タカヒロ『鷲尾須美は勇者である』

私が今さらながら、アニメ「ゆゆゆ」について、改めて考えてみようと思ったのは、以下のニコニコ動画を見て、ここで、非常に重要なキャラとして、

  • 三ノ輪銀(みのわぎん)

のことに言及されていたからなのだが、

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『刀使ノ巫女 刻みし一閃の燈火』まだまだまだまだ生放送するよ 2019夏 - 2019/08/28 20:30開始 - ニコニコ生放送

正直、ゆゆゆはオンタイムでは、さっさと1、2話切りをしていた印象くらいしかないw
ということで、あまり詳しくない人のために、諸関係をまとめておくと、

ということで、このアニメの三作品と、掲題のラノベを見てみた印象としては、私としてはちょっと意外な印象を受けた。というのは、明らかに

  • 「結城友奈の章」と「鷲尾須美の章」

はテーマとして一貫している。しかし、

  • 「勇者の章」

はなにか突然、違うテーマに変わっている印象を受ける。つまり、この二つで言いたいことが変わっている。特に、「勇者の章」の最終話とその一つ前くらいから、明らかに

  • なにかが変わっている

ことを、ほとんど自明なまでに印象としえ受けるわけである。
つまり、どういうことか?
この作品を特徴づけるものとして、東郷美森(とうごうみもり)の存在がある。彼女は、変わった趣味というか、「お国」の国防関係に深い知識をもっていて、油断をすると、その知識が暴走するところがあるw この設定はあくまでも、

  • キャラ

としての設定であって、周りもあくまでも「そういったもの」として、つまり「個性」の範囲でしか受け止めていないわけだが、よく考えてみると、これが何を意味しているのかは、見ている若い人たちには、ピンとこない設定だな、と思ったわけである。つまり、これは

  • フラグ

であることを意味する。「結城友奈の章」の何話だったかは忘れたけれど、東郷美森(とうごうみもり)の口から

  • 護国思想

という言葉が発せられる。この世界は、現代から見て、はるか未来の日本であるわけで、しかし、ここで、東郷さんが興味をもっていると言っている「護国思想」は、

のものなわけであるが、そもそも、これを見ているのは、子どもたちである。このまま、これが「なんなのか」の説明がなく、作品が終わることは明らかにバランスが悪いわけである。
そう考えるなら、どういう形であれ、「護国思想とは何なのか」を、この作品は説明をしなければならなかったことは間違いないわけで、それが「三ノ輪銀問題」だった、と言うことができるだろう。
さて。そうした場合、この三ノ輪銀の死は、私が以前から問題にしている「サイコパス」問題のカテゴリーで考えるべきものだろうか? 私はこれも少し違うように思っている。ここでのサイコパス問題とは、作者の「態度」に関係している。なんの文脈もなく、突然作者は、主人公の「僕」を<成長>させるために、ヒロインを(メタの意味で、作者が)殺す。このヒロインの死は、言ってみれば、なんの文脈もなく「突然」訪れるのにも関わらず、作者は観念的に、つまり、主人公自身が

  • 自分はヒロインの死によって「成長できた」

と作中で語らせることになる。つまり、主人公がヒロインを「手段」として成長のために使い倒す「構造」に、作者がサディスティックに企む、という関係になっていることを私は「サイコパス」と呼んだわけである(代表的な例では、コードギアスのシャーリーであり、ノルウェイの森が分かりやすい)。
三ノ輪銀の死は、ある意味で、この作品を見ている最初から、どこか

  • 予測

されていた事態のように受けとられ、実際にナレーションによって、彼女の死は何度も、ほのめかされている。つまり、少しも隠されておらず、少しも突然ではない、という意味で、もう少し違った目的によるものだと考えなければならない。
つまり、三ノ輪銀の死は、WW2における日本の「護国思想」との

  • 対決

を意味している、と考えなければならない。

銀の脳裏に、家族の顔が去来した。
赤ん坊の弟。
今ごろ、すやすやと眠っているだろうか。
愛情こめて育てて、忠実な姉の手下にしようと思っていた。
いつか、自分の活躍を聞いたら、お姉ちゃん超かっこいいって言ってくれるだろうか。
光の矢が、動きを止めるように、銀の足を貫いた。
バランスを崩して、倒れそうになる。
しかし踏みとどまった。
倒れている暇などない。
歯を食いしばって、少女は攻撃を続ける。
とっくに限界を迎えているはずの体は、不思議と、まだ動いてくれている。
視界が霞んできた。
攻撃をやめるわけにはいかない。
須美、園子、家族、弟、学校、友達。
皆を守るんだ。
無我夢中に、斧を振り回す。
言葉にならない銀の咆哮が大橋に木霊する。
やがて、銀の意識は白い光の中へ飲まれていった。

