以下の方のブログの記事は、「「パブリックアートの矛盾」という詭弁」というタイトルになっていながら、ここで問題にしている、宮台真司が指摘する意味での「パブリックアートの矛盾」を否定していない。
どうも宮台さんはパブリックアートの概念を,政府や自治体がお金を出して主催する芸術イベントに限定してしまっている。だから,パブリックアートの起源をWiki的に世界恐慌期の米国の公共事業に求めるのだろう。そういう限定条件をつけて解釈するなら,確かにパブリックとアートのねじれは存在するが,
「パブリックアートの矛盾」という詭弁 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
しかし、そう認めておきながら、以下のように反論もしている。
さて,パブリックアートを税金との関係に限定した意味で解釈する宮台さんが言いたいのは,税金を使う公共的な芸術イベントの内容は,国や政府がさまざまにチェックする権限があり,また国民・住民も口出しする権利があるということであろう。つまり表現の自由といえども無制限と言うわけにはいかないということである。
しかし,である。国民・住民の税金を使うイベントだからこそ,憲法が保障する表現の自由を最大限に認めるべきだという主張も成り立つわけで,
「パブリックアートの矛盾」という詭弁 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
だから、宮台は
- 矛盾
と言っているわけであろうw 上記の二つが「両立ない」場合があるから、どうしたらいいのか、っていうことをずっと話してきたはずなのに、この人は何を言ってるのだろう?
さらに奇妙なのが、それ以降の議論だ。
宮台さんが主張するような,税金を使う芸術イベントには何らかの工夫や規制が必要だという議論は,杉田水脈が国会でやっている科研費バッシングに根拠を与えるものだろう。明らかに宮台さんと杉田水脈は同じ方向を向いている。すなわち杉田は,科研費を使った慰安婦やフェミニズムなどの研究を「反日」活動と決めつけ,そういうものに税金を使うのは怪しからんと国会の場でイチャモンをつけて,その種の学術研究に攻撃を加えているわけである。
「パブリックアートの矛盾」という詭弁 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~
ここで急に、宮台の主張は「杉田水脈と同じだ」という
に主張が急展開する。このブログ主の考えを推察するなら、宮台の主張には「奇妙な」、うまく説明できない内容があるから、これを合理的に解釈するには、こういった「陰謀」が隠されていなければ「辻褄が合わない」と言いたいのだろうが、いずれにしろ、その根拠はどこにも説明されていない。
杉田水脈問題とは、憲法23条の「学問の自由」の問題だ。つまり、大学「自治」を認めなければならない、という議論である。対して、宮台問題は「パブリックアート問題」であって、ここでの対象は「表現の自由」の方だ。
つまり、ここでの議論にニアリーイコールな議論は、「博物館の展示物の選択」に対する、博物館員の人たちによる、作品選択に対する「自治」であり、「図書館の閲覧図書の選択」に対する、図書館員の人たちによる、作品選択に対する「自治」であって、こういった性質のものと
- 学問の自由
を、まったく「同値」に議論することには、欺瞞が感じられる(もしこの二つが同じだというなら、憲法の条文は一つでいい、ということになるだろう)。
そもそも、宮台はなんと言っていたか?
ところが81年、リチャード・セラの「傾いた弧」問題が起きる。ニューヨークの広場に設置された巨大なオブジェが、倒れそうで不安だとして反対運動が起き、撤去されます。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル
住民や政治家は日常になじむものを求め、「心に傷をつける」非日常的作品には抗議しがち。アートとパブリックのねじれです。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル
これに対して、津田が具体的になんと言っていたのかを思い出してもらいたい。
大村知事はトリエンナーレに関しては依頼があったときからずっと「金は出すけど口は出さない」と言い続けている。そして、いまだにそれを貫いてくれている。その立場があったから、僕はこの企画を上にあげていったわけです。大村知事がそこまで言ってくれているなら、本当にできるのかやってみようという気持ちがあった。
あいちトリエンナーレ津田大介芸術監督インタビュー|平和の少女像問題、そして「組織化したテロに屈した」という発言の真意語る - 骰子の眼 - webDICE
つまり、津田が何をやったのかを上記の宮台の挙げている例に合わせて比喩的に述べると
- 大村知事が、「表現の自由を守る」と言ったから、実際どこまでそれが可能なのかを<試して>やる。巨大な、今にも倒れて住民に怪我人が続出しそうなオブジェを展示してやる。
ということでしょう。
どう考えても、テロの危険性がある展示を行って、実際にテロが起きて、多くの損害が発生したら、誰がその
- 損害賠償
を行うのか? 津田の考えは、それは「愛知県」が行う、ということになる。しかし、もしもそういった危険性が、あらかじめ予測できていたなら、それに見当った
を敷かなかった「責任」はどこにあるのか、ということになるだろう。しかし、津田は今回、徹底して、
- 秘密主義
を採用した。
韓国の少女像展示などをきっかけに「表現の不自由展・その後」を中止した「あいちトリエンナーレ2019」の事務局が、記事や番組の事前チェックをメディア側に求めていたことが分かった。「表現の不自由」と銘打ちつつも、事務局自らが記事を「検閲」するかのような対応に、メディア側も困惑している。
「表現の不自由」あいちトリエンナーレが「記事検閲」(オルタナ) - Yahoo!ニュース
