フランス現代思想の「周縁化」

さて。ちなみに、ツイッターを見ていたら、以下のような「東浩紀先生大好き」さんが、どういった理由で東浩紀先生を礼賛しているのかが、とてもよく分かりやすくつぶやいていたので、ここでは、これを紹介してみたい。

東浩紀のラディカルであると同時に問題であるところは、彼が人間による能動的な変革をまったく信じていないというところにありますよね。彼の世界では人間はまったくの無能な動物であって、革命もリベラルな熟議も無駄であり、欲望を管理するアーキテクチャの在り方を変えなきゃいけないとなる。
@satodex 2019/11/07 05:03

だからこそ東浩紀は左翼から批判されるし、『大失敗』は左翼文脈に置かれているから、東から影響うけてると言った(『情況』インタビュー)だけで批判されたことがある。ただわたしは東の態度をそこまでは馬鹿にできないと思う。というのはこの東を批判する立場は凡庸な人間主義に陥りがちだからです。
@satodex 2019/11/07 05:07

ちなみに『情況』で東の名前を出したのは、わたしとしては完全に意図的な挑発であって、批判されたときは「ざまあみろ」と思いましたが(笑)
@satodex 2019/11/07 05:10

ともかく、わたしは東浩紀の議論を信じることと、近代の可能性を信じることは何ら矛盾しないと思うわけですし、まあ色々問題はあるのだが、基本的にはその辺の党派的な左翼や学者に比べれば東浩紀の知性を信用していますよ。
@satodex 2019/11/07 05:11

上記の方は、東先生には「色々問題はある」と言いながら、その問題を議論することよりも、他との比較において

  • まし

と「言う」ことの方に価値があると考えているようなわけだが、自らのプロフィールに専門は「哲学(デリダ)」と書いてるわけだから、同じ研究対象に切磋琢磨する立場の人がこういった発言をするのは、どこか「アンフェア」な印象を受けるわけだがw
しかし、それにしても興味深いのは、本人がその理由に