山下和也『カントとオートポイエーシス』

オートポイエーシス論については、話には聞いたことはあるが、なんだか難しそうなことを言っていて、ようするに、ホメオスタシスとか、サイバネティックスと同じことを言っているんでしょ、といったくらいの印象の人も多いのではないか。
そこで、まず、そもそもオートポイエーシスが何を言っているのかを、ここでは考えてみたい。

まず、何らかの産出物を産出する産出プロセスがある。ここで言う産出は変形と破壊を含み、要するに何かを加工して別の何かにすることを意味する。この際、産出される産出物は複数でもいい。そして、産出物のいくつかによって次の産出プロセスが作動し、新たな産出物を産出されるとする。つまり産出物を介して産出プロセス同士が連鎖するわけである。

これによりネットワーク全体は、その全ての産出プロセスがネットワーク内のどれかの産出プレセスの産出物によって作動させられるようになり、自己完結的に閉鎖し、一つの閉域を形成する。

実は、この閉域がオートポイエーシス・システムに他ならない。ネットワークの連鎖に関与している産出物が構成素である。

最後に、オートポイエーシス、自己創出という事態は操作的閉鎖によるシステムの実現を指すのであって、システムによる構成素や構造の産出を言うのではない。なぜ自己創出かと言うと、このシステムは実現に際し、自身以外の何者によって作られるのでもないからである。操作的閉鎖は結局、産出プロセス・ネットワークの連鎖の仕方だけによって成立する。もちろん、そこにはさまざまな要因が影響しているが、そのうちのどれが操作的閉鎖を起こしたかを特定することはできない。システムの実現を説明できるのは、操作的閉鎖が起きたという事実だけなのである。

まあ、これが定義らしい定義なわけだが、一見して分かるように、これは

  • 厳密な意味での定義になっていない

わけである。
つまり、どういうことか?

従来のシステム論と異なり、オートポイエーシス・システムは理論モデルではない。現実に存在しているシステムである。

つまり、オートポイエーシス・システムというのは、私たちが数学的なモデルによって構成したものではなく

  • 自然を「観察」すると発見される何か

なわけである。いや、だったらそこから「数学的構造」を見出せばいいだけなんじゃないか、と思われるかもしれない。
しかし、である。
よく考えてみよう。人間の体内の、各細胞の中で行われている、さまざまな化学反応は、その因果の列を「記述」しようにも、

  • あまりに複雑すぎて

今だに誰にもそれは行えていない。というか、はるか未来においてさえ、その十全な「記述」が、だれかによって行えるものなのかも、よく分からない。ただ分かっているのは、その「外貌」を見る限り、なんらかの

が見出せる、ということだ。
さて。こういったものを、私たちはどう「記述」すればいいのだろうか?

オートポイエーシス・システムの実在を認める時点でオートポイエーシス論は、物質一元論的世界観としての「唯物論(materialism)」を完全に破壊する。このシステム自身は決して物質ではないからである。産出プロセスという働きから成っているので、質量はもたないし、空間的ですらない。当然、一切の物理法則にも従わないのである。哲学・認知科学者デイヴィッド・J・チャーマーズはの論法(チャーマーズ:一六二)を借りると、オートポイエーシス・システムに関する事実は、物理的事実とはまた別な、我々の世界に関する事実であるから、ゆえび唯物論は偽である。結果的に、この世界のすべての事象を物理的に説明可能とする「物理主義(physicalism)」も破綻することになる。オートポイエーシス・システムの実現を含むあらゆる作動は物理法則には従わない。すなわち、物理法則以外の原理、オートポイエーシス論の原理によってしか説明がつかないのである。とは言え、それはまた、まったく神秘的なものでないことは、ここまでの議論から理解されよう。オートポイエーシス論は自然科学の枠からはみ出すものではない。その意味で、自然を超えるものを認めない「自然主義(naturalism)」は拡張されこそすれ、破壊されずに済む。

この結果、オートポイエーシス・システムは数学的にモデル化することができない。その作動コードを数式によってモデル化しても、構造的ドリフトによって自分のコードそのものを書き換えてしまう可能性があるからである。その上、コードがどう書き換えられるかを決定できる法則は原理的に存在しない。

言い換えれば、我々が物体的対象と呼んでいるものは、一定の仕方で認識システムによって構成された認識表象における現れにすぎない。それと環境との対応は、認識システムの自律性のゆえに、個別にはつけられないのである。現れである対象の背後に、それと厳密に対応するような個別の実体を考えることはできない。その現れを産出させるに至った環境からの影響は特定できないからである。カントで言えば、現象は物自体の表象ではない。したがってこの議論は、チャーチランドの言う「科学的実在論(scientific realism)の望み」(チャーチランド:一五〇)を完全に粉砕する。

このことは何を言おうとしているのだろうか? 近代科学は、過去から「進歩」してきた、と言う人がいる。こういう人がイメージしているのは、キリスト教千年王国のようなもので、科学が少しずつ進歩することで、私たちは少しずつ

  • 完全な真理(つまり、神についての全て)

に近づいていっているんだ、と言うわけである。しかし、そういった考えは、上記のアイデアとは相性が悪い。上記が言おうとしているのは、たんに

  • まだ分かっていない(はるか無限遠点の未来では<真理>に到達する)

