未来の人のパラドックス

ここで、未来の人に関する、あるパラドックスについて考えてみよう。
現代の人が未来の人の「ため」に、なにかの行動をする。しかし、未来の「人」がなぜ、その時代にそこにいるのか? それは、その未来の人から見た過去の人たちが「そう」であってくれたから、と言うしかに。その場合、一つとして例外を認めることはできない。それはどんな「失敗」についても、例外ではない。その「失敗」があったことによって、ちょっとした人々の行動の違いがあった「から」、未来はそうなっているのだから。むしろ、未来の人にとって、たとえどんな時代になっていようと、「その人」がそうであれたことを考えるなら、「そうでなければならなかった」とは、(まさか自分は生まれなければよかったと思っているのでもない限り)言えないわけである。
まあ、極論を言ってしまえば、たとえどんな、ちょっとした行動の違いを起こしたことによって、風が吹けば桶屋が儲かるってわけで、その過去の祖先は、子どもを生まなかったことで、今あなたはいないかもしれない。
そうだとするなら、結論としては、未来の人たちは、3・11の原発事故でさえ、

  • 事故があってよかった(事故があったことによって、今自分はここにいる)

とか言い始める、というわけである。
しかし、ね。
このパラドックスは、なにがダメなんだろう?
例えば、芸術家や哲学者wが、自分の作品が同時代の人々に理解されないときに、自分は

  • 未来の人々に向けて、作品を作っている

と言うことがある。しかし、よく考えてみよう。これって、「反倫理的」ではないのか? なぜなら、なぜ「現在の困っている人たち」を無視して、未来人に対して必要以上のコミットメントをしたがるのか?
これも極論をしてみればいい。つまり、明日人類が滅びると考えるわけである。明日滅びるのに、「未来の人間」って誰? 未来に人間がいるのは、今の私たちが未来に人間を「残した」結果にすぎない。面倒くさくなって、核兵器を大量に使って滅びるかもしれない。しかし、それも

  • 今の人間

に対して私たちがコミットメントをしないで、いるかどうかも分からない「未来の人」とばかり、対話を試みたりと、コミットメントをやっていれば、そりゃあ、そうなるよね、としか言えないのだがw
このことは、いわゆる「SF」という分野への違和感にも関係している。未来の人類の歴史を書くといった時点で、私たちはこう思うのである。

  • なんだ、今の人類は生き残ったんだw

って。もしも今の人類が生き残ることが最初から分かっているなら、まあ、当たり前だけど、今を真面目に生きる必要はないよね。だって、もう分かっているのだから。そう考えると、不穏になってくるわけである。果たしてこのSF小説は

  • 何が言いたいのだろう?

と。一見未来のことを語っているように見せながら、実は、今の私たちに「もっと不道徳に生きても、どうせ人類は未来にまで生き残るんだから、もっと<悪い>ことをやろう!」ということが言いたいんじゃないのか、と。つまり、こんなことを書いている人の、意図や人格を疑いたくなるわけである...。