになったようですが----基本的にはそのレヴェルのことのように思われます。
「超」言葉狩り論争

今回の事件も私には、まったく同じ

  • 構造

にしか思えません。なぜなら、ネット上の進歩派左翼が行ったレトリックは

  • 昭和天皇は「何人も(重慶空爆などで)焼き殺した」のだから、写真が焼かれることは「悪くない」

というものだったからです。筒井の問題とは上記にあるように、「てんかん」の事実を知らなかったことなわけで、それなら、たんにその事実を謝罪するだけでよかった話です。同じように、今回も

  • 単純に、天皇の写真を焼く行為が、侮辱罪や名誉毀損罪になるんじゃないのか

という素朴な、国民感情なわけであろう(もちろん、故人に対してそれが問えるのか、とか、減法学者や今の民法や裁判所の判例などからの、法律家の「常識」から、今回の程度のことは、問題ない、といった主張があることはよく分かった上で言っているわけです)。
つまり、私が言いたいのは単純な話で、

  • 左翼だって「どっちもどっち」って言ってるじゃん

というわけです。さっきから言っているように、カントが重要視したのは「形式」です。
例えば、藤田さんは、この件に関して、以下のようにも言っています。

……以上の前提の上で、「表現の自由」を守れ、という点では「表現の不自由展」を支持するけど、内容については、ある民族が大事にしている民族宗教や信仰を踏みにじるような表現はあんまり良くないのではないか、効果を考えてほしい、という気がしています。
@naoya_fujita 2019/08/94 16:54

それはそれとして、しかし、従軍慰安婦なり天皇なりへの表現で、ぼくは何一つ心をプラスにもマイナスにも動かされないのだけれど(それは先祖が戦争で死んでないとか、北海道生まれだとかの理由で)「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という発言には、想像力のなさを感じて悲しいね。
@naoya_fujita 2019/08/94 17:43

国籍も遺伝子も、「日本人」のはずなんだが。……そういう立場から見ると、「普通の日本人」という発言をする人の考える「日本」「日本人」はとても狭く、地域差や文化差を考慮に入れてないな、と感じざるを得ないよ。
@naoya_fujita 2019/08/04 17:45

上記から分かるように、藤田さんは「知識人」「インテリ」ということもあるのでしょうが、明確に

なわけです。少なくとも、日本国の宗教とはほぼデタッチメントであることがよく分かる。なぜなら、そうであったら

  • 天皇なりの表現で、ぼくは何一つ心をプラスにもマイナスにも動かされない

なんて言うことは少し考えられないからです。つまり、以前にも書いたように、明治以降から終戦までの国策による「神仏習合」政策によって、国内の宗教は、その生存と引き換えに、

  • 天皇の、なんらかの意味での、その宗教内での「聖人」化

を半強制的に受け入れさせられた、ことがあるからで、もちろん、戦後それを批判的に反省した宗派もあったでしょうが、大事なポイントは、大衆レベルの「信仰」者が、簡単にそういった

  • (宗教的)転向

を、なぜ、どういった理由で「徹底されうる」と考えるのかが、私には疑問なわけです。
ただ、藤田さんが指摘する、次のポイントは検討に値します。

公金を使ったプロパガンダという話があるけど、公金を使った文化予算のかなりの部分は日本の伝統的なものに割かれているわけでしょう。そしてその伝統文化や美を通じて、ある政治的態度への愛着が形成されていくわけだから、そっちの政治的効果を等閑視するのはどうなんだろう。
@naoya_fujita 2019/08/04 17:47

私は次のように考えます。なぜ美術館は

  • ゴミだめ

になるのか? それは美術の「市場化」が不徹底だから、となります。まず、自分を美術家として売り出そうとする人が最初に行うのが、人々を「不快」にさせて、

  • 炎上

をさることを目指した作品を作ります(今回の、あいちトリエンナーレにも、そういった「不快」にさせることを目的にしているとしか思えないような作品が、かなりの割合あると言われています)。すると、多くの人が注目しているとして、どうしても美術界の大家が何かを言わなくてはならない立場に追い込まれます。そして、その大家は、それなりの批判的なコメントを残すわけですが、そのことが、結果として、その芸術界隈において、「認められた」という称号に変わるわけです(たとえ批判的な内容でも、「その他大勢」のように無視されたわけではない、とかいう理由でw)。よって、その作者は晴れて、「芸術家」デビューです。しかし、です。その人の芸術は「やはり」売れませんw そりゃ、そうです。だって、他人を不快にしかしないのですからw しかし、それでもいいのです。なぜなら、