私たちはこの死を前にして、たんに嫌悪感を抱くだけでもなく、その勇敢さに感動するのでもない。これは

  • 罠(わな)

なんだということを自覚しなければならないのだ。つまり、こうやって「他者を操る」のが、宗教なのであって、私たちは真剣にこの

  • 思想の強度

に正面から、立ち向かわなければならないのだ。三ノ輪銀の死は「魅力的」である。だからこそ、それではダメなのである。なんらかの形で、私たちはこの戦前の亡霊に、決着をつけなければならない。これをたんに礼賛することはもう、この戦後世界ではできないのであって、その難しさの「強度」において、こうして三ノ輪銀問題は私たちにその「戦闘行為」を求めているわけである。
ここで、もう一つ補助線を引いてみよう。作者のタカヒロは、漫画「アカメが斬る」の作者でもある。しかし、この「アカメが斬る」の世界観を考えたとき、第一巻で描かれた、サディスティックな悪人の「悪」のパワーと、それに立ち向かう側のパワーのバランスの崩壊にこそ、その関心があったわけで、そう考えてみると、こういった視点は、「結城友奈の章」の後半の、主人公たちが次々と、勇者システムを使った、超人化という代償としての一部の身体機能を失う形において、現れていると考えられるだろう。しかし、こういったアイデアと、ここでの

  • 護国思想

の問題は、それほど関連していない印象はある(もちろん、暴力の悲劇という意味では関連はあるが)。
そう考えたとき、おそらくタカヒロのアイデアにおいて、三ノ輪銀の死は、それほど大きなテーマではなかったんじゃないかと思えてくる。少なくとも、タカヒロの最初のアイデアは、最新の勇者システムによって、勇者が次々と一部の身体機能を失っていくことも「理不尽さ」にあったはずなのだ。そう考えれば、三ノ輪銀は作品の副産物である。
しかし、である。
そう考えると、少し違和感も覚えるわけである。それは、2014年と2018年の、それぞれの作品の雰囲気の違いなのだ。
2014年側のアニメ「結城友奈の章」と、掲題のラノベには、あまり

  • 戦うことへの「怒り」

のようなものは感じられない。それは、上記のタカヒロの「アカメが斬る」の一貫して示されている世界観とも似ていて、むしろ、ここで関心を示しているのは、

  • なにを「犠牲」にして、何を得るのか?

といったような、「トレードオフ」の理不尽さのような形になっているわけで、ようするに、正義の側であり、善人が、そうでありながら、「悪人」とトレードオフのような形でしか、自分たちの目指したい理想を獲得できない、という「リアリティ」なわけであろう。おそらく、タカヒロは、こういった「マゾキズム」や「サディズム」に興味のある人なわけで、2014年側には、そういった問題意識はよく感じられる。
対して、2017年側の、アニメ「鷲尾須美の章」とアニメ「勇者の章」には、露骨に

  • 大人たちへの<嫌悪感>

が感じられる。これは、おそらく、作品の制作側が、「世の中の雰囲気」を非常に敏感に感じたのではないだろうか。つまり、

  • 三ノ輪銀の死

があまりにショッキングだったために、上記のようなタカヒロのデリケートな問題意識は、どう考えても、作品の主題にはなりえなくなっていった。
そう考えると、特に2017年側の構成は非常に、アニメ「天気の子」に似ている(というか、アニメ「天気の子」は、この作品にかなり影響を受けているのではないか。実際に、「人身御供」や「人柱」がテーマとなっているわけで)。
2017年側の、特に「勇者の章」の後半では、主人公たちは明確に

  • 「人身御供」「人柱」の否定

がテーマとなっている。しかし、そう考えてくると、この転換点はどこにあったんだろう、と思わなくもないわけである。

「今は、生きているわっしーの気持ちを優先してあげたいんだ〜」
「そ、園子様......」
「全部を知った勇者達が何を為そうとするか......勇者の皆に、やりたいようにやらせてあげたくて......気持ちは分かるなんてもんじゃないからね〜」
「それでは最悪、世界が......」
「じゃあ......何。勇者になって、わっしーやその友達と戦えって......?」
園子は真顔で言い放った。
「ふざけないでよ」

