トロッコ問題の別ヴァージョン

ここのところ、ネット上では、トロッコ問題についての言及が急激に増えている。どうも、中学の授業で先生がとりあげたことを怒られ、謝罪した、

死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪 - 毎日新聞

ということが気に入らない、ということのようだ。
この「炎上」はどこか、定期的に繰り返されているところもあって(以前は、マイケル・サンデルのテレビ授業がきっかけだったか)、すこしあきてきたところもある。まあ、肯定派、否定派のどっちにしても、相手は

  • 誤解

していると言っているだけで、少しも自分の言っていることが「正しい」ことを疑っていない。まあ、そういう意味では、これも一つの神学論争の一種だ。
ただ気になるのは、なぜ上記の小中学校で保護者に謝罪したのかの「理由」の理解が間違ってないないだろうか?

あとトロッコ問題はやり方によってはサイコパスっぽい人を洗い出すような側面があって不穏だよね(数字だけに躊躇いなく反応する人はマジョリティと違うとわかる)。犯罪者に協力してもらってこの問題に回答させて、という研究発表聞いたことある。やっぱ大人の問題と思う…
@okisayaka 2019/09/29 20:36

つまり、なぜ小中学校の先生は保護者に怒られたのかは、トロッコ問題が道徳的に不適切だからというより(そして、今回ネット上で怒っている人の主張は「トロッコ問題」は人間の問題を考えるのに多くのことを教えてくれる、まあ、功利主義の「正しさ」を教えてくれる、といった意図なのだろうが)、実際には

として使われているんじゃないのか、という疑いがあるからなわけであろう(そういう意味では、功利主義者は全員、一次切り分けでは「サイコパス」である、ということになるのだろうがw)。
ところで、このトロッコ問題を本質的に議論した本として、以前ここで紹介したこともある

ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』
モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)

というのがある。まあ、こっちの方がマイケル・サンデルよりずっと本格的に議論をしているが、この本は言ってみれば

として書かれている、という意味では、上記の分類では典型的な「功利主義賛成派」だ。
まず最初にグリーンは「はじめに」で、自分は高校生の時に

  • 弁論部

に所属していた、と言うw そこで高校対抗の弁論大会で彼は

  • 功利主義を使って相手を打ち負かす<戦術>

を発明した。相手の主張が「最大多数の最大幸福」を満たしていないことを糾弾することで、彼は連戦連勝を繰り返した。ところが、この連勝街道はある日を境にストップした。それが「トロッコ問題(の変形版)」だ。つまり、長い間、トロッコ問題は、功利主義

  • 弱点

だと考えられていたのだ。そして、グリーン少年はそれから、功利主義から離れてしまったそうである。
しかし、その「怨念」にとりつかれていたグリーンは、どうしてもその「負けた」ことが頭から離れなかったそうである。大学に入って、彼が見出したのが

である。彼はひらめいた。これを使えば、

  • 高校のときの弁論大会での「負け」の挽回が行える!

と。そして、その「勝利宣言」こそが、この本なのだ(こうやって見てくると、問題なのは、功利主義でも義務論でもなく、こういった「弁論術(の勝ち負け)」なんじゃないですかねw 弁論術こそ人間を根源的に腐らせるw)。
まあ、勝った勝ったは威勢がいいけど、問題はこの本を書いた

に何が起きたのかなんだよねw

だが、見知らぬ人を突き落とすこととスイッチを切り替えることは、一人を犠牲にして五人を救うという帰結の点では等価だ。したがって、もしあなたが「最大多数の最大幸福」を目指す一貫した功利主義者であれば、犠牲になる人数と救われる人数の費用対効果の観点から、どちらの問いにも「適切である」と答えるべきであろう。一方で、こうした事例での直観的判断の違いを尊重したい義務論者は、その違いを説明しようとさまざまな道徳原理を提唱してきた。たとえば、トマス・アクィナス以来、西洋の倫理体系に組込まれてきた「二重結果原理」によれば、「より良い結果を得るための避けられない副作用として、予見された危害を人にもたらすことは許されるが、より良い結果を得るための手段として、危害を人に与えることは許されない」とされる。
(飯島和樹+片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう 「自然化」のあとの倫理学」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

