松岡亮二『教育格差』

日本の教育を、ここ何十年かで、大きな変革を行ったのが、

であったことは明らかであろう。しかし、この「ゆとり教育」は、結果としては、今では

  • 却下

されている。つまり、今は「ゆとり教育」ではない。
このことは何を意味しているのだろうか?
それは、そもそも、ここで「ゆとり教育」を推進した連中の

  • 動機

が疑われたのだ。彼らは、もしかしたら「悪魔」なのではないか? その疑問を、彼ら「悪魔」たちwは、自らでその潔白を証明できなかった。よって、必然的にこの政策転換は数年で元に戻された。
この「ゆとり教育」に大きく関わった一人に、社会学者の宮台真司がいる、と言われている。彼が今まで行ってきた研究は、基本的には、抽象的な

  • 哲学

である。つまり、「思弁」なのだw 口から出まかせで、いい加減なことを言っているのが、哲学者である。もしもそんなことを言いたいんだったら、実証してみたらどうですか、という問いかけを、徹底して

を続けることをライフワークとしている、こういった

  • 哲学者という「詐欺師」

と私たちは戦い続ける必要がある。つまり、「哲学者」とは「社会の癌(がん)」なのだ...。

「自由」による自己選択は理念としては素晴らしい。ただ、もし単純に公教育の役割を縮小するのであれば、「生まれ」は現在よりも直接的に子に引き継がれることになり、厳密な身分社会に近づくことを意味する。事実、2002年に土曜日が休日になったことにより、SESによる中学3年生の学習時間と高校1年生の読解力の格差が拡大したと解釈できる研究結果がある(Kawaguchi 2016)。

この宮台真司の後ろ姿を見て、「こうやって人を、だまくらかせばいいのか」と学習したのが、このブログではおなみじの、東浩紀先生だ。つまり、「哲学」という誰もよく知らない分野を

  • 大衆の目くらまし

として使うことによって、

  • 別の「野望」を実現する

というビジネス・モデルを彼は「発見」した。つまり、大衆は「哲学」を知らない。この知らないことをいいことに、なんでも

  • 好き勝手

に自分に利益になることを、まるで「正しい」ことのように言いつくろって、他人に信じさせて、他人に受け入れさせて、他人を騙し始めたのだ。
こういう「哲学者」という

  • 悪魔

と私たちは戦っていかなければならない。では、どうやって彼らを打ち負かせばいいのか? その一つが「実証」である。

しかし、「2015SSM」は2015年時点で20歳から79歳までの日本全国の住民を母集団とした無作為抽出による大規模調査であるので、その結果は幅広い年齢層と全国を代表するという強みがある。

彼ら哲学者は、そもそも「実証」によって自分の主張を正当化しようとしない。彼らにそれを求めると、しまいには「逆ギレ」されるw そして、その「逆ギレ=開き直り」でよく使われるレトリックが

  • 現実

である。哲学者は「自分の実感」によって、「この世界」を説明できる、ということをなんとかして、人々に認めさせたい。例えば、ヘーゲルはカントの永遠平和(=国家の廃止)に対して、

  • 現実

を対置することによってカントを「嘲笑」したわけであり、もっと究極的に、ハイデガーは「現実」を理由にして、自らのナチス礼賛を正当化した。「現実」という言葉は、彼ら哲学者が人々を

  • 騙す

ときに使う「マジックワード」であり、奴らがことの言葉を使い始めたときには、注意が必要だ。
当たり前だが、上記の大規模調査が重要なのは、その

  • 無作為性

にある。ランダム「だから」、奴ら哲学者が「恣意的」に

  • 操作

しようとする印象操作に、絶対的に介入できない「エビデンス」を与えるのだ。奴らの「屁理屈」に対抗するには、私たちは、こういった「武器」をもたなければならない。そもそも、窶ら「哲学者」は

  • 高学歴

だ(それは、宮台も東先生も「東大出身」であることは言うまでもない)。つまり、彼らはそれだけで、社会的な

  • 発言権

が与えられている。こういった奴らが、本気で社会を自分の言う方に動かそうとしたら、その「権威」によって、いくらでも可能なのだ。「それ」を、彼ら哲学者は使って、人々を自分に有利な

