「表現の自由」の定義

もしも、「表現の自由」が

  • なにを言ってもいい(どんな表現をしてもいい)

ということなら、暴力だって、一つの「表現」と考えられなくもないのだから

  • やっていい

ということになるだろう。しかし、前回も書いたように、憲法第21条の英語版では、

  • forms of expression

と書いてあって、つまりこれをわざわざ

  • 表現形式の自由

と言っているわけで、じゃあ、なんでこんな言い方をしているのだろう、ということになるわけだ。
しかし、である。
まあ、よく考えてみようじゃないか。そもそも憲法とは「国家への命令」だとされている。それがなんで

  • なにを言ってもいい(どんな表現をしてもいい)

なのか。国家は国民の

  • なにか

を保障しなければならない、とこの憲法の条文は言っている。その何が、ここでは問われているわけで、ようするに、この憲法は国家は「何か」を禁止する法律を作ってはいけない(し、そう公務員が行動してはいけない)と言っているわけだ。
では、それは何か、ということになるけど、これは国家の「行動」を禁止しているのだ。国民の行動について何かを言っているのではない。それを、憲法第21条の第2項では

  • 検閲の禁止と、通信の秘密

を例として挙げている。ようするに、憲法第21条は、この二つと、これに「敷衍」した、あらゆることを禁止する、と言っているわけで、少しも神秘的なことを言っていない。
大事なことは、この憲法

  • forms of expression

と言うことによって、表現の<形式>の自由と言ったことによって、

  • 表現の内容

に関する条文(差別の禁止など)とは

  • 矛盾なく

憲法を成立させることを可能にしている、というところなのだ。
しかし、そのように考えたとき、この「差異」は何を意味しているのか、ということになるだろう。なぜ、このように考察は一見、憲法が「矛盾」をしているかのように、常に解釈され続けてきたのか?
このことを考えたとき、おそらく「欧米型」自然法と、「大陸型」憲法の、それぞれの解釈の違いがある、ということなのではないか。つまり、一般に「社会契約論」と言っても、ジョン・ロック型の「欧米型」自然法と、ルソー型の「大陸型」憲法の二種類がある、ということだ。
そう考えたとき、言うまでもなく、日本の憲法は、ジョン・ロック型の「欧米型」自然法で書かれている。これを無理矢理に

  • ルソー型の「大陸型」憲法

で読み替えようとしてきた、さまざまな格闘がこの「混乱」を生み出し続けてきた、と考えられるのではないか。

たとえばルソーは、「一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と断言している。ルソーがこのように言うのは、なにも大衆の良心を過剰に信じているからではない。彼の理論においては、そもそも一般意志こそが善や公共性の規準を作るはずなので、それが誤ることは定義上ありえない、そんな論理になっているのである。しかし他方で、もしいま、世論が「つねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と言われたら、だれでも首を傾げてしまうだろう。ルソーが一般意志と呼ぶものは、どうも世間で言う「世論」よりもさらにいちだんと抽象度が上がった存在のようである。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

ここでルソーが言っている「一般意志」とは、ある種の

  • 伝統

のことと考えられるだろう。つまり、「それ」を私たちは「すでに」従っているから、「正しい」と言っているわけで、事実として私たちはそう振る舞っている(慣習としてそうである)ということが、「正しい」という形で述べられている。そして、ルソーはそれが「つねに正し」い、と言っている。よく考えてみてほしい。「常に正しい」ものなんて、この世にあるのだろうか? そう考えると、ルソーが言っていることが、私たちが一般に考える

  • 言論

とは違うことを言っていることが分かるであろう。
ルソーの関心はどこにあるのだろう?

