宗教的人間

この前、共同親権について書いた。そこで、欧米で共同親権が普及したのには、キリスト教の「離婚の禁止」が関係しているのではないか、と推測した。つまり、キリスト教流の結婚式では、神の前で、永遠の愛を誓う。そうであるのに、離婚するとは、その神に誓ったことを翻すということで、神への反逆なのではないか、と考えている、ということである。そこで、この離婚を

  • 形式的

なものと考える。確かに離れて暮らさざるをえなくなった二人は、形の上では「他人」になった、と言わざるをえないだろうが、

  • 実体(=神の前)

においては、その誓った永遠の愛は「続いている(=天国において「実現」する)」と考える、というわけである。
しかし、当然であるが、結婚と子供が産まれることは同値ではない。つまり、親権と結婚は一対一ではない。おそらく、キリスト教は道徳として、結婚しない子供というものを、認めていない、ということなのだろう。
キリスト教において、二人の「愛」は「永遠」なのだ。そしてそれは、たとえ「離婚」においてもそうでなければならない。そしておそらくそれは、

  • たとえ「結婚」していなかったとしても

同じなのだ。つまり、それは「形式的」な結婚式とか、役所への届出とかをやっていない、という意味しかなく、なんらかの意味で、実質的な「結婚的な誓い」が「神に向かって」なされている、と解釈している、ということになるのではないか。
私たちの社会は、離婚を「禁止」していない。たとえ、不倫を非道徳的なものと解釈し、「それ」に対する、なんらかの法的な制裁があったとしても、離婚そのものを、なんらかの「制裁」とはしていない。それは、他方において

  • 多夫多婦制

を採用していないことと関係している。おそらくそこには、なんらかの「財産管理」的な意味が、国家の側の「都合」としてあるのだろう。つまり、国家の制度として「離婚」が認められていることと、つまり「再婚」が認められていることと、この「多夫多婦制」が採用されていないことは、大きな関係があると考えるべきだ。
いろいろと書いてきたわけだが、ここで私が考えたかったのは、

  • 信仰のない人間

を考える、ということが何を意味しているのか、なのだ。ある人が「人を殺さない」というのは、

  • 宗教が「禁止」している

ことが大きく関係している。というか、多くの人はそう思っている。ある人がキリスト教徒だから、その人は、他人を殺さないだろう、と考える。そして、その延長に、上記のような「離婚の禁止」のような考えも続いている。そして、こういった一連の宗教的な考え方は、それぞれ繋がって、関連しているのだ。
例えば、人間が長くペットとして親しまれてきた動物に、犬や猫がいる。しかし、時々、公園のノラ猫が何匹も残虐に殺される事件が起きる。そして、そういった事件の延長に

  • 殺人

が起きる。そして、この殺人を行う人間側には、さまざまな「言い訳」をもっている。例えば、近年では、相模原事件が典型だが、施設の重度な障害者は「殺してよい」と犯人は主張した。それは彼らがもはや「公共の利益」に資さないから、と言うわけである。
私がここで言いたかったのは、そもそも「殺人をしない」というのは、人間の「本性」なのか、という疑いである。往々にして、学歴エリートは子供の頃、残虐な「いじめ」にあっている。そして、その「復讐」を意図して、さまざまな政策提案を行う。彼は「弱かった」子供の頃は、弱いがゆえに「抵抗できなかった」がゆえに、じっと耐えていたわけだが、こうして学歴エリートになって、社会的な発言権を与えられると、まさに

  • 講演のノラ猫を虐殺する

ように、大衆を地獄に落とそうとする。私たち人間は、この自然界の食物連鎖の頂点に立ち、さまざまな動物からの恐怖を怖がらなくても日常を生きられるようになると、今度はその「安全な場所」から、

  • 虐殺を「楽しむ」

ようになる。これが「自然」である。では、この「自然」に対抗できるものはなにか、と考えると「宗教」くらいしか思いつかないわけである。
神を「畏れ」ない人は、なにも「畏れ」ないわけで、それは結局は、最近のネットでの流行語でもある「無敵」の人になってしまう。しかし、そもそもそれを防げる方法はあるのだろうか。
というか、さ。私が分からないのは、自分は「無宗教」だと言っている人が、自分は、京アニテロ事件の「無敵」の人じゃないんだ、と他人に認めてもらおうとして、一体どうするんだろうね。あなたは「怖い」のだ。それはあなたが

だと言っていることに関係している。カントが「人間の尊厳」と言ったことも、究極的にはこれに関係しているわけであろう。功利主義者は、場合によっては、人間を

  • ゴミ屑

にように「捨てる」。それは、彼らがそれを「合理的」だと「計算」したときに行われるわけで、ようするに、功利主義者は、京アニテロ事件の

  • 「無敵」の人

と「同型」なのだw 彼らは他人からそう思われていることを、おそらく「分かっていない」。自分のその「合理的」なるものの

  • 計算

がどこに繋がっているのか、その計算の「無謬性」を疑っていない時点で、彼らは「いつか」、ほとんど、京アニテロ事件の「無敵」の人と同じことを行う(そもそも、全ての哲学者は「功利主義者」だw)。おそらくそこに、私たちの時代においても、宗教に求められている「機能」があるのだろう...。