同時に「表現の不自由展その後」に作品を出品していた彫刻家で、文化女子大学教授の中垣克久さんさんがインタビューに応じ、事前の作家名や作品名の公開を伏せられたこと、作家として当然抗議したところ「情報が洩れると企画がつぶされるから」といった説明があったことなどに言及していました。
「慰安婦」炎上狙いでテロ誘引、膨大なコスト増 あいちトリエンナーレ大失態と欧州が払っている膨大な経費(1/6) | JBpress(Japan Business Press)
つまり、津田が多額の警備費用をかけることを嫌がったのは、それによってこの展示会が
- かなり「ヤバイ」展示物が展示される
と国民から疑われて、そもそも展示会が開催できなくなることを嫌がったから、ということになるだろう。つまり、開催するやいなや
- 予想通り
に大量の「クレーム」が来たし、もともと「少しの」警備体制しか敷いていなかったから、展示物を焼かれる可能性や、見物に来る、家族づれを含めた民間人への危害の可能性が顕在化してきた時点で
- もしも、このまま展示を続けて、自分たちに「損害賠償」が発生する可能性がある(そもそも、予想されていたのに、それに対応した警備をしていないのですから)
となった時点で、自分たちで展示をひっこめざるをえなかったわけであろう。
宮台が言っていることは
- 民主主義
である。つまり、「見える化」である。ある絵画があって、それがパブリックな場所、つまり、だれもが、いつも目に入るような場所に置かれることになったとする。しかし、その絵画が、あまりにも気持ち悪いものであったために、多くの住民が
- 体調を崩した
とする。つまり、住民の「生活レベルの低下」が起きたとする。しかし、その絵画を「撤去」することは、表現の自由の後退になるんだから
- 絶対に撤去は認められない
となった場合、もしもそれによって、ほとんどの国民が「死ぬ」ことになったとしよう。さて、こういった場合においても、絶対に、作品の撤去は、あってはならないだろうか?
その作品はそもそも、その人のプライベートな場所にあること、例えば、家の中にあることに対しては、誰も文句を言っていない。今回の「表現の不自由展」の作品も、民間の美術館であったなら、展示できただろうと、津田自身も言っている。こういった場合、それを本当に
- 検閲
と言うのだろうか? 「作品の撤去」が、自動的に「表現の自由の毀損」になるという考えを、私は
と呼んでいるわけで、いや、お前のプライベートな場所で、いくらでも「表現できている」ものに対して、そのような憲法の適用をすることには、どこかに矛盾があるんじゃないのか、と疑うべきなんじゃないのか、と思うわけである。
ではここで、そもそもこういった問題は、現代社会においては、どのように処理されているのか、といった視点で考えてみたい。
図書館が、ある、べらぼうに高い本を買って、その図書館の所有物にしようとしたとする。しかし、その予算は、ほとんど、例年、その図書館に割り当てられていた額に匹敵して、その本を買ったがゆえに、その図書館はその年、一切の、その他の本の購入ができなくなったとしよう。そうした場合、結果として、その図書館はその利用者である住民に
- 多大な不利益
を与えたことになるだろう。
ある理論物理の基礎理論を証明するための実験を行うための実験器具を製造することになった。ところが、その機械の製造には、例年の、一切の教育予算に匹敵する金額になったために、国家は、国民への教育サービスの低下を強いられた、とする。この場合、国民はこの教育サービスの低下に
- 反対
する権利はあるのか?
そもそも美術館とは、法律的には、「博物館」に準じる施設、としての定義しか与えられていない。対して、博物館がある歴史的遺産を買うとき、それが国民によって理解されることには、
- それを博物館が買うことによって、大事な「情報」が民間の中で散逸すること防ぐ
といった場合と考えられるであろう。対して、美術館が近年、非常に高額な作品を買うケースが見られる。その場合、どういった理屈でそれを正当化しているかと考えてみると
- その「目玉」作品によって、多くの<観光客>を見込めて、経済活動を活発化して、国益になる
といった筋道が見られる。
このことは、上記の理論物理の基礎理論のケースにも通じるところがあって、それだけの高額のお金をかけることによって、なんらかのアカデミックな世界的に重要視される成果が挙げられるのであれば、正当化される、といったケースと考えられる。というのは、そもそも国家が、大学などに多くの補助金を投入しているのは、そういった「学問の進歩」を達成するためなのであるから、お金を
- けちって
なんの「学問の進歩」もしないのであれば、本末転倒だ、と考えることもできるからだ。
さて。この議論を、今回の「あいちトリエンナーレ」に敷衍するなら、津田は「表現の不自由展」の作品を
- 自分は<価値>を認めていない
なんて絶対に言ってはいけなかったのだ。
作品選択の規準は「過去の展示不許可」であって、トリアンナーレが「いい作品」と推したわけではない。津田さんは個々の作品に行政が賛意を示しているのではないとも明かした。
抗議殺到し展示中止、悪しき前例「難しい社会に進んだ」:朝日新聞デジタル
もしもこの作品展示を
- 民主主義的に
正当化するなら、少なくとも当事者の誰かは、この展示品の「価値」にコミットメントしなければならなかった。これだけ、この作品には「価値がある」から、展示をするんだ、と言わなければならなかった。つまり、当事者による、こういった
- 判断
によって、
- だったら、それだけのお金をかける「価値がある」
という民主主義的な「支持」を集められることによって、一定のボリュームの国民の賛意を後押しによって、作品の展示は最終日まで行われることを勝ち取れたかもしれないが、最初から
- 誰も
この作品が「良い」と言ってないんだから、そんな
- ゴミかもしれないもの
をなんで、国民が「それだけのお金をかける価値がある」と考えて、支持してくれると思えるのかね...。