人の自由についての法則

カントの『純粋理性批判』という本は、分厚いだけでなく、難解で読みにくい文体で書かれている。これを読み通すという行為は、普段、本を読むことに親しんでいる人でも、想像を超えて大変な作業だろうと思われる。
しかし、である。
素朴に思うんだが、この本の、第三アンチノミー(自由意志のアンチノミー)の証明のところだけを一つの本にして、それに細かい注釈をつけたら、それだけで

  • かなり多くの人が読んでくれる

んじゃないのかな、と思うのだ。それは、今の私たちの世界を考えてみればいい。世界は、条約や憲法や法律でできている。しかし、それらは人々の

  • 自由意志

があることを「前提」にして書かれている。しかし、だとするなら、この自由意志の存在が本当に「自明」なのかは、世界中の誰にとっても気になる関心事なのではないか?
もしも自由意志がなければ、そういった世界中の条約や憲法や法律が矛盾していることになる。他方で、もしも自由意志があるとすると、今度は自然科学における、物理学の自然法則と矛盾しているように思われる(あなたは、今まで、物理学の本のどこかに、この宇宙には「自由意志がある」なんて書いているものを見たことがあるか?)。
つまり、ここの部分だけで、世界中の人が「知りたい」何かが読めるということになり、大変多くの読者を獲得できるのではないか、と思うのだが。
では、逆に考えてみよう。なぜそうなっていないのか? まあ、一言で言ってしまえば、そのカントの証明もあまり分かりやすくないのだ。というか、歴史的には、さまざまな批判があった。つまり、この説明に満足しない人が次から次と現れて、新しい哲学を作ってきたのが、人類の歴史なのだ。
ここでは、ひとまずカントの証明の評価にはふれないでおくとして、その、一つの説明方法を考えてみよう。
なぜ「自由」は成立するのは? それを私はここで、

  • 人間の身体の<外界>の物理法則と、人間の身体の中の、脳を中心とした神経ネットワークとが、 比較的に「独立」だから

と考えてみる。以下説明していく。
例えば、野球におけるバッターを考えてみる。打者は、打席に立つと、ピッチャーが自分に向かってボールが投げられる。すると、打者はそのボールを打ち返さなければならない。
しかし、である。
なぜ私たちは、「それ」をできるのだろう?
そう考えてみると、私たちは普段「あること」をしていることに気づくのではないか。
つまり、その人はその打席に立つ、

  • はるか前

から、そうやってボールが飛んできたら、バットで打ち返そう、と「何度も何度も」頭の中で反復しているのだ。
人間の外界の物理法則が、人間になんらかの「因果的な作用」を及ぼすときは、例えば、ボールが飛んできて、よける、(または、当たった痛みに耐える)といったような反応は、「反射」とでも呼べるもので、私たちには分かりやすい「因果関係」だと言えるでしょう。じゃあ、なぜバターはその「よける」という行為をせずに、ボールを打ち返せるのかといえば、それはこの人間の外界の物理法則(ボールが飛んできたことに対する私の身体の反応)とは

  • 別の自然界の物理法則

があって、そっちが「強かった」から、そっちが目立った、といった状況と考えられる。そして、それこそが

  • 人間の中の、脳の物理法則

である。では、そちらにおいて何が起きているか? まず、私たちがバッターボックスに入る前から、私は何度も何度も、「ボールが来たら打ち返そう」と反芻しているのだ。そしてこの反芻は、頭の中で繰り返せば繰り返すほど、比較的容易に行えるようになる。つまり、この反復によって、脳の中のネットワークがその反復を「やりやすい」構造に、どんどん変わっているのだ。
そして、このインフレーションが高まれば高まるほど、実際に打席に立ったときに、「ボールが来たら打ち返そう」と思う確率は高まり、思うということは、それはそれを自分に「命令」しているという形になっているから、実際に自分がボールを打ち返そうと体を動かす確率も高くなっている。
この動きは、まるで「増幅器」によって、次第に体がそう反応しやすくなっていた、といった構造に、まさに加速度的に変化していったということになるが、さて。この加速度的な変化の

  • 最初のきっかけ

はなんだったのだろう? おそらくそれは、そうやって実際にバットを振る「はるか前」の、なにかの行為が始まりだった、と言うしかないだろう。それは、そもそも「バットを振る」なんていうこととは、まったく関係ないことだったのかもしれない。しかし、その一つの最初の小さな「トリガー」は、次第に増幅と方向を拡大していくことで、最終的には、バットを振るという行為に結実した。
つまり、このように考えたとき、私たちがここで問題にしていた「自由意志」というものが、ずいぶんと「自然法則」的なものに見えてこないだろうか...。