ジョージ・マッサー『宇宙の果てまで離れていても、つながっている』

そもそも、なぜアインシュタインは、あれほど非局所性の

  • 非合理性

にこだわったのだろう? それにはまず、科学の長い歴史を振り返ってみる必要がある。

知的活動者としての彼らの祖先、古代ギリシア人は、宇宙を巨大なビリヤードのようなものとして描こうとした。ボール----世界の構成要素----が飛び回り、ぶつかり合い、跳ね返りながら、無限の連鎖反応を続けていくものとして。これらの相互作用は、厳密に局所的だ。ボールとボールは、接触するまで、互いに影響を及ぼしあうことはない。一つひとつは単純でも、ボールの数も、衝突の件数も途方もなく多いので、そこから世界のあらゆる多様性と複雑性が生まれる。

ビリヤードの玉突きにこそ、この世界の「真の姿」があると言うとき、そのことの意味していることは、それぞれの力は常に、「接触」なしにはありえない、という形になる。これは分かりやすい

  • 因果関係

である。ところが、この問題は非常にあっさりと破られてしまう。それこそ、ニュートンニュートン力学であり、マクスウェルの電磁気学だ。
ここでは、そもそも話は「逆」だった、と言っているのだ。全ての力は、

  • 遠隔力

なんだ、と。つまり、「非局所性」がここにおいて

  • 常識

となったのだ。
しかし、である。
これは何を言っていることになるのだろう? というのは、この「常識」で考えるということが始めに、私たちに強いることは

ということだ、と言うのだ。

実際、一般通念そのものがひっくり返った。今度は、局所性が不合理に思われるようになったのだ。重力、電気、磁気はさて置き、単純なはずのビリヤードの球2個の衝突さえもが、人々にとって悩ましい謎となった。なぜ球は反発し合うのか? これは、局所性を先頭に立って提唱したデモクリトスデカルトライプニッツさえもが、理解に苦しんだものだ。球と球が接触するとき、それらはまで2つの球なのか、それとも、一体になってしまったのか、どちらだろう? 球は、ほんとうに瞬時に進行方向を変えるのだろうか? もしそうなら、速度が無限の速さで変化しなければならないはずだが?

日常生活で私たちは、物体を動かすには、それに触れなければならないという経験をしている。しかし真実はというと、私たちは決して物体そのものに触れることはない。そうではなくて、私たちは物体に力を及ぼし、逆に物体は私たちに力を及ぼすのだ。

現代において、ニュートンのこの「万有引力」は

  • 常識

となったわけであるが、しかしこの「非局所性」は、なんとなく恐しいことを言っているように聞こえるわけで、つまり、重力は「無限遠点」においてさえ、なんらかの「力」を及ぼすと言っているわけで、ただ、そこまで離れると「弱くなる」と言っているだけに過ぎず、いずれにしろ、その

  • 力が及ぶ

ことについては変わらないと言っているのだから。
では、私たちはこの「非局所性」の何に警戒しているのだろう?

その後登場したSF小説のいくつかでは、過去に旅をして、祖母またはほかの祖先を殺してしまい、自分を生まれなくしてしまうという筋書きになっている。言わば、現実が芸術に倣う一例で、物理学者も哲学者も、タイムトラベルなどまったく不可能だと考えるようになった。物理法則たるもの、たとえほかの何もしなくとも、少なくとも論理的な矛盾は未然に防がねばならない。普遍的制限速度がその役割を果たすのだ。

ドラマチックな例がひとつ、ポール・パンルヴェによって発見された。彼は第一次世界大戦中の非常に陰鬱とした時代に、フランスの軍部大臣と首相を務めた人物で、無秩序についてはかなりよく知っていた。だが、平穏な1890年代中ごろには、彼は謙虚な数学者だった。彼が取り組んでいたことのひとつに、ニュートン万有引力の法則を、恒星が密集した集団に適用する試みがあった。バンルヴェは、ハチの巣のなかのハチたちのように、互いの周囲をぐるぐる回転している恒星たちは、物理法則では次にどうなるか予測できない一種の狂乱状態に陥る可能性があること示した。これが「特異点」と呼ばれる、致命的な問題だ。
特異点は、何かの量が無限大になり、自然のメカニズムが破綻する位置、または出来事だ。ブラックホールの中心は特異点のもうひとつの例である。ただし、特異点である理由は異なるが。パンルヴェの例では、どれかひとつの恒星が、無限の速度で宇宙の果てに飛び去ってしまうこともあり得る。これでもかなりまずいが、もっと困るのが、そのちょうど逆のことも起こり得ることだ。どの瞬間にも、新しい恒星が、無限の彼方から飛んでくるかもしれない----ある哲学者がのちに呼んだように、まさに宇宙の侵略者である。だとすると物理法則は、恒星の集団はもちろん、何ものについても、その後どうなるのか、確かなことは何も予測できない。宇宙の侵略者は、宇宙を猛スピードで駆け巡り、あなたの家の洗濯物のなかからソックスを盗み、あなたが気づかないうちに帰ってしまうかもしれない。これは物理学で登場するほかのいろいろなランダムさの例よりも、はるかにたちが悪い。というのも、起こり得るそれぞれの結果の、確率を予測することもできないからだ。

