梶村太市・長谷川京子・吉田容子『離婚後の共同親権とは何か』

このブログで何度もとりあげている、東浩紀先生の『観光客の哲学』であるが、この本では、なぜ東先生が「家族」を重要視するのかについて、以下のように説明している。

家族の観念についてまず注目したいのは その強制性である。家族は、自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられる集団でもある。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。
ぼくはここまでいくどか、政治運動と自由意志の関係に触れている。冷戦後の左翼は、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯(根源的民主主義)に期待を寄せてきた。けれども、なんども繰り返しているように、そのような連帯は同じ理由ですぐに崩壊する。自由意志で入った集団からは、自由意志ですぐに出ることができる。それでは週末の趣味のサークルとかわらず、まともな政治の基盤にはならない。
家族の結びつきはそのような単純なものではない。少なくとも婚姻以外の家族関係は異なる。たいていのひとは、生まれた瞬間に特定の家族に加入させられる。そこに自由意志はない。そしてそこからの脱出はかなりむずかしい。この強制性は一般には否定的に理解されるが(実際にそれは児童虐待などの局面では否定すべきものである)、裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだとも言える。国家も階級も、同じように強制性があった(と見なされた)からこそ、政治思想を支えるアイデンティティになったのである。
ゲンロン0 観光客の哲学

この文章を読んで、東浩紀先生ファンクラブこと、ゲンロン友の会の方々一同は、ころっと、いかれてしまったのだろうが、私には強烈な違和感があった。というのは、この文章は、一体、

  • いつ

の話をしているのだろうかが、分からなかったからだ。東先生は、「今」の家族は

  • 自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団

だと言っているのだろうか? それとも、昔の日本の人々は「そうだった」という話をしているのだろうか? 私がこれがよく分からなかったのは、言うまでもなく

  • 離婚する家族

のことを考えていたからだ。言うまでもなく、離婚は法律で決められた、れっきとして、私たちに認められた

  • 権利

であり、実際に、日本中には多くの離婚経験者が住んでいる。東先生は「そう簡単には」と言っているが、別に、今の法律には、離婚をしたからといって、なにかの

  • ペナルティ

を与える制度になっているわけではない。だとするなら、ここで東先生が言っている「そう簡単には」とは、なんのことを言っているのだろう?
つまり、そもそも家族とは「離婚が可能」なように、今の制度ではできている。こういった制度を採用しているにも関わらず、「そう簡単には」と、安易に発言できる東先生の態度に、なんらかの

  • 政治的な意図

が隠されているのではないか、と推測することは、自然であろう。
なぜ、私がこんなことを気にしているのかといえば、私も、今まで、あまり注目していなかったのだが、ツイッターを見てみると、ある一部のクラスター界隈では、ある話題について、熱のこもった議論(ののしり合い?)が行われていることを知り、興味をもった。

共同親権をめぐる、2人の憲法学者の論~木村草太氏と、井上武史氏の関連ツイート集(ごく一部) - Togetter

「共同親権」裁判、2憲法学者(木村草太、井上武史)が対照的意見を多数ツイート。そして両氏が、遂にtwitter上で”接触” - Togetter

憲法学者に因る共同親権の議論の様子 - Togetter

つまり、どうも

の問題が(ハーグ条約などの、海外との関わりに関係して)、政治問題化している、ということらしい。

法務省は2018年7月、離婚後の単独親権制度を見直し、共同親権の導入を検討すると発表した。
(「はしがき」)

この議論の特徴は、HPVワクチンにおいては、推進派であった、憲法学者の木村草太さんや、福祉関係のNGOの駒崎さんが、共同親権反対の論陣で、ツイッターで、さかんに発言していることだ。
つまり、木村さんにとって、HPVワクチンは、医学の分野であり、「専門外」であったわけだが、この共同親権問題は、憲法と深く関わった

  • 彼の専門分野

として、その厳密な吟味が行われているために、こういった態度の差異ができた、ということなのだろう。
さて。では、木村先生の主張とは、どういうものなのか?