彼[ジョシュア・グリーン]によれば、第2節で論じた通り、義務論的判断は、情動的で直観的で速いメカニズム(移住過程理論では「システム1」と呼ばれる)によって生み出される。他方で、功利主義的判断は、理性的で柔軟だが遅いメカニズム(「システム2」と呼ばれる)によって生み出される。二〇〇七年における彼の[『モラル・トライブズ』での]議論の要旨は以下の通りである(Greene 2007)。

  • (前提1)歩道橋事例における義務論的判断は、シナリオ中の「人身への危害」(犠牲者に直接危害を与えること)の要素によって駆動される情動的な反応である。
  • (前提2)情動は道徳に無関係な要素である。
  • (結論)義務論的判断は、正当性を欠けている。

確かに、一瞬、こうした議論には説得力を感じる。システム1が生み出す、情動に依存した義務論的判断はダメだ、と。しかし、そうした印象は、まさに私たちのシステム1の挙動の結果であるのかもしれない。私たちは、しばしば、直観的に感じてしまう。「情動はダメなものだ」と。けれども、次節で触れるように、情動が本当に道徳に無関係なものであるかどうかは、それ自体、議論されるべき問題である。もちろん、功利主義者であるグリーンからすれば、道徳に関係するのは行為の結果が幸福の総量を最大化するかどうかのみであり、前提2は当然正しい。しかし、それを義務論者との論争においてそのまま適用するのは、論点の先取りというものである。攻撃しようとする義務論者が、前提2を問題なく認めるかどうか自体が問題なのである。ただし、情動が道徳に無関係であることを認めるような義務論者は、こうした実験倫理学の知見に見解の見直しを迫られるだろう。この意味で、実験倫理学は確かに規範倫理学に影響を与えうる。
しかし、実験倫理学がつねに功利主義に対して有理に働くわけではない。時に、実験倫理学は義務論を補強するような証拠を与えることもある。実際、義務論的判断は必ずしも情動のみによって駆動されているわけではないことを、グリーン自身の研究が明らかにしてしまったのである。グリーンらは二〇〇九年の研究で、歩道橋事例とスイッチ事例以外にも、トロッコ問題のさまざまなヴァージョンを採用して、道徳判断のより詳細なメカニズムを探った。その結果、義務論的判断と功利主義的判断の違いをもたらす要素のひとつとして、一人を犠牲にするのが五人を救う行為のための手段であるのか、それともその行為の副作用なのか、という違いがあることが発見された(Greene et al. 2009)。歩道橋から人を突き落すのは、多くの人を救うための手段であるが、スイッチを切り替えて一人を犠牲にするのは、多くの人を救うことの副作用である、という違いだ。新たな結果を受けて(前提1)を書き換えると、「義務論的判断は、シナリオ中の「手段」の要素によって駆動されること」となる。(前提2)を書き換えた(前提2')は「「手段」の要素は道徳に無関連な要素である」となる。ところが、手段と副作用の区別が道徳的に重要だというのは、まさに「二重結果原理」というかたちで、直観を重視する人々が主張してきたことだ。行為の帰結のみを重視するグリーンにとっては、もちろん、依然としてこの(前提2')は正しいが、多くの義務論者は、この前提を簡単には受け入れないだろう。むしろ義務論者からみれば、義務論的判断はまさに義務論が重要とみなす要素によって実際い駆動されていることが明らかになったのだ。これも(グリーンの思惑とは別のかたちではあるが)実験倫理学が規範倫理学に影響を与えるひとつの例である。
こうした実験結果を受けて、グリーンは功利主義擁護のための路線を少々切り替えたようである。最新の彼の議論の要旨は以下の通りである(Greene 2013[2015, 2014)。]

  • (前提1'')義務論的判断は、システム1の挙動であり、それは進化的に形成されたものである。
  • (前提2'')義務論的判断は、それが形成された環境と異なる現代社会の道徳的問題の解決には寄与しない。
  • (結論'')義務論的判断は、正当性を欠いている。