上記のラノベのこのくだりは、連載時にはなかった、単行本化される段階でつけ加わった部分である。ようするに、ここで始めて

  • 怒り

が明確に子どもたちの態度として示されている。
つまり、アニメ制作側も、最初はタカヒロの意図がどこにあるのかを、測りかねていた部分があったんじゃないのか。タカヒロは護国思想を肯定しちているのか、否定しているのか。これが、2014年側は一貫して曖昧だったのだが、この個所が作者によって書かれたことによって、一気に、2017年側のテーマがはっきりした、つまり、

  • 大人が強いる「子どもの自死」の強制に対する「否定」=子どもの大人たちとの「戦い」

といった印象を受ける。
この勇者システム。ヴァーテックスという未知なる敵との戦いは、ようするに

  • 大人たち

が用意した「VR(ヴァーチャル・リアリティ)」と考えるべきものだ。ではなぜ大人は、子どもを「神への供物」とするような、こんな残虐なシステムを維持しなければならないのか。それは、それによって

  • 大人を支配する

からだ。三島由紀夫が短編小説において、チャイルド・クルセイダー(子ども十字軍)に注目したように、子どもとは

  • 人間の最も「大事」が対象

であるがゆえに、だからこそ、大事だからこそ、それを

  • 捧げ物

とすることが、神学においては意味をもつ。つまり、そうであればあるほど、その神は偉大な神なのだ。ある日、ひどい飢饉がきて、一切の農作物がとれなくなって、それでも必死で生きようとあがく人間たちが行うのが

  • 神への祈り

なのであって、その「願い」が叶うのは、どれだけ神にとって大事なものを神に捧げるのかにかかっている。しかし、神にとって大事なものとはなんだろう? 言うまでもない。人間が大事なものだ。なぜなら、そうでなかったら、人間は容易に神に捧げることをためらわないだろうが、人間が大事なものには、ハードルがあるのだから、神もそう簡単には手に入らないのだから。というか、考えてみてほしい。人間に神が欲しいものなんて分かるはずがない。だとするなら、

  • 自分が大事なもの

供物として捧げることに抵抗が大きければ大きいほど、その障害が大きいほど、それは「価値のあるもの」として、人々を

  • 納得させる

のであって、そもそも神に捧げているんじゃなくて、その捧げる行為を人々に納得させることが目的なのだ。
子どもは、「より神に近い」存在と考えられる。なぜなら、大人はこの腐った現世で汚れているが子どもはまだ、生まれて日もなく、より純粋に神の身元にいた頃の属性をそなえていると理解される。その子どもたちが「自分で考えて」、神に自らを捧げるからこそ、その行いは、

  • より神の属性に近いもの

として輝かしく喜ばれ、人々を感動させる。打算のない、純真で無垢な「真心」からの行為であればあるほど、より神の意志に近いものとして尊ばれる。
だからこそ、何度も何度も、こういった子どもが「自己犠牲」を行うアニメが、反復的に作られてきたわけであり、そういう意味では、この作品はこういった作品郡の一つの洗練された進化の終着点と考えることもできるのかもしれない。
しかし、これは目的が逆なのだ。子どもが自ら「自己犠牲」を行うことによって、この大人たちが作ったシステムは、

  • 大人たちをこそ「支配」する

わけである。魔術は自然を変えられないが、「人間」を変えることはできる。この人間支配の「道具」として、子どもの自己犠牲を、宗教が他者支配のために

  • 利用

するわけである...。
(上記では、この作品を批判的に分析をしたわけであるが、やはりこの作品は「奇跡的」に傑作になったんだと思っている。銀の死を、最初から、護国思想で(津田大介の、あいちトリエンナーレのように)打算的に描いていたなら、あそこまでの傑作にはならなかったのではないか。そうではなく、作成者側が、ある意味で、ストーリー構成上、そこに追い込まれっていった。本来は違ったものを描く考えで始めたにもかかわらず、どうしても、銀の死を描かなければならない場所に追い込まれていったことによって、この大傑作は生まれたのだと思う。)

鷲尾須美は勇者である

鷲尾須美は勇者である