家族の概念についてまず注目したいのは、その強制性である。家族は、自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられる集団でもある。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。
ぼくはここまでいくどか、政治運動と自由意志の関係に触れている。冷戦後の左翼は、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯(根源的民主主義)に期待を寄せてきた。けれども、なんども繰り返しているように、そのような連帯は同じ理由ですぐに崩壊する。自由意志で入った集団からは、自由意志ですぐに出ることができる。それでは週末の趣味のサークルとかわらず、まともな政治の基礎にならない。
家族の結びつきはそのような単純なものではない。少なくとも婚姻以外の家族関係は異なる。たいていのひとは、生まれた瞬間に特定の家族に加入させられる。そこに自由意志はない。そしてそこからの脱出はかなりむずかしい。この強制性は一般には否定的に理解されるが(実際にそれは児童虐待などの局面では否定すべきものである)、裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだとも言える。国家も階級も、同じように強制性があった(と見なされた)からこそ、政治思想を支えるアイデンティティになっなのである。
それはつぎのように言い換えることもできる。ひとは個人=私のたに死ぬ。国家のためにも階級のためにも死ぬ。同じように家族のためにも死ぬ。だから家族は新しい政治の基礎になりうる。他方でひとは趣味のサークルのためには死なない。だからそれは新しい政治の基礎になりえない。ルソーは『社会契約論』で、ひとは一般意志のためには死ななければならないと記した。全体主義を肯定するものとして悪名が高い一節だが、しかし政治の本質を鋭くついてはいる。ルソーが一般意志の概念を政治の基礎に据えることができたのは、彼がそれを「ひとがそのために死ぬもの」だと捉えていたからである。死の可能性のないところに政治はない。いまの左翼はそのとを忘れている。
ゲンロン0 観光客の哲学

ルソーの関心は

  • 徴兵制

にある。つまり、国家がどうやって国民を戦争で死なせるのか、にある。つまり、ルソーは少しも

  • 自由

に興味がないのだ。彼はただひたすら、どうやったら、大衆を国家は操って、戦場で死なせることができるのか、と考えている。もっと言えば、ルソーは

  • 自由の反対の強制

をどうやって、「自由と矛盾しないで」国民に受け入れさせられるのか、を考えている。ところで、ルソーの『社会契約論』を最後まで読むと、ルソーは最後で、それまで彼が述べてきたことを

  • 全て否定

する。つまり、作品の最後で、ルソーはこの「一般意志」が

  • 不可能

である、という話を始める。このことは驚くべきことである。ルソーは、現代の国家ではこの「一般意志」が今だかつて実現していない、と言い始めるのだ。では、ルソーは現代の国家の正体はなんだと言っていたかというと、それが

  • 宗教

である。現代の国家が、かろうじて成立しているのは、国家が「宗教」を中心にして成立しているから、宗教国家だから、だと言う。
ルソーの主張はアイロニカルである。この不可能なはずの国家が、かろうじてであれ成立しているのは、実際には国家は、「宗教」を採用しているから、ということになる。そのことは、国家が一方において

  • 自由

を保障しながら、それが「徴兵制」といったような、国家の命令によって国民を

  • 好きなだけ殺せる

ことを「正当化」させられる、といった構造になっているわけで、ルソーはもともと自由など興味がないのだ。
一般意志とは「伝統」のことである。伝統的に、日本国民は天皇のために命を捧げてきたのだから、

  • 当然、現代の国民も天皇のために命を捧げる

というのが「一般意志」である。上記の引用で、東浩紀先生は

  • 彼がそれ(家族)を「ひとがそのために死ぬもの」だと捉えていたからである

と言っているように、なぜ彼が

  • 家族

を重要な概念だと考えているのかの理由に、

  • これによって、国民を「強制」できる

という点にあることだ、と言っているわけだが、このことは驚くべきことである。なぜなら、国家とは

  • 自由

のためにあると考えられているからだ。事実、そうでなければ、「表現の自由」を始めとする、さまざまな憲法の自由条項と矛盾するからだ。

え、家族? と、失望した読者が多いかもしれない。実際、この言葉は日本の知識人層には評判が悪い。
それにはいくつかの理由がある。まず、いまの日本では、「家族」という言葉は、それだけで保守の(それもかなり愛国主義や排外主義に傾いた保守の)価値観に結びつく特殊な政治用語になってしまっている。最近の日本では、自民党が二〇一二年に発表した憲法改正草案に代表されるように、保守勢力がさかんに「伝統的家族」の復興を謳いあげている。そのためにこうした事態が生まれている。
ゲンロン0 観光客の哲学

この個所は、よく考えてみると、欺瞞的である。なぜなら、戦前の大日本帝国こそ

  • 家族

を利用して、国民を支配していたからだ。東浩紀先生はまるでそんなことがなかったかのように、この問題に一切触れることなく、現在の保守勢力の「伝統的家族」のイデオロギーをまるで