主たる監護者が子を連れて別居するのを禁止するんだったら、主たる監護者が「別居したい」と行政機関だか司法機関だかに訴えたら、迅速に、従たる監護者を家から追い出す制度を構築するしかないわけだが、それって、本当にあり?
@SotaKimura 2018/12/05 23:45

要するに、財産管理権や居所指定権や重要事項決定権ではないのね。現行制度でも、子どもの福祉に必要とされたら、扶養や面会の責任を果たせますから、子の福祉に適う形で、ぜひ責任を果たしてください。子の福祉に反するなら、関わらないでください。これも、何度も話したはずなんだけど。
@SotaKimura 2018/12/07 07:42

海外並みに他の制度も全て整えたら、それでもいいんじゃないですか?無料の法律相談機関をたくさん作って、(経済的精神的も含め)DVの訴えに適切に調査・介入して、親権の不適切行使に迅速な判断を出して、子どものころから権利教育してetc.を全て整えてくれたら、こんなに反対論は出ないでしょ。
@SotaKimura 2018/12/09 08:11

日本の家族法が遅れている、と思っている人が多いようだから言っておくけど、戦後の家族法では、「離婚時に親権者と監護権者を分ける」ことは可能。学生時代に妻が「よさそうな制度なのに、なぜそうする人が少ないのか?」と先生に尋ねたら、「親権濫用のトラブルになるから」との答えだったらしい。
@SotaKimura 2018/12/11 08:43

④他国では、「意思がないのに共同親権」にしてトラブルも多いので、外国の悪いところを見習うのは、やめるべきだと思います。
@SotaKimura 2018/12/09 06:32

いずれにしろ、木村先生の考えは、それなりに示されている。掲題の本にも一章を割いて、木村先生の論文が載っている。それが、どこまで専門的に研究されたものなのかは、どもかくとして。
(上記でも木村先生のツイートでも、親権者と監護権者の話に言及されているが、この辺りの民法については、以下がよくまとまっていたと思う。

親権と監護権 | 離婚と子どもについて | 弁護士が教える パーフェクト離婚ガイド

たとえば日本民法のもととなったドイツでは、かつては日本と同様に裁判離婚後は単独親権となっていました。しかし1982年に連邦憲法裁判所が違憲判決を下したことがきっかけで1998年には離婚後の共同親権が法制度化されています。
イタリアやフランスなどの欧米諸国や韓国などのアジアにおいても共同親権は導入済みであり、先進国では離婚後の単独親権制度をとっている国は日本くらいというのが現状です。
共同親権とは? 日本へ導入される可能性や、メリット・デメリットについて解説|弁護士による離婚相談ならベリーベスト法律事務所

木村先生も断っているように、まず、日本の今の制度を「遅れた」制度だと主張することには違和感がある。日本の制度も、戦後、さまざまな事情を考慮した形で今の形になっているわけで、こういった日本の制度への段階を踏むことなく、近年になって「共同親権」に一気に跳躍した、こういった先進国の制度が、比べたときにどういった評価になるのかについては、必ずしも自明ではないだろう。
こうやって見ると、ここでは

  • 先進国

という表現を使っているが、ようするにこれって

なんじゃないか? 言うまでもなく、キリスト教は基本的に、「離婚を禁止」してきた歴史がある。こういった延長線上にこの「共同親権」という考えがあるように、私にはどうしても思えてきてしまう。
つまり、キリスト教社会は今も、基本的に離婚を「認めたくない」。だから、一見、離婚をしたとしても、なんらかの形で

