秋葉忠利『数学書として憲法を読む』

大学の数学科で数学を学ぶと、その「すぐ近く」に、

  • 公理主義

であり、

というものがあることに気付かされる。というのは、そういった関連書籍はたくさん出版されているし、というか、実際に「証明」を読んでいると、この問題を避けて通れるわけがないからだ。
そして、近年の、数学教育とコンピュータの避けては通れない関係考えたとき、コンピュータのプログラミングに数学を乗せる、ということがすなわち、

で数学を記述する、ということと、ほとんど同値であるという事情を考えても、むしろ、工学部系のコンピュータを主題にしている学生たちの方が、この問題を深刻に理解していたりする事情がある。
しかし、である。
ここで言っている「記号論理学」は、現代の、モダンな数学を記述するのに、ほとんど必要十分であるとは言えながら、それと、いわゆる

  • 日常言語

には明確な違いがある。それは、「記号論理学」または「ロジック」という言い方そのものが示しているように、これは

  • 形式体系(つまり、型、フレーム)

なのであって、これ自体に「意味がない」と考える。しかし、そうでありながら、逆に、

  • これにあてはまるものは「全て」、この形式の制約を受ける

という関係になっている。
しかし、こういった数学の扱いは、必ずしも歴史的には自明ではなかった。例えば、公理主義の最初として、代表的に紹介される「ユークリッド幾何学」も、

  • 点や線

は、現代のような「無定義述語」というよりは

  • 自明な概念

として、もはや、それ以上を説明は不要という形で、あくまでもこの「公理」によってだけ、その性質を記述していたわけであって、ここに対しては、明確が違いがあるわけである。
しかし、である。
このことは、逆に考えることもできるわけである。私たちが日常的に遭遇すう、さまざまな「論理的」文章は、もちろん、数学基礎論のような形式化はされていないが、少なくともそれを、

することは可能であり、必要なのではないか、と。
なぜか?
まあ、この最も分かりやすい例が、日本の「憲法」であろう。憲法は一般には、憲法学者がその解釈を決定している、と考えられている。なぜなら、彼らが「研究」しているのであり、その専門家だからだ。そして、彼らが参照する、補足的な役割として、裁判所の判例がある。
しかし、よく考えてみると、これは変な話だ。なぜなら、

  • 憲法は、それ自体で「自律」していなければならない

からだ。もしそうでないというなら、そうであることが、まさにその憲法「自体のどこか」に記載されていなければならないからだ。
だとするなら、私たちはまずは、その憲法を「それ自体」として、その形式的な体系を決定しなければならない。そして、これを達成させうる、唯一の方法はこの、

となるだろう。
そして、掲題の本は、元広島市長という著しく、日本の公務に関わった方が、まさに、上記のような視点から、この目的を達成したものだ、という意味で、特異な仕事となっている。

まず、「基本的人権」も「公共の福祉」も、最初に使われている時点では、言葉の定義が示されていません。つまり無定義述語です。憲法は純粋の数学書ではありませんので、すべての言葉が正確に定義されているわけではありません。たとえば、「戦争」は前文と第9条に使われていますが、の定義は常識的な理解で十分だと思われますし、それ以上の詳細については、法律や条約を具体的に扱う際に対応すればいいという考え方なのでしょう。

基本的人権の根幹は11条と97条ですが、その具体的な中身は、10条から29条までのすべて、30条は「納税の義務」ですのでろえと他の条文の「義務」にかかわる部分は除外して、残りの31条から40条までのすべての条項です。それに第79条の2項と第82条もここに加えておきます。

日本の憲法を決定的にしているのはこの

であることは言うまでもない。つまりは、

  • 人権主義

にある。これは、カントで言えば、

  • 人間の尊厳

ということになり、そもそも憲法自体が

になっていることは絶対に無視できない。そして、その「基本的人権」は、たんに自明ななにかではなく

  • 他の「公理」によって規定されている

という形で、まさに「公理主義」的な列挙がされている。
しかし、である。
憲法は、この「基本的人権」を

  • 公共の福祉

という概念によって、常に「バランス」をとる形で記述されているのが特徴だ、と言えるだろう。

まったく制限なく、すべての人がこの権利、「自由運転権」を行使すると、かなりの数の事故が発生し、死亡事故も多発することになるはずです。死亡事故を減らすという一事だけに焦点を合わせても、免許制度の導入は合理的です。つまり、視力も含めて身体能力も一定の規準を満たし、一定の運転技術を持ち、道路交通の安全性についての知識もある人にだけ運転免許を与えるという法律を制定して、免許制度を導入することで、死亡事故の件数は確実に減らせます。
このような法的手続きによって「自由運転権」を制限することが許されているのかどうかを検証するためにこそ、13条が存在します。仮に、この「自由運転権」を尊重して、つまり「最大の尊重」を重んじて、法的手続きの具体化である免許制度を導入しなかったとしましょう。するとその結果、防げたはずの死亡事故がかなりの件数発生することになります。その場合、事故で亡くなった人やその近親者の立場からは、13条の「個人とて尊重される」に反します。
13条は法律の根本である憲法の規定ですから、「法的手続き」の一部です。その憲法の規定に合わない以上、自由運転権の尊重は、「公共の福祉」に反すると判断していいでしょう。つまり、13条を「公共の福祉」の一部だと考えることは合理的なのです。