  • 国家

が買ってくれるからです。なぜなら、今回の「表現の自由」に対する騒動から分かるように、公的な美術館は「価値中立」を求められている、とされているのですから。もしも価値中立なら、その美術館に何が置かれるべきなのかを、選んではいけない、ということになります。じゃあ、どうするか。最近の芥川賞直木賞からも分かるように

  • 偉い先生たちの<ローテーション>

でやるしかない、ということになります。よって、絶対に一度、「芸術家」になったら、一生食いっぱぐれないわけです。国家からたかれるのですから。
しかし、その「余波」は、確実に私たちの社会を蝕みます。まず、結果として、すべての公的な美術館はほとんど

  • ごみだめ

と変わらないような、人々を不快にするだけの、<世の中の誰一人として評価をしていない>もので埋め尽されます。それによって、社会は

  • 生きづらい

場所に変わっていきます。まず、人々の「健康」がやられます。毎日、「苦痛」なものを公共空間に、どうしても目に入る場所に置かれるからです。これによって、人々の経済活動は停滞します。国民がだれもが「病気」なのですから、当然です。つまり、この究極的な行きつく先は

  • 国家の滅亡

です。
ではこれに対して、藤田さんの言うパブリックアートの比重が「伝統的」なものに多いことの「バランス」の問題をどう考えるのかになるのですが、普通に考えるなら、これは、慣習とか自然法とか(まあ、ルソー好きな人なら「一般意志」と呼びたくなるような)長い時間をかけて社会から「承認」をされてきたもの、というカテゴリーになるわけであろう。ようするに、この分類は徹底して「民主的なプロセス」に関係している。
(もちろんこれに対して、二つの側面から批判する可能性はある。一方は、だからといって現代アートが公的な補助を受けてはならないということにはならない、という側面と、他方で、だからといって、どちらにしろ「パブリックアートの矛盾」は解決していない、と。)
注意してほしいのは、私が言っている

とは(また、カントの言っていることもそうだと思っているのだが)、

  • どんな状況だろうと「表現の自由」を強制することで、結果として、京アニの事件が起きることすら<やむなし>と考える連中

のことです。もっと言えば、今回の「表現の不自由展」の中止に

  • 怒った

全ての人のことです。私は、こういった連中こそ真の「(悪い意味での)ポピュリスト」と考えているわけです。また、別の言い方をさせてもらうなら、

  • どんな状況だろうと「表現の自由」を強制することで、結果として、人類が滅びることをすら<やむなし>と考える連中

のことだと言ってもいいです。
例えば、ネット上では、以前に話題になった、ラノベ二度目の人生を異世界で』の紙媒体が出版停止になった事件に

  • 怒って

いる人が多く見うけられました。しかし、これは(上記の文脈から考えたとき)、本当に「表現の自由」の問題だったのでしょうか?

観察者網は「小説内のあちこちで、主人公が中国を侵略し3000人以上を虐殺した日本軍兵士である
ことが暗示されていた。その日本の作者がついに謝罪した」と伝えた。
「中国人怒り心頭」の日本のラノベ『二度目の人生を異世界で』、作者が謝罪=テレビアニメの声優は続々降板―中国メディア - ライブドアニュース

まず、ネット上の中国の人々がどういった「うわさ」をされていたのかは、ここでは重要ではありません。必ず、「うわさ」には、尾鰭がつくからです。そうではなく、中国の

  • ジャーナリズム

が、どう報道していたのかが重要です。そこでは、上記にあるように

  • 暗示(小説内のあちこちにある)

という言葉が使われています。それに対して、出版社と作者はどう対応しているでしょうか。

二度目の人生を異世界で」の一部表現についても「自らの拙い文章表現と軽率な発言により、不快感を与える文章となってしまっている」と謝罪し、小説投稿サイト「小説家になろう」上の該当箇所の公開を停止して内容を精査すること、書籍版に関しても修正を行えないか出版社と相談することなどを明らかにしたと伝えた。
「中国人怒り心頭」の日本のラノベ『二度目の人生を異世界で』、作者が謝罪=テレビアニメの声優は続々降板―中国メディア - ライブドアニュース

つまり、作者のコメントにある「軽率な発言」が、上記の「暗示」に対応していて(作者の過去の嫌韓、嫌中発言に対してではない)と解釈できるわけで、そうだと考えるなら、ネット版の方で、

  • 削除されている個所

がどこなのかを考えるなら、やはり、作者と出版社がこの作品に対して「謝罪」をしているのは、「94歳(南京事件に参加した朝香宮鳩彦王)」「3712名(1937年12月という南京事件の日時を示唆)」であると考えるのが自然なわけであろう(そもそも、こういった「うわさ」がでていながら、出版社も作者もそれをパブリックに否定していないことがその証拠なわけで、もしもこれが嘘っぱちなら、それを否定しないことの方が自分たちの名誉のためにもやらないのがおかしいわけだから)。
しかし、です。ここから、この話は今回の「表現の不自由展」と似てくるわけですが、もしも作者が、