  • 現代

に急に現れた問題であるかのように、こうやって述べる。しかし、そういった人々が家族を大事にしようとする「感情」を利用して、戦中の日本政府は、赤紙で若者を招集したし、それを

  • 故郷の家族を守るための戦争

であるかのように偽装した。そうやって、常に今までも、国家は「家族」を利用して、国民を支配してきたわけで、そのことを、ルソーはアイロニカルに認めていたわけであろう。

あらためて、テキストを読んでみよう。ルソーはじつは、部分的結社の存在を否定する箇所でつぎのように記している。

もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケーションを取らないのであれば[Si(...)les Citoyens n'avaient aucune communication entre eux]、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねにようものとなるであろう。
[......]
一般意志がよく表明されるためには、国家のなかに部分的社会が存在せず、また各市民が自分だけに従って意見を述べることが重要なのである。

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』では、彼はついにつぎのように書き留める。「この世にはもう同類も兄弟もいない。私は地球の上にいながら、見も知らぬ惑星にいるようなもので、以前住んでいた別の惑星かれあ落ちてきたような気持である」。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

ルソーのこのパラドックスは有名だが、ここで少し、「自由の定義」について考えてみよう。私たちは、一体、どうであればそれを

  • 自由

と呼ぶのだろう?
そうである。

  • 国家が国民の「自治」を認めている

のことだ。そもそも、それ以外の「自由」の定義なんて存在しないのだ。そう考えると、ここでルソーの言っていることが、まったく

  • 自由

とはかけ離れた話であることが分かるだろう(さっきから言っているように、ルソーの『社会契約論』での関心は、どうやったら国民の徴兵制、自ら進んで自殺を国民にさせられるのかに、彼の関心があったことに注意がいる)。そもそも、人が自由であることを「国家」が決めることはできない。もしも国家がそれを決められるなら、それは「強制」と「同値」だからだ。
では、自由とは何か? それは、

  • 国家が「決めない」

ということだ。国家ではなく、「別の」何かが、なにが「自由」であるのかを決める

を一定の範囲で、国家が「禅譲」するから、「それ」を自由と呼ぶのだ。つまりそれは必然的に

  • 国家内国家

の形でなければならない。なぜなら、もしも、国家が国民をたんに

  • 1対1

で管理しているなら、それは全て

  • 国家が認めた「自由」

の範囲で、つまり、籠の中の、牢屋で過していることと変わらない。そうではなく、

  • 別の主体が「決める」

ことに、国家が<介入しない>という形式をとることで、「始めて」それを「自由」と呼ぶわけである。

読者は、おそらく第一章で触れたスコット・ペイジの「多様性予測定理」を思い出すことだろう。集団の多様性が高ければ高いほど、集合知の精度は上がる。一般意志についてのルソーの上述の主張は要はその定理とまったく同じことを述べており、実際にペイジ自身も、まさにいま引用した『社会契約論』の文章を参照して、彼の定理の思想的含意を説明している。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

ここで、東先生はルソーの主張は

  • その定理とまったく同じことを述べて

いると言っているが、この「詐欺師」的な詭弁が分かるだろうか? ルソーとスコット・ペイジがここで「同じ」と言っているのは、意志決定における

  • 多様性

のことに過ぎない。しかし、そもそもここで問題にされていたのは

  • 自由とは何か?

だったはずではないか。なぜその論点を無視して、ルソーとスコット・ペイジが

  • ある側面において

同じ、という話に、話題がすり代わっているのか?

たとえばわたしたちは、ルソーが知らなかったベクトルの概念を知っている(ベクトルの概念が確立されたのは一九世紀のことである)。(中略)このベクトルとスカラーの区別が、一般意志と全体意志の区別を理解するうえで大きなヒントになると筆者は思う。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

うーん。ベクトルだってさw それで? この話はどうなったの? ベクトルで、ルソーの一般意志の「正当化」に成功したの? ねえ、東先生。でしたら、ぜひ学会で発表してくださいよ。早く。世紀の大発見ですよ。すごいですね。ルソーの「謎」を始めて解明した人、東先生って。それこそ、『存在論的、郵便的』で、ゲーデル不完全性定理の「謎」を解明されたw、東先生にふさわしい

  • 発明

ですよ。まあ、きっと未来の人たちはそれを「トンデモ」って言うでしょうが...。