日本の憲法は、

によって記載されていることが分かる。そして、この二つに対して、

  • 公権力

が、お互いのバアンスのもとに機能するように意図されていることが分かる。

たとえば、79条によって最高裁判所の裁判官の国民審査によう裁判官の罷免制度がありますし、15条には、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と、選挙によって国会その他のレベルの議員を選ぶだけでなく、公務員を罷免する権限も国民が持っていることが明記されています。こうした力を私たちが行使することで、公権力が基本的人権を侵害した場合、さらには公共の福祉から逸脱した場合にも原状回復が可能になるメカニズムが備わっています。公権力を抑制するために、憲法のすべての条文が総動員されるという:意味でもあります。

この「基本的人権」と「公共の福祉」と「公権力」の三者の相互牽制のバランスが、日本の憲法の特徴となっていて、そこに

がある、と考えられるでしょう。日本の憲法システムは、すなわち、

となります。
しかし、です。
この日本の今の憲法に、立ち向かい、これを破壊しようとする勢力が、今の自民党を支配していることは、多くの国民が知っています。つまり、

のことですが(安倍政権を通して、ほとんどの大臣は、日本会議所属であり、その実態を見るに、これは日本の政権ではなく、「日本会議の政権」だと言ってもいいくらいの状態だとなるでしょう)、では彼らは、どういったロジックで、この日本の憲法のアップセットを狙っているのでしょうか?

大日本憲法には「絶対的権力者」という規定はありませんが、この表現の根拠の一つとして「軍人勅諭」からの抜粋を掲げておきます。

我が国の軍隊は代々天皇が統率している。昔、神武天皇みずから大伴氏(古代の豪族)や物部氏(古代の豪族)の兵を率い、中国(当時の大和地方)に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。この間、世の中の有様が移り変わるのに従い、軍隊の制度の移り変わりもまた、たびたびであった。古くは天皇みずから軍隊を率いる定めがあり、時には皇后(天皇に仕える妻)や皇太子(次の天皇になる皇子)が代わったこともあったが、およそ兵の指揮権を臣下(天皇に仕える臣)に委ねたことはなかった。(略)
そもそも軍隊を指揮する大きな権力は朕が統括するところなのだから、その様々な役目を臣下に任せはするが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではない。代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残しえ、再び中世以降のような誤りのないように望むのである。

毎日新聞伊藤智永論説委員は、著書『「平成の天皇」論』(講談社現代新書、二〇一九年)で、内閣が現上皇天皇時代の「おことば」に介入していた事実を具体的に記述しています。二〇一六年八月八日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」に安倍首相周辺が介入して、一部を削除するという結果になったのだそうです。その一部を引用しますが、ここで、「衛藤氏」とは、同書で「首相の指示で衛藤晟一首相補佐官が文言の点検を担当した」と説明されている。衛藤晟一首相補佐官関係者によると、原案には欧州の王室における生前退位の近況を引用した部分が二カ所あった。王室は国民に語り掛ける機会が多く、先代が亡くなった後、喪に服す期間が日本ほど長くないことが書かれていたという。衛藤氏はこれを「神話から生まれた万世一系天皇が、権力闘争の末に登場した欧州の王室の例に倣う必要はない」という理由で削除し、宮内庁も受け入れた。

分かるだろうか?
これをなぜ、今、あいちトリエンナーレや、宇崎ちゃんポスター弾圧運動に、イキっているネットの「自由の戦士」たちは、戦わないんだろうね?
明らかな、天皇の「発言の自由」に対する、言論弾圧であり

  • 検閲

じゃないかw なぜ、平成天皇の、生前退位の説明が分かりにくかったのかは、この「検閲」によって、彼の言いたいことが、十全に説明できなかったからであろう。
分かるだろうか?
日本会議は、現在の日本の憲法

  • 公理主義的な性格

を、バカにして、真面目に相手にしていないのだ。彼らは、あくまでも、天皇の「権力」は、日本の

  • 全て

だとして、譲らない。彼らにしてみれば、それは日本の

  • 歴史

が証明しているのだ(上記の引用の軍人勅諭が、まさに、平泉澄が言っていたこと、そのものであることが分かるだろう。彼は、最後まで、帝国陸軍であり、帝国海軍の「先頭」に立って、天皇が戦争を行ない、指揮する姿を夢想し続けた)。
しかし、ここで展開してきたような、秋葉元広島市長の言う、日本国憲法を「公理主義的に解釈する立場」においては、そういった

  • 外部

からの意味の挿入を許さないのだ。そう考えたとき、そもそも、今の日本国憲法「そのもの」が、何を言っているのかを、

  • それそのもの

から導き出さなければならない。そう考えたとき、日本のこの、「立憲君主制」に類似した、イギリスの状況は、日本の政治体制の解釈に、多くのヒントを与えてくれるのであって、こういった前向きな態度に対して

  • 安倍政権

が、さまざまに、今の天皇の手足を縛る行為を行っていることを、まさに

  • 君側の奸(くんそくのかん)

として問題視しない、いわゆる「自由の戦士」というのは、一体、なにをやっているのだろうなあ、と思わずにはいられないわけである...。
(彼ら日本会議の連中も、今の憲法が、昭和天皇が「これでOK」とした、天皇の意思によるものであることを軽視はできない。そういう意味では、ダブルバインドになっている。このことの重要さをわかった上で、平泉澄は「今の天皇の意思より、歴史的な天皇システムの維持」を優先する立場から、現天皇の「首のすげかえ」すら語ってはばからなかったわけだ...。)

数学書として憲法を読む: 前広島市長の憲法・天皇論

数学書として憲法を読む: 前広島市長の憲法・天皇論