やはり、一瞬、説得されそうになる。確かにシステム1は、比較的少数のメンバーから構成される部族社会での問題を解決するために進化したものであり、科学技術が発達して世界中が結びついた社会における問題を解決するためのものではないだろう。しかし、グリーンの言う「現代社会の道徳的問題の解決」が何を意味しているのかを検証すれば、この議論も、やはり論点先取りであるといえる。彼はシステム2に基づく功利主義的判断は、「最大多数の最大幸福」を実現可能であるため、現代社会における道徳的問題を解決できるという(Greene 2013[2015]、一一章)。そしてシステム1に基づく義務論的判断はこのように(最大多数の最大幸福を実現するように)働くことはないという。その通りだ。しかし、そもそも、最大多数の最大幸福の実現が道徳的問題の解決であるか否かという点こそ、哲学者っちが争っていた点ではなかったのか。上の議論は、確かに、形式的には妥当かもしれない。けれども、功利主義者と義務論者との論争を解決するのには役に立たない。
(飯島和樹+片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう 「自然化」のあとの倫理学」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

まあ、少し長い引用になったけれど、最初、グリーンは

  • 義務論は「感情」だから駄目なんだ

って言ってたんだよね。ところが、もっともっとたくさんの類似のケースを調べていったら、

  • 義務論の人が言っていたことは「正しかった」

っていうのが証明されちゃったんだよねw まあ、義務論は感情的なのかもしれないけれど、それよりもなによりも、もっと直接的な

  • 因果関係

が証明されてしまった。というか、それは昔から義務論者がこの事象の「説明体系」として、仮説として推測していた

  • 理由

だったわけだ。わかるかな。最初、グリーンはMRIの結果から、脳が「どうなっているか」という

  • 事実

を「だから義務論はダメなんだ」っていう証明に使っていたわけ。
ところが、もっともっと調べていったら、今度は

  • 事実の「説明」には、義務論の人たちが行っていた「仮説」がぴったり合う

ということが分かっちゃったわけ。
いや、もちろんね。だからって、功利主義が「間違っている」ってことが証明されたわけではないよね。でも、最初にグリーンがやりたかったのは、

  • 神経科学「によって」義務論が間違っていること

を示したかったんだけど、少なくとも、「だから駄目」とは言えなくなったわけ。
そこで、グリーンはなにをしたか?
まあ、全面的に自分の主要を「変えちゃった」ってわけ。

  • いやあ、今まであんなこと言ってたけど、わりい、わりい。 問題はそこじゃなかったわ。あれ。私たちの今の「脳」って、太古の昔の地球環境に「適応」したものだから、今の人間文明が発達した現代社会には「不適応」ってこと。つまり、だから、義務論はダメだったってわけ。ね? 正しいでしょ? まあ、こっちなら、負けないからさ。今後ともよろしくね。

うーん。
あのさ。言ってることが合ってるかどうか以前に、少なくとも、自分は一回は間違えました、ってことは認めてるんだよね。でもさ。一度あることは二度あるんじゃないの? なんで次は大丈夫だと思えるんだろうね。
ようするにさ。問いが曖昧なんだよね。道徳ってなんなのよ。そして、それの評価はなににもづいてなされうるのか。そこが明瞭にならない限り、その評価はありえないよね。でも、功利主義はそこが最初から

  • 自明

っていう人たちでしょ? つまり、ここに悩まない人たちなんだ。つまり、最初から彼らの吟味には、道徳とは何かについての内省がない。それを避けて、道徳が議論できると

の方にその本質があるわけで、もともとそういった意味では、一つの「市民宗教」的な運動なんだと考えるのが妥当なんだろうな、と思うんですけどね。
そんなことを考えていて、私はこの延長に、もう一つの

を考えついた。まず、二つの線路の先に、一人と五人が対応していることと、レバーを下げれば、五人の方に向かっていたのを一人の方に変えられる、というのは変わらない。私の案で違うのは、

  • この五人と一人は「話し合い」によって、お互いの座席を変えられる

ということと、

  • 彼ら6人は、そのレバーの人に、直接的なメッセージを送れない。しかし、そうであるがゆえに、彼らは「その6人の座席の構成」の<メッセージ>によって、そのレバーの人に、「私たちがあなたにレバーを引いてほしいか、引いてほしくないか」を伝えられる、と考えていて、それによって、レバーの人の行動を「自分たちがやってほしい行動」に変えられる、と考えている。

とするわけである。
こうすることによって、何が問われているのか?

  • そもそも、メンバー構成だけで、メッセージは伝わるか?
  • 伝わったとして、その意図の通りに、レバーの人は動いてくれるか(特に問題は、わざわざの人にレバーを引かせて、一人の方にトロッコを向かわせるようにさせられるか、やれるとしたら、その動機はなんなのか、にある)?