と言って、一切の謝罪をしなかったら、どうでしょう? というか、もしも作者が「こんなことで謝罪をしてはいけない。そんなことをしたら、<表現の自由>が侵されてしまう」、と考えたのなら、徹底して、出版社を相手どって、裁判をやるなり、版権を出版社から奪い返して、他の出版社に売り込みをするなり、すればいいわけでしょう(そして、上記にもあるように、それこそが、すが秀実さんの筒井批判だったわけで)。
しかし、そうはしなかった。だから、作者は批判されるんでしょうか? それも違う。なぜなら、上記にあるように、これは作者が「反省」をして、作品の書き換えを出版社に

  • お願い

をした形になっているから。
先ほどから強調しているように、大事なことは、カントが主張しているように、その「形式」にあるわけです。このことは、すが秀実さんが、筒井に対して、たんに「てんかん」に対する無知を謝罪すればよかった話なんだ、と言っていることと対応しているわけです。
ここで、もう一度、津田さんのコメントを考えてみましょう。

----展示を不自由にしているのは権力による検閲ですか。
「国家などの権力が表現の中身に介入するのが、一般的な検閲のイメージでしょう。今回『日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない』と言った河村たかし名古屋市長が典型です。しかし僕は、日本で表現の自由を強く脅かすのはむしろ『集団的な自己検閲』ではないかと考えます。現場側が忖度をしたりトラブルを避けたいと考えたりすることで、結果的に特定の政治的な表現が排除されていくような現象です」
不自由展中止が投げかけたもの 津田大介氏、改めて語る [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

他方において、津田さんは以下のようにも述べている。

大村知事も筆者も今回の件は政治家の圧力による「検閲」は否定しており、今回の件は「表現・文化・芸術に対する攻撃」であると認識しているが、参加作家たちからは今回の措置が(結果的にであったとしても)「検閲に加担した」と見られているということだ。このことは重く受け止めなければならない。
東京新聞:表現の不自由展中止 津田大介さん「回復の手だて全力で探る」:社会(TOKYO Web)

お分かりだろうか? 津田は

  • 河村、松井、菅の発言は、今回の中止の「原因」ではない(つまり「検閲」ではない)

と言っているわけで、じゃあ、さんざん「検閲」「検閲」と騒いでいたことはなんだった、ということになるわけであるが、もしも今回の中止が「検閲」の結果であると言ったなら、まず

  • 少なからず都知事と津田は、この「検閲」に参加したという意味で、罪をまぬがれない

ということになるし、もしもそれが「どうしても逆らえなった」と言うなら、

  • 河村、松井、菅の少なくとも一人は裁判で訴えなければならない(中止に追い込まれた「損害賠償」を争って)

ということになるだろう。しかし、それもやらない。そこで津田がとりだしてきた理屈が

  • 自己検閲

という「仮説」になる。大事なことは、津田は「中止に追い込まれた」と言っているんだから、その「損害請求」を少なくとも誰かに対してやらなければならないわけです。なぜなら、これは

  • 公的なお金(税金)

で行われる事業なのですから。まず、石油缶を示唆してFAXを送ってきた人は、すでに逮捕されているわけで、津田さんはこの人には損害賠償の裁判を起こさなければならないでしょう。また、それ以外の津田さんが「脅迫的行為を匂わした」と呼んだ人たちとも、その人が逮捕されるやいなや、それが必要でしょう。また、津田さんが「恫喝的」なしゃべり方でオペレータを精神的に「止めたい」と言わしめた人も、その人が逮捕されたら行わなければならないでしょう。なぜなら、それも「中止」の決断の原因だったと津田さんが言っているのですから。
大事なポイントは、津田さんや都知事にしても、上記のラノベの作者にしても、なんらかの

  • 間接的

な「因果関係」によって、

ということです。しかし、そうでありながら、それに「戦っていない」のは、むしろ、津田さんや都知事であり、ラノベの作者の方なんじゃないのか、とも言えるわけです。津田さんの今回の、さまざまな挙動を見る限りにおいても

  • あえて<世の中>を自分に中止をせざるをえないように「世論誘導」して、ほとんど自主的に中止をしたことを<隠蔽>したのではないか

という疑惑が濃厚なわけで、私はそういう意味で、上記の朝日新聞のインタビューアが批判していたように「表現の自由を後退させた」というのは、むしろ、こういう意味において、と考えるわけである...。