ではないわけである。そうではなく、そもそも

  • 原理的に、<真理>が分かることは起きえない(そういう構造になっている)

ということなのだ。だからそれを掲題の著者は、「数学的モデル化」「唯物論」「物理主義」「科学的実在論」の

  • 敗北

と呼んでいるのであって、まあ、実際にはるか未来においてどうかが問われているというよりも、それよりも重要なこととして、

  • そういうものとして考えなけれならない(それが、ここでの「科学的態度」なんだ)

といったような、倫理的な姿勢を問題にしているわけであろう。
さて。オートポイエーシス・システムを考えるとき、大きく分けて、その特徴は二つあるように思われる。まず、一つ目が

  • 「システムそのものにとっての視点と、観察者にとっての視点」の明確な区別

である。

オートポイエーシス論を認識論的に見たときに決定的なのは、河本の言う「システムそのものにとって(fur sich)の視点と、観察者にとって(fur uns)の視点」(河本 一九九五:一五九)の区別である。オートポイエーシス・システムの作動は、実現、存続は、それ自身によって、それ自身にとって決まっており、自己完結している。したがってそのあり方は、それが外からどう見られるかによらず、システム自身にとって決まっているのであり、これが河本の言う「オートポイエーシス・システムは観察者に依存せず自己を規定できなければならない」(河本 一九九五:一六九)ということの意味である。このため、システムそれ自身にとって起きていることと、外から見たときに見えることが食い違ってしまう。この二つの視点の区別についてはマトゥラーナのわかりやすい二つの比喩があるので、少し長いがすべて引用しておく。

「ずっと潜水艦の中だけで生きてきた人を、想像してみよう。彼はそこから出たことはない。潜水艦の操縦の仕方は教えられている。さて、ばくらは岸辺に立ち、潜水艦が優美に浮上してくるのを見ているところだ。それからぼくらは無線を使って、中にいる操縦士に呼びかける。「おめでとう!あなたは暗礁を避けて、みごとに浮上しましたね。あなたは潜水艦の操縦がほんとうにおじょうずですね」。潜水艦の中の操縦士は、とまどってしまう。「なんですか、その暗礁とか浮上とかって? 私がやったのはただいくつかのレヴァーを押したりノブを回したりして、いろんな計器のあいだに、ある関係を作りだしただけのことなんですよ。それは全部、私がよく馴れている、あらかじめ決まった手続きにしたがっているんです。特別な操作はなにもしなかったし、それになにより、あなたがたは潜水艦とかおっしゃってますね。なんのご冗談でしょうか」」(マトゥラーナ/ヴァレラ 一九九七:一五六以下)。

「声明システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。そこで、パイロットは外界との接触をもたず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。彼の仕事は、彼の計器のさまざまな数値の読みにおける変化の道筋を、あらかじめ決められた計画ないし、この読みから特定されるものにしたがって、確保していくことである。パイロットが機外に降り立つと、まったくの闇夜で彼が演じた見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのも、パイロットの知識によれば、あらゆる瞬間で彼が行ったすべては計器の読みを、一定限度内に維持することであり、彼の友人(観察者)が彼の行為についてする記述において表現されるのとはまるで違う仕事だからである」(Maturana 1980:51)。

そして、もう一つが「システムの環境からの自律性」、もっと言えば、環境のノイズ化であり、環境から独立して、

  • システムがシステム自身からのみ産出され続ける構造

と言えるだろう。

したがって、認識を環境からの情報の入力と考えることはできない。「意識は、その構造が入力によって特殊化されるシステムではない」(Luhmann 1987:45)のである。第一章で見たように、そもそもオートポイエーシス・システムには入力も出力も存在しない。「むしろ、環境所与あるいは環境の出来事は、攪乱として、妨害として、雑音としてのみ導入され、そこで内的に、固有の構造自身の尺度に従って特殊化される」(ibid.)。これにより、情報はむしろシステム自身の内でシステム自身によって産出されるのである。

掲題の著者は、こういったオートポイエーシスの特徴が、驚くほど

  • カント

の哲学(主に、『純粋理性批判』)と対応していることを主張する。こういった主張は、掲題の著者も言っているように、お互いが自らのそれを

  • 認識論

と自称していることから分かるように、否応もなく「似てくる」という側面はあるのだろう。つまり、同じ認識論なのだから、考え方も似てくるわけである。
しかし、逆にこの本を読んでいて、なぜ今まで、こういったことを言う人はいなかったのかな、というのは素朴な疑問としては思った。
カント哲学は、とにかく評判が悪い。それは、今だにその「解釈」において、まったく論争が解決されていないような、さまざまな学説があって、つまり、それだけカントの主張が「一見、曖昧に思われる」という特徴があるし、まあ、それだけ

  • カントは、ある複雑な先進的なことを言おうとしていた(あまりにも、未来を先取りしすぎていた)

とも言えるわけで、難しいわけだが、確かに、こうやってオートポイエーシス論との平行性が示唆されることで、よりカントの主張の

  • 含意

が、一つの側面として分明になるのでは、という期待を抱かせてくれる本であった...。

カントとオートポイエーシス

カントとオートポイエーシス