ここで私が考えている例は、例えば、タイタニック号事件のようなものだと思ってもらえればいい。この豪華客船の沈没事件では、まず、女子どもが優先的にボートへの乗船が行われた。実際に、生き残った割合において、女子どもが多かった。
(ただ、どういても急いで補足を付け加えなければならないのは、女子どもといったもそれは「一等乗客」のうちの割合の話で、三等乗客は、部屋に鍵をされて、そのまま溺死した、という話である。あと、そもそも女子どもを優先するのは、当時のイギリスの法律で決まっていたことだったことと、これを指示した船長が率先して、最後までこの船に残ることを宣言していた、という事情があることも付け加えておく。)
まず、一人の方が、女性や子どもで、5人の方は大人の男性だったとしよう。このとき、レバーの人は、この6人が「レバーを下ろさないで、その一人の方の女性、または、子どもを助けてくれ」というメッセージを理解できるだろうか?
このレバーの人が、レバーを引くということは、明確に「そっちの方が正しい」と判断している場合だろう。対して、この6人が1人の方に、女または子どもを置いているのは、

  • 今のまま、そのまま進んで行く(あえて、方向を変えるような奇矯を始めない)

という「解釈」に対応している。まあ、概ね、人間なんて、そんなものさ、ってわけである。
ちなみに、この命題をより分かりやすくする場合には、1人を2人にして、こちらを、親子の母と子にするわけである。そうすることで、明確にレバーの人に、「母子の方を助けたいんだな」という意図を理解させ、その通りに行動させられる、と考えるというわけである)。
では、今度は、一人の方を、中年の男性にしたとしよう。
この場合に想定しているのは、タイタニックで言えば、その一人が「船長」だ、と解釈している、ということになる。だとすれば、レバーの人は、この船長の方に向かうように、レバーを引いてほしいんだな、とこの事実から、判断を引き出さなければならない、ということになる。
ちなみに、この反対のメッセージとして、この場合の船長は、なんらかの人類の存続のための重要な研究をしている科学者と考えてもよい。この人の知性に全人類の未来がかかっているのだから、誰よりもその人を生き延びさせる方法はなにか、と考えた、というわけである。
しかし、である。たとえそうだと決めたとして、果して、レバーの人は、この二つのケースの「どっち」を意図しているのかが分かるのだろうか?
なぜ私がこのヴァージョンを興味深いと考えているか? つまり、功利主義は一人と五人という

  • 人数

にだけ依存して、正義が決定する、という立場だと考えられるわけで、これは一つの

  • 本質論

になっているわけである。この世界には、なにかの「本質」があって、それを発見した(そしてそれが、功利主義だった)という構造になっている。これに対して、上記のヴァージョンで問われているのは

  • なんらかの合意が可能なようなレベルの「コンセンサス」が存在する(まあ、一般意志と言ってもいいが)

という立場になる。もっとくだけて言うなら、なんらかの社会的な「慣習」があって、それこそが道徳そのもの(に近いもの)なんだ、というわけである。
功利主義は「人数」が、この世界の「正義」を決定している、という本質論である。そして、功利主義者がこの例を否定されたときに待ちかまえている反論は、だったら、一人対無限大だったら、どーするんだ、と論点を変えてきたときに、どう答えるのか、にある。そして、さらにもう一つふみこんで、もしもここに、なんらかの境界があるとするなら、それはどこなのか。というか、そんなものを決定できるのか。もしできないなら、この理論には「欠陥」があるということになり、正当性の欠けた疑わしい理論だ、ということになる。
対して、上記のヴァージョンでは、一体なにが本質なのか、は問われていない。ただ、ひたすら、ある条件において、私たちはお互いの意図を伝えて、その意図をくんで行動してもらえるのか(そういった誠実な行動を果して期待できるのか)といった方に論点がある。つまり、この世界の本質としての「道徳」がどんなものなのか、なんて興味はない。そうではなく、そういったさまざまな文脈の中で、その

  • 意図

が伝わるということが、その社会にはなんらかの「慣習」がそれなりのレベルにおいて保存されている、ということを示しているわけで、つまりは「それ」のことを義務論者はただひたすら言及してきた、という対応にあるのだろう、と思うわけである...。