青葉という人間

東浩紀先生は以下のように、京アニ事件を総括する文章の中で、「京アニ」とはなんだったのかをまとめている。

京アニは1980年代に創業した古いスタジオだが、一般的な知名度を獲得したのはこの15年ほどのことだ。視聴者の生活と連続したリアルな風景を舞台とし、等身大の主人公を動かす繊細な描写が評価された。年配の読者の方には、アニメというと「ヤマト」「ガンダム」といった男性的なSF作品をイメージする方が多いかもしれない。むろんいまでもそのような作品は作られているが、2000年代以降は、「日常系」といわれる穏やかで中性的な作品が増えていた。京アニはそのトレンドを牽引していたスタジオだった。
東浩紀「京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

これは間違ってはいないが、『動物化するポストモダン』の作者としては、京アニと「key作品」との関係にこそ示されている、ある意味における

  • 原点

の問題を振り返らなければ、何も言ったことにはならないのではないのか、といった印象を受ける。つまり、それはアニメというより(もちろん、アニメでもいいのだが)、エロゲーだった。少なくとも、

の三つについて言及しないことには、京アニとはなんだったのかの命題に答えたことにはならない印象を受ける。

たいへん痛ましい事件が起きた。京都市伏見区の「京都アニメーション」(京アニ)のスタジオが40代の男性により放火され、35人が亡くなり、多数の負傷者が出たのである。本稿執筆時点では詳しい動機は明らかになっていないが、怨恨による犯行と推測されている。
東浩紀「京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

こういった

  • まとめ

はそういった文脈で考えたとき、今回の「本質」をついた分析とは、どうしても思えない。

  • 青葉とは何者だったのか?

しかし、このことを問うこととは何を意味しているのか。どちらにしろ、苦い何かが残される。

小学生から高校生にかけて、父と兄、妹とともに旧浦和市(現さいたま市)で過ごした青葉容疑者。ゲームが好きで、同級生の家を行き来する、活発な小学生だった。だが、中学に入ると別の同級生の男性が「ほとんど学校に来ていなかった。顔も見たことがない」と明かし、周囲の青葉容疑者に対する印象が急激に薄くなる。
その後は埼玉県立高校の定時制に通いながら、10代後半は平成7年から約3年間、県の非常勤職員として勤務。庁内に届いた文書の仕分けを担当した。
この頃、青葉容疑者の生活に大きな影響を与えたことが起きた。個人タクシーの運転手だった父の死だ。業務中の死亡事故で負うことになった賠償金が支払えず、自殺を選んだという。
この後、青葉容疑者ら3きょうだいの生活は困窮を極め、当時暮らしていたさいたま市内のアパートの家賃を滞納。追い出されるように出ていった。20代の大半は、同県春日部市のアパートに住み、コンビニで働いた。
京アニ事件1カ月(上):不可解な敵意 男を凶行に駆り立てたものは 京アニ事件、容疑者の生い立ちからひも解く(要約) - ITmedia NEWS

私にはよく分からないのだ。比較的に、裕福な子ども時代を過して、東大にまで入って、大学教授にまでなって、いわゆる一つの

  • 社会的な<成功>

を収めたような人が、上記のような青葉のような人間にそもそも

  • 共感

するのだろうか? 彼のような人生を「かわいそう」と思えるのだろうか? 東先生は以下のようなことを言っている。

京アニは、いわば現代日本の「やさしさ」や「繊細さ」を象徴する場だった。そのような場が、理不尽な暴力によって破壊されてしまったのだ。この事件が後世、時代の変化を先取りしたものとして振り返られることのないようにと、願わずにはいられない。
東浩紀「京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

筆者自身、京アニ作品には思い入れがあり、事件を知ったときは怒りに身が震えた。けれども、「テロに屈しない」と拳を突き上げ、憎悪を駆り立てるのは京アニのスタイルからもっとも遠い。京アニから学んだ「やさしさ」を忘れないこと、それこそがテロへの最良の抵抗なのではないかと思う。
東浩紀「京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」〈AERA〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

ここで東先生は、青葉の暴力が「京アニのやさしさ」を壊した、と総括する。そして、この事件が

  • 時代の変化を先取りしたもの

となることのないようにと願う、とまとめる。そして、この「京アニのやさしさ」が「テロへの最良の抵抗」になる、と願望的に語る。しかし、そうなのか? まさに、京アニこそ

  • 青葉の「不幸」

に共感的な作品を次々と作っていたのではないのか。だからこそ、青葉は京アニの作品にここまでこだわらずにいられなかったのではないのか。
ひとつだけはっきりしていることは、東先生が言っている

  • 優しさ

には、

  • 青葉の人生

を「かわいそう」と思う<共感>はない、ということなのであって、しかし、京アニ作品にはそれがある、ということなのであって、このお互いの「すれ違い」がなんなのか、なのだ。ひたすら東先生が未来に

  • 願う

ことは、ただただ、「第二の青葉、第三の青葉が現れないように」でしかない。そこには、「青葉の人生」や「青葉の不幸」を考える視線は一切ない。東先生にとって、青葉は、ただただひたすら

  • どうでもいい

のだ。彼が興味があるのは、ひたすら「京アニが残す、アニメという<芸術>」であって、それを礼賛することしか考えていない。他方、京アニは、そのまったく

  • 対極

を見ていると言ってもいい。京アニにとって、自分たちが作る「作品」なんて、どうでもいいのだ。ただただ、彼らが考えているのは

  • 青葉のような不幸な人生

を生きる人たちへの共感の心であって、そこにしか、彼らが作品を作りたいと思う動機がない。そして、そのことを私たちは

から学んだのだ...。