  • これは離婚ではない

と言いたいのではないか? つまり、

  • 合法的な「多重婚」

に近い概念が、こういった制度の「理念」として、つまり、キリスト教の信仰上の「動機」として推進されているような印象を受ける。
キリスト教においては、離婚は認められない。なぜなら、結婚とは神に対して誓いをたてて行うものなのだから、やっぱり止めた、ということになったら、神に嘘をついたことになる。ということはつまり、キリスト教徒は死ぬまで、結婚していなければならない、ということになる。
しかし、である。
当たり前であるが、人は別れて、また別の恋をして、新しい恋愛が始まる。人はそれを繰り返すのであって、そこに老いも若きもない。ということは、どういうことか? つまり、それは「不倫」ということになる。キリスト教がこだわっているのは、その結婚が、神に誓われた関係であることにあったわけで、つまりは、隠れて不倫をしたとしても、表向きには、この結婚関係が維持されるなら、(あまりほめられたことではないけど)文句は言えない、という関係なのだろう。
そして、こういった延長に「離婚」も考えられる、ということなのかもしれない。

欧米の多くの国で共同親権制(Joint Parental Authority)が採用されていると指摘しているが、離婚後の親子のかかわりに関して、正確には、共同監護(Joint Custody)という考え方が採用され、その後、分担親責任(Shared Parental Responsibility)へと変わり、最近では子の世話(Care)という概念が多く使われるようになってきている。これら欧米諸国では、共同養育に向けての法改正によって、離婚後の親子のかかわりの場面で親の権利性が高まったことから、21世紀になる前後から、子の生育にとって深刻な問題が生じ、その解決に苦慮し続けている。日本では、離婚の際に父母のいずれか一方を親権者と定める法制度であることから、これら欧米諸国の抱える困難な問題の発生をある程度防げることになり、日本のような単独親権制度は多くの国の専門家から一定程度の評価を受けている。また、日本では、親権とは別に、離婚の際に監護に関しては協議で定めると規定されていることから、欧米で行われているような、共同監護を基礎とした、離婚後の父母による共同養育も現行法上で可能となっている。
(小川富之「「共同」監護(親責任「分担」)を採用している国の経験」)

うーん。
ようするに、さ。ここで「権利」っていう形で、なんらかの形式的、かつ、概念的、かつ、抽象的ななにかによって、今までの単独親権をもった側ではない、反対の側にも

  • (なにかの)権利を与えよう

と言っているわけですよね。そりゃあ、もめますよねw つまり、さ。これって、「抽象的」なんだ。例えば、上記のキリスト教国家の人たちにとっては、そういった

  • 建前(つまり、観念)

が大事なわけだよね。そういった、カラクリが、まがりなりにもあるということになっているから、人々は、本当は裏でなにしているのか分かったものじゃないと思っていても、表向きの世間体は保てる、と。つまり、彼らにとってみれば、それによって生じる「トラブル」を引き受けることは

  • 割に合う

という直観がある、ということなのでしょう。でも、そんなのキリスト教徒じゃない日本人には、あまり関係ない話にしか聞こえないわけですよね。
ここで私の意見ということになるけれど、私はそもそも、親権なる「権利」の話に、ほとんど興味がない。そうではなく、そもそも、この日本に産まれ落ちた子どもの

は「国家」が保障しなければならない、と思っている。つまり、なんらかの「遺伝子」上の親子に「神秘的」な繋がりをロマンティックに仮定して、最初に引用したような、東浩紀先生のような

  • 家族ロマンティシズム

を(まさに、ニーチェ的な反語によって)擁護することは、日本の戦後憲法に反している、としか聞こえない。
子どもにとって、大事なのは、遺伝子上の繋がりのある、男と女が、(DNA測定機械によって)誰と

  • 判定

されたのかではなく、実際に

  • 誰との、幼年期の「愛着形成」を獲得することができたか

にこそあるのであって、この重要さに比べたら、DNAなんてどうでもいい。なぜなら、「愛着形成」こそが、その子どもが、この人間社会で生きている上での

  • 高度な抽象的な(安心した「信頼」があるからこそ学ぶことができる)ルール

を身につけることを可能にするからだ...。

離婚後の共同親権とは何か  子どもの視点から考える

離婚後の共同親権とは何か 子どもの視点から考える