  • 差別社会

に固定しようとする。恐しい。

一方、労働者階級・貧困家庭の親は、大人の意図的な介入がなくても子供は育つと考える。先ほど「(自然な成長を前提とした)放任的養育」と意訳したが、"The Accompkishment of Natural Growth" は直訳すると「自然な成長の完遂」で、「放っておいても子供は育つ」という信念に基づいた子育てスタイルである。意図的養育とは対照的で、1子どもの日常生活は構造化されていない。大人によって組織化されない、すなわち「自由」な時間が多く、近所の友人や親戚と遊び、一部番組内容を除いてはテレビ視聴も制限されない。2大人との交渉を奨励される意図的養育とは異なり、親は命令口調が多く、言語的な内容伝達は最小限に留まり、大人に対して質問・交渉することは期待されていない。さらには、3親戚とは強い繋がりを持つが、学校などの「制度」との関係は限られる。親は自身の教育歴(低学歴)から学校教育について無力感と落胆を抱いていて、学習については専門家である教師の仕事と捉えている(Lareau 2003. 2011)。「放任的養育」を受けた子供は大人に対して自分の要求を伝えることを躊躇し、教員など権威に従う制約感覚(sense of constraint)を持つようになる。

まるで、家族をこの社会の「最後の希望」のように描こうとした、東浩紀先生の『観光客の哲学』は、こういっった

  • 教育格差

を一体、どうしようと考えていたんだろうねw 恐しいね。

国によって生徒をトラッキングする対象年齢や方法には違いがあるのだが、日本の高校教育は際立った制度的特徴を持つ。それは、学校単位のトラッキング----高校間に大きな学力格差がある垂直的なランキング構造である。つまり、この社会に住む誰もが知っている、入学難易度を示す偏差値序列による高校ランクだ。

日本の教育の最大の「矛盾」は、この

  • 高校受験

に集約している。こういった高校の「偏差値による序列」があるのは、先進国では日本ぐらい、ということのようであるw あのさ。偉そうに、ふんぞりかえっている、日本の知識人って、ようするに

  • 全員

この「勝者」なわけでしょうw そりゃあ、こういった連中が集まって、話し合えば、この制度は「素晴しい」ということになるんでしょうね。だって、

  • 自分

は素晴しい、って言ってくれた制度なのだから。

「多様な価値観・個性」の「多様」は何を意味するのだろう。「学校の勉強が好きではない」のも「多様な価値観・個性」として、「ありのまま」許容するのだろうか。SESによって異なる時間を過ごし(第2・3章)、大学進学期待、通塾、努力、行動など様々な点で蓄積量が異なるので(第4章)、学習で成功体験を積み重ねることができなかった中学生の「勉強したくない」という意思を尊重すれば、実質的に高い確率で「生まれ」によって子供を「選抜」することになる。しかも本人の意向を尊重するのであれば、それは自分で学歴獲得競争から降りることを意味する。

東浩紀先生のアニメ論における「キャラ」論ってあったけど、ようするに、キャラも「才能」も、ある人の表層的な

  • スナップショット

でしかないわけでしょw こういったキャラや「才能」を「礼賛」するという行為が、いかに、その人の「本質」を他者が勝手に決定する

  • 悪意

であるのかを象徴している。ある劣等生が「学校の勉強が好きではない」と言ったらそれは

  • キャラ

なのか? ふざけるなよ。こういった連中が、私たちが生きる世界の可能性を欺(あざむ)き、苦しめるわけだ。

求められるのは底上げとなるが、「同じ扱い」では距離をつけるには不十分なのだ。そこで登場するのが追加的に機会を付与するプログラムだ。たとえばアメリカではヘッドスタート(Head Start)と呼ばれる低SESの児童に対象を限定した未就学段階における低SES(地域の)公立校への追加的財政支援がある。これらの追加支援の有効性については様々な議論があり、完全に格差を埋めることはできないが、政策的努力ではある。少なくとも、単に「同じ扱い」を繰り返すだでは「いつの時代にも教育格差がある」ことは変わらないだろう。

というかさ。これ、

  • 当たり前

なんじゃないの? ようするに、学校は「劣等生」を

  • 優遇

しろよ。彼らにもっともっと、手厚い教育サービスを行えよ。そして、優等生に彼らを「勝たせ」ろよ。これができて始めて、教育は

  • 平等

になり、日本の潜在的な労働力は向上する。結局、こういった「劣等生優遇」に反対する、優等生たちが、この日本の「将来」の可能性を破壊する「非国民」なのだ...。

教育格差 (ちくま新書)

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