昭和天皇の写真を焼く「現代アート」の意図?

以下の記事で、森功次という人は、あいトリでの、昭和天皇の写真を燃やす行為や、燃やしている映像を見せる行為は

  • それ自体

では、「悪いことではない」と言っている。

誤解されがちなところなので、きちんと述べておこう。天皇の肖像を燃やすことそれ自体は、必ずしも悪い行為になるわけではない(これが悪いとしたら、ごみ焼却場の職員は全員不道徳な人になってしまう)。天皇の肖像を燃やす映像を人に見せることも、必ず悪い行為になるわけではない(これが悪いとなると検証委員会も開けなくなってしまう)。
よって、その表現を正当に批判したいのであれば、さらに別の根拠を追加する必要がある。今回、批判者たちのほとんどは、「肖像を燃やすってことは天皇制を批判したいんだろう」と、根拠不十分なままに、自分たちが邪推する意図や狙いを勝手に押しつけていた。
あいトリ「燃やされた天皇の肖像」「放射能最高!」を批判するなら知っておきたいこと | 文春オンライン

問題は、この後半の主張だろう。
ごみ焼却場の職員は不道徳ではない、に対してまで怒っている人は、まず見かけない(というか、今回の批判している人の多くは、やりたかったら、公金を使わずに、自分のお金でやれ、と言っているわけで、そもそも「表現の自由」に反対していないw)。
しかし、そのことから、

  • よって、その表現を正当に批判したいのであれば、さらに別の根拠を追加する必要がある。

がなぜ必然とされるのか?
このことについて考えるにおいて、上記の森さんは、

  • 作者の意図

を、この問題を解釈する補助線として使う。

大浦信行は「天皇を批判するとか冒涜する意図はまったくありません」とコメントを出している
あいトリ「燃やされた天皇の肖像」「放射能最高!」を批判するなら知っておきたいこと | 文春オンライン

もしその公式声明に逆らって「いや、それでもこの作品の真の狙いは天皇/被災地を冒涜することなのだ」「作者たちは嘘をついているのだ」と主張したいのであれば、批判者たちはそれなりの根拠を示さねばならない。
あいトリ「燃やされた天皇の肖像」「放射能最高!」を批判するなら知っておきたいこと | 文春オンライン

この森さんは、冒涜の意図の証明は、そう批判する側にある、という考えである。しかし、これは見方を変えれば

なのだろう。そして、そのことを、ある意味では、森さんも分かっている。

もっともこれは、作者の意図によって作品の読み方が決まるという話ではない。作者が悪しき意図を持っていなくとも、自覚なしに不道徳な行為をしてしまうことはありうるからだ。隠れた差別意識がにじみ出ているような作品には、相応の批判がなされるべきだろう。
あいトリ「燃やされた天皇の肖像」「放射能最高!」を批判するなら知っておきたいこと | 文春オンライン

ここでは、

  • 作者が悪しき意図を持っていなくても、自覚なしに不道徳な行為をしてしまう

場合について「だけ」考えている。しかし、これは言ってみれば、「好意的な解釈」である。私たちが多くの場合に直面するのは

  • 作者が悪しき意図を持って、自覚的に不道徳な行為をしていながら、「僕の意図は悪じゃない」と<言っている>

ケースなのだ。なぜなら、そもそも、社会的に悪とされていることを、明示的に「意図しています」なんて言えるわけがないからだ。
しかし、そうではあってもその人には「欲望」があるから、なんらかの「意図」を芸術作品に隠して、社会に流布させることに「喜悦」を見出すサイコパスが後をたたない。

今回の騒動では慰安婦運動の少女像ばかりが注目されているが、「昭和天皇の肖像写真の焼却」についてはあまりに触れられていない。行政機関が支援する事業で個人写真を焼却する表現はとても看過出来るものではない。
何故ならば個人写真を焼却する表現は積極的加害意思、はっきり言って殺意の表現と解釈することも可能だからである。反社会的であり流行りの言葉を使えば「ヘイト」である。
昭和天皇はもう崩御されたから問題ないというわけでもない。焼却対象が「昭和天皇個人」なのか「天皇の地位に就任している個人」なのかも判別しない。後者ならば今上天皇の安全にも影響が出る。殺意の表現を展示している事業が行政機関の支援対象になるなどありえない話である。
まるで成長していない…。津田大介という男 – アゴラ

この森さんの議論は、そもそも、津田大介を始めとする、リベラル勢力が、どういう理由で、

と議論していたのかの文脈を無視している。それは、そもそも

によって、祖先への侮辱行為が損害賠償にならない、という形で形成されてきていることから、「問題ない」と言っていたのであって、リベラルは「だから問題ない」と言ったことは

  • そういった判例すら知らない「無知な大衆」を啓蒙してやる

っていう形で、リベラルは、そういったことを主張している人を、「バカなことを言っている人たち」として鼻で嗤っていたわけであろう。
つまり、リベラル進歩派は、そもそも、その行為が「良い」のか「悪い」のかを、改めて自分で考えてみようなんてしていないのだ。判例で、「やっていい」って裁判所が決めているから、やっていい、それしか言ってないのだ。
しかし、上記のアゴラの記事の方が言いたいのは、作品としての写真を焼く行為に

  • 殺意の表現

が認められるんじゃないのか、と疑っているわけで、具体的な天皇という「地位」にある人への殺意を含んでいるのであれば、一般の脅迫文と同じように、これに対応した

  • 天皇自身の「安全の確保」

をしなければならない、といったような「一般的なこと」を言っているに過ぎないわけであろう。
よく分からないのは、具体的に「脅迫文」が送られてきたらそれを、わざわざ「芸術」だと思う人はいないだろう。そして、それを

  • 警察に届ける

であろう。対して、

  • わざわざ、作品の中で、昭和天皇の写真を焼いている

わけだから、

  • もしかして、これって「脅迫文(と同類の扱いのもの)」なんじゃないか

と疑い、警察に届ける人がいたとして、一体誰が

  • 本当の<意図>

なるものを証明しなければいけない、と森さんは言っているのだろう? つまり、なぜ森さんは

  • 一般的な通念として、「写真を焼く」という行為を作品の中で行われたときに、あくまでもそれ自体から、「殺意の表現」が現れていると解釈する

ということは「認められず」、必ず「そう主張する側が、その<意図>を証明しなければならない」と考えるのだろう? ある人が、自分の目の前で、なにも言わずに、写真を焼かれたら、少なくとも

  • 気味が悪い

とは感じるんじゃないのか。自分がそうやられたら、と少しは想像してみたらいい。そういった延長から、相手を警戒することは自然は反応なのではないか。
つまり、ここで問われているのは、それが

  • 芸術なのかそうでないのか

と、まったく関係なく、もっと一般的な「感覚」とか、「慣習的な違和感」のようなものが語られているのであって、そういう意味で、森さんのここでの「芸術論」は、どこか、この問題に対しては、的外れに聞こえるわけである...。