「表現の自由」は矛盾しているか?

表現の自由を「なにを言ってもいい」と同値だと考えると、次のような困った例が生まれてしまう。

  • 差別発言は「表現の自由」から認められなければならない

まず、これを考える前に、三権分立の近代国家がどのように作られているかを確認しておこう。
まず、近代国家は「法治国家」でもある。これは、ひとまずは、

  • 公務員は法律に根拠がないことを行えない

と整理できる。次に、近代国家は「立憲主義」でもある。これは、ひとまずは

  • 憲法は国家を縛っているのであって、憲法が直接、国民を縛っているわけではない。

と整理できる。それでは、憲法第14条と第21条を見てみよう。

第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受けるものの一代に限り、その効力を有する。
Article 14. All of the people are equal under the law and there shall be no discrimination in political, economic or social relations because of race, creed, sex, social status or family origin.
Peers and peerage shall not be recognized.
No privilege shall accompany any award of honor, decoration or any distinction, nor shall any such award be valid beyond the lifetime of the individual who now holds or hereafter may receive it.
日本国憲法の条文

第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
Article 21. Freedom of assembly and association as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.
No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.
日本国憲法の条文

第21条は、まず

  • 集会、結社及び言論、出版

という「例」を挙げて、これらを含む

  • forms of expression

を保障しないと解釈できる法律を国会は作ってはならない、と解釈できる。そう考えると、そもそも翻訳ミスなわけで

  • 表現形式の自由

が正しいわけである。

  • assembly という形式
  • association という形式
  • speech という形式
  • press という形式

を、と言っているわけで、「assembly」「association」が、

  • デモという形式

を含んていることも分かるし、

  • 電子メールという「形式」

も認めているし、こういった

  • ある形式において表現されている表現物を「一律」に禁止することを国家はやってはならない、ということなのだ。

それに対して、第14条は
まず、

  • すべての国民の「法の下に平等」

を断ってから(まあ、これが差別されていない、という意味なわけだが)、その具体的な例として、

  • 人種、信条、性別、社会的身分又は門地

という属性に対応しての

  • 政治的、経済的又は社会的関係

においてと、具体的な形で、その差別の禁止を言っている。ここにおいて重要なことは、ここにはどこにも、その

  • 表現の形式

の話が関係していない、ということなのだ。つまり、これらは全て

  • 表現の内容

に関係した議論なわけで、ここが「表現形式の自由」の問題で議論されたこととの差異となっている。
ところが、である。
ここで、ある疑問があるわけである。そもそも、形式と内容は分けられるものなのか、と。
おそらく、日本国憲法の日本語の方で、この「形式」の言葉が消えているのは、この区別をすることに特別な意味はない、と考えたからなのではないか。なぜなら、もしもその形式の禁止を言うのなら、その内容だって禁止されている、と考えないと、つじつまが合わないんじゃないのか、と。
表現の形式とは、例えば、声を出して表現をする場合、文字で書いて表現をする場合、電子メールで表現をする場合、ブログで表現をする場合、ツイッターで表現をする場合。そういった

  • 表現の「手段」

に関係した議論をしていることが分かるわけで、対して「差別の禁止」の方は、そういった表現をされた

  • 結果

  • 内容

の評価に関わっているわけで、ここではその「手段」はいろいろな場合があるのだが、その差異を問題にしていないのだ。つまり私たちの「認識」においては、常に

  • 形式が先

  • 内容が後

の、前後関係になっているわけである。まず、形式があって、それがあったから、今度はそれがなんだったのか、といった内容の議論に移れる、ということになっているわけである。
そのように考えたとき、第21条の表現形式の自由の主張が、基本的には

であると受け取ることが可能なのかもしれない、と疑ってみることはできるわけである。
いや。もっと「簡単」に、このことを説明してみよう。
プラトンの知識のパラドックスではないが、私たちは知らないことは知らないわけである。つまり、それが「駄目」と言うためには、まず、「それ」について認識しなければならない。もしも知らなかったら、それが「駄目」ということすら言うことができないわけだ。私たちはまず、

  • 表現をする

動物なわけで、それができる「から」、始めて、それが「良い」のか「悪い」のかの議論ができるのであって、始めから、どっちなのかが分かっていることなんて、本質的にはないのだ。まず、だれかが何かを言う。これがあって始めて、それが

  • 差別なのかどうか

を考えることが可能なのだから、そうであるのになんで、最初から

  • 「差別は言っていい」ということが、アプリオリに言えなければならない(なぜなら、それが「表現の自由」の定義だから)

ということが分かるのか、という疑問があるわけであろう。だから、まず「表現形式」があってその上で、「表現内容」が示されたから、始めて

  • その善悪

が「評価されうる」形の結晶になったわけで、この前後は逆ではないわけである。
では、このことを、もっと簡単に説明してみるとするなら、

  • 頭の中だけであれば、どんだけ「差別発言」のことを考えても裁かれない

ということに端的に示されているわけで、なぜならこれは「表現形式じゃない」から。つまり、第21条の「表現形式の自由」は、すべての

  • 言語活動

のことを意味していない。人間の言語活動の中には、第21条の「表現形式」に含まれない部分があるわけで、まず第21条の「表現形式の自由」があるから、そこで始めて、第14条の「差別の禁止」という内容の議論が可能になっている、そしてここでの「表現形式」の判断を行っている段階ではまだ、その「表現内容」の評価を始めていないし、

  • それでいい

っていう主張なんだよね。人間はこの二段階で表現をしていて、その前代のフェーズの間は価値中立であることを認めているのだ(もちろん、そうであってはならない、という思想も考えられるだろう。あらかじめ、あらゆることを最初から、評価し見積って、

  • 全て

のことに対して、ゴーサインが出たら出発する、と。でもそんな人って、そうだからまったく行動力がなくなってしまって、残念な人になっている、というのが往々なわけでしょう。
つまり、そう考えるなら、これが

  • 矛盾でない

ということは、かなり説得的にが分かるのではないか...。