文系学者が守りたいのは、おそらく
- 宗教
なのだろう。もっと言えば、その宗教が信仰する
- 神の存在
だ。これを完全にするのが
- 人間の魂の存在
だ。これさえ証明できれば、「信仰を守れる」のだから、文系学者にとってこれは、譲れないのだ。
さて。どういうった考えがされて、それを可能にするだろう。まず、絶対に譲れないのが、
だ。これがない限り、信仰は信仰たりえない。いや、もっと言えば、これこそが「宗教(キリスト教)=ハードSF」を説明するのだ。ハードSFは、最初から、ある信仰を守るために行われてきた「実践」だ。この運動は、科学から、信仰を守るために、どうしてもやめられないのだが、その目的は
- 科学の改変
だ。科学とは、キリスト教の亜種なのであって、科学の結果は、その信仰そのものを根拠にされる。科学の結果とは
- 神が人間に与えた「神託」
なのだから、「だれもこれに逆らえない」という構造になっている。ということは、どういうことか? 科学は最初から、その解釈を
- 運命づけられている
ということになる。さまざまな科学の結果は、こういった「文系学者」によって解釈される。この解釈は「絶対」である。つまり、
- どうとでも言える
わけだ。だから、彼らは「安心」できる。つまり、彼らの信仰は、これによって守られたのだ。
文系学者たちの「常識」。もっと言えば、ハードSFの世界では、
は、もはや何年も前から「自明」である。これをだれも疑っていない。それは、ある意味では、これだけが量子力学のコペンハーゲン解釈のパラドックスを
- 実在論を失うことなく
証明できるものはない、と彼らが考えるからだ。
しかし、である。
理論物理学者の書いているものを読んでいると、こういった「多世界解釈」に、極端にこだわっているものが、驚くほど少ないことが分かる。
このことは何を意味しているのだろう?
そもそもなぜ文系学者は、「実在論」「多世界解釈」に偏執するのだろうか? そは、彼らが今まで行ってきた
- 能力の「価値」
に関わている、と考えられるかもしれない。言うまでもなく、文系の学問には
- 数学
があらわれない。ということはどういうことかというと、それは
- 線形(linear)
であることを意味する。つまり、言語の構造は、それが本質的に線形構造になっていることになる。文系学者は、言語使いとして、社会的に評価されてきたのだから、これに
- 絶対的な価値が<なければならない>
- 神の声
を「言葉」として信者たちに伝える。ということは、そもそも世界は
されていなければならない。そうでなければ、神は「間違った」方法で「真理」を伝えようとしたことになってしまう。よって、必然的に世界は
- 線形性
をもっていなければならない、となるのだ...。