ようするに、タイムパラドックスや、まったくのカオスな事象が日常的に起きるような世界が「ありうる」のではないのか、と疑っているわけである。
タイムパラドックスが起きれば、子孫の子どもが過去に遡って、子孫を殺したことで、自分が存在できなくなるといったことが起きれば、そもそも世の中の「論理的整合性」が失われてしまう。
同じように、「特異点」問題を敷衍するなら、「なんだって起きうる」ということになり、世界を秩序あるものとして解釈しようとする試みは、絶望的になってしまう。
しかし、である。
このことは、逆にも考えられるのではないか? つまり、

  • 非局所性が、<ある秩序>の中で論理的に整合性が保たれているなら、この理論は成立可能なのではないか?

ということである。
さて。アインシュタインがこだわった、

による「量子テレポーテーション」問題に入っていこう。

それに、彼らの実験手順は単純明快だった。たとえば、あなたは1個の光子を実験室の左側から右側へテレポートしたいとしよう。あなたはまず、一対のもつれた光子を作り、1個ずつ、部屋の左右に置く。これでテレポートを担うものが準備できたわけだ。次に、テレポートしたい光子を、左側の光子と相互作用させる。もつれた2個の粒子には特別な結びつきがあるので、第3の光子との相互作用は、ただちに右側の光子に感知されて、第3の光子が右側で再構成される

続いてガルベスは、もつれた光子を発生させるべく、波長板を調整する。一致率は毎秒約50に跳ね上がる。(中略)その50という表示を見たとき、 私はその意味に気付き、身震いした。光子たちが、2枚の魔法のコインのように振る舞っていたのだ。ガルベスはこのようなペアを何千組と投げるのだが、必ず2枚とも同じ面を上にして落ちる。両方とも表か、両方とも裏か、どちらかだ。このようなことは、ただのまぐれでは起こらない。

この制限された実験の結果ではあるわけだが、驚くべき結果である。なぜか? このことはまさに、デカルトが考えた

  • 科学の手法

が、ある側面において無意味だと宣言しているからだ。

これらの特徴のひとつが、非局所性だった。量子力学は、2個の粒子が切っても斬れない関係になり得ると予測する。結びつける方法が存在しないのだから、完全に独立しているはずなのに、片方に触れたら、もう片方にも触れたことになるというのだ。まるで、距離など何の意味も持たないかのように。分断して征服するという科学の手法は、これらの粒子のおかげで使えなくなる。

宇宙の反対側にある2個の粒子が本当に結びついているなんて、あり得ないんじゃないか? そんなことはばかげていると、アインシュタインには思えた。

デカルトは、哲学の手法をその

  • 分割性

において見出している。つまりこれは、あらゆる科学の前提であったはずなのに、量子ゆらぎの「テレポーテーション」の非局所性にはこれが通用しない。

こうしてざっと見てみる、結局、非局所性を巡る議論を解決しなくても、私たちが空間の役割だと昔から考えていた機能を、空間が果たしていないことは理解できる。1個の粒子が別の粒子に瞬時に影響を及ぼせるなら、位置は意味がなくなる。どこかに存在することは、すべての場所に存在するのと同じことだ。ひとつの出来事が2つの場所で現れるなら、この2つの場所は、相互に結びついているというより、ひとつに収束してしまっているのだ。空間の鏡の間(ま)だ。ならば、それにどんな意味があるというのか?
アインシュタイン量子論的非局所性を、ただの「遠隔作用」ではなく、「薄気味悪い遠隔作用」と呼んだのには理由がある。それは、私が第2章でお話した。それ以前の非局所性とはなったく違う。ニュートン万有引力も瞬時に働くが、少なくとも物体から離れれば弱まるので、まだ空間的な性質を保っている。しかし量子もつれは、瞬時に働くのみならず、離れても少しも弱まらない。

アインシュタインにとって、ニュートン力学や、電磁気学の「非局所性」は、言わば

  • 制限された非局所性

として、つまり、距離が離れれば離れるほど、その効力が弱まるという形では、彼は

  • 納得できる

と考えていたわけだ。ところが、量子テレポーテーションは、この制限を軽々と超えてしまっている。こんなことが起きることを、科学は認められるのか? と問うているわけであるが、認めるもなにも、実際にそうなっちゃっているわけであるから、なんにせよ、これを

  • 含んだ

科学理論にするしかないんじゃね? ってのが、科学の手法で唯一残されている道なわけだが。

ツァイリンガーは、ベルの議論については、このように捉える。すなわち、それは局所性そのものの反証ではなく、「局所実在論」の反証だ、と。ここで「局所実在論」とは、物理学は局所的(粒子と粒子は互いに独立している)であり、しかも、実在論的(粒子は、測定される前から特定の性質を持っている)だという、物理学に関するアインシュタインの2つの直感をひとつにまとめたものだ。

前回、文系学者たちが守ろうとしているのが

だと言ったわけだが、この表現は正確ではない。正しくは、「局所実在論」だ、ということになる。というのは、そもそも、実在の問題を述べているのに、それふぁ「非局所的」というのは、意味がよく分からないからだ。
実在する、ということは、そこに「在る」ということであって、つまりは、そこに「他のもの」が占有していない、ということなわけであろう。大事なことは、局所実在論者が言いたいのは

  • 観測しようが観測しまいが、「それ」は「そこ」に在る

ということであり、「そこ」にあるのは別のものじゃない、という所にこそ、力点があるわけである(カンタン・メイヤスーの『有限性の後に』において、メイヤスーが主張する実在論は、はるか昔のまだ人間がいない時代において、

  • だれも観測していなかったけれど、「それ」は「そこ」にあった

という事実(解釈)から、議論を出発させていたことから分かるように、メイヤスーが典型的な「局所実在論」者だったということは確認しておきたい。
さて。私たちは、近年の理論物理学においては

  • インフレーション理論

はすでに「常識」になっている、と思っていることは、ハードSF界隈では、多世界宇宙解釈が常識となっているのと変わらない意味で、誰からも当たり前のことのように言われるのだろう。
しかし、掲題の著者は以下のような意味で、インフレーション理論には重大な欠陥がある、と整理する。

しかし、宇宙の成長では、宇宙内での物質の移動はまったくないので、通常なら課せられる移動速度の制約が回避される。物質が移動するのではなく、銀河のあいだに新たな空間が形成されるのだ。動物や植物が、新しい細胞を形成して成長するように。銀河が実際に空間内を動いているわけではないので、銀河には速度制限がかからないことになる。「2つの銀河を見ると、どちらもじっとしているのですが、両者のあいだの距離が変化しているのです」と、ミズナーは説明する。「これを相対速度と解釈するなら、初期宇宙では、2つの物質片の相対速度は、光の速度をはるかに超えていした。だから、両者互いに相手を見ることはできなかったわけです」。

だが数ヶ月後、その発見は勢いを急速に失った。インフレーション説の提唱者からさえ出ていた、いくつかの疑問が再び持ち上がったのだ。最大の懸念は、インフレーション理論は、インフレーションがもたらすはずのものを、そもそもの前提条件としているという点だ。つまり、そもそも宇宙がインフレーションを始めるには、宇宙はすでに異様に均一でなければならないのだ。このことを受けて、一部の物理学者たちは、インフレーションに代わるものを模索している。そのひとつが、単なる見せかけの非局所性ではなく、本物の非局所性なのである。

インフレーション理論には、見過ごすことのできない重大な欠陥がある。だとするなら、どう考えればいいのか、に答えを与えてくれるものこそ、今ここで問題にしている

の「非局所性」のパラドックスを解決する、以下の理論からの必然的な帰結だ、と言うわけである。

当時はハーバード大学に、現在はプリンストン高等研究所に在籍する弦理論研究者のファン・マルダセナは、「Ads/CFT対応」23と呼ばれる概念を提案した。この理論では、遠く離れているように見える2つの場所が、実は互いに重なり合っていたり、空間的な距離として現れているものが、実はエネルギーの違いだったり、ということが起こりうる。

このアイデアの肝はどこだろう? それは、本当にこれは「実在論」の問題だったのか、ということを疑うところにある。というのは、たとえどんなにこの問題の問題性を回避しようとしてみたところで、どういったアイデアでこのパラドックスを回避しようとしてみたところで、どっちにしても

  • 非局所性

については、どうしようもないからだ。つまり、

  • 空間の自明性

がもはや、まったく維持できていないのだ。ダメなのは空間の方なんじゃないか? 上記の「Ads/CFT対応」が、完全に私たちの考える

  • 場所

についての自明性を止めたことによって、量子ゆらぎのパラドックスも、そもそもこれをパラドックスとして受けとる前提としての「空間」の自明性がすでに崩壊しているんだ、ということになると、非局所性における、遠いからどうしたとかってのも、いや「遠く」ても、その「通さ」が、そもそものその<解釈>において

  • 近い

と受けとれる、といったことになっているなら、パラドックスでもなんでもない、というアイデアというわけである。
しかし、最初にも言ったように、この回避策は「なんでもあり」では、上記でも検討したような深刻な、世界の論理的な矛盾に直面してしまう。よって、この回避策な、なんらかの

  • 制限

のある回避策でなければならない。この制限が、この世界の、非局所性についての、デカルトの「分割」原理を放棄してまでも、そのオールタナティブになれるような、技術的なテクニックということになるわけで、これをここでは

  • 世界の果ての存在可能性

において考察している。

宇宙に境界があるときもまた、重力の非局所性が華々しく表れる。空間に境界があるなんて、宇宙は巨大なスノードームのような水晶の球に封じ込まれていると考えた、アリストテレスへの逆行かと思える。

現代の天文学者が知る限り、宇宙はあらゆる方向に無限に広がり、いちじるしい数の銀河が途切れることはない。しかしこれは、厳格な要求事項というより、偶然の事実に過ぎない。宇宙に端があることを禁じる物理法則は存在しないのだ。物理学者たちは以前から、空間のひとつまたは複数の次元が有限の大きさである仮説モデルをいじりまわしている。

有限であれ、無限であれ、境界は最後の未開拓地の最後の前線で、あらゆる前線と同じく遠く離れている。重力は、宇宙の大部分(境界以外の部分、「バルク[多くの次元を持つ宇宙全体])で王様かもしれないが、その命令は宇宙の辺縁には届かない。そこでは境界が、粘土の壺の形を定める型のように空間の形を固定するので、重力場はまったく動けなくなっている。「境界では時空は揺らぎません」とマロルフは言う。「重力場は事実上境界にくぎ付けにされているので、重力は働きません」。境界沿いでは重力が作用しないので、非局所性も起こらない(少なくとも重力に関する非局所性は)。境界は絶対的な参照点となるので、たまたまそこに存在したカフェテリアや学生センターは、客観的に定義された位置を持つ。エネルギーなどの量はまったくあいまいさふぁない。あなたは、境界の上に各種の測定器を設定し、確かな測定値を得ることができる。
時空が境界で固定されていても、それ以外のところでは、相変わらず時空はふにゃふにゃだ。そんなわけで、宇宙は奇妙な二面的な性質を持っている。一部(境界)は局所的に振る舞い、一部(バルク)は非局所的に振る舞う。その結果、ほとんど神秘的な響きすらある宇宙の全一性(ホーリズム)は、極めて明確なものになる。境界の局所性のおかげで、あなたはそこで測定を行うことができ、それ以外の部分の非局所性がそれらの測定値を宇宙のほかの部分につなげる。「直感的に独立だと思えるさまざまな量が、実は互いにしっかりと結びついているのです」とマロルフは説明する。「そんなわけで、バルクのオブザーバブル[普通は測定可能な、位置、運動量、エネルギーなどの物理量のこと]と完全に一位する、境界のオブザーバブルが存在するのです」。境界は、宇宙の全域で起こっっていることを追跡して記録しているので、宇宙全体の像である----元の情報が少しも損なわれていない完璧な像だ。それを観察する観察者は、あなたがやっていることが全部わかるだろう。

超ひも理論は、9次元とか、10次元とか、そういった世界での

  • 実在

が、なんらかの形で、この私たちの3次元空間と、1次元の時間という、時空にマッピングされたものとして世界を記述するわけだが(この弦理論の分かりやすいイメージを説明してくれているものとして、以下が参考になる:

大栗先生の超弦理論入門 (ブルーバックス)

)、私たちのこの3次元で起きていることの、真に正確な理解をするためには、その9次元、10次元での、もともとのリアリティにおいて、正確に理解はできない。そして、その9次元、10次元での、世界の

  • 制約条件

として、上記のような「世界の果て」の制約条件が、多きな役割を発揮しているわけであって、このことが、私たちが

  • 非局所性

を受け入れることから想定された「危険性」の回避を可能にしている、という「カラクリ」だ、ということになるのだろう...。

宇宙の果てまで離れていても、つながっている:  量子の非局所性から「空間のない最新宇宙像」へ

宇宙の果てまで離れていても、つながっている: 量子の非局所性から「空間のない最新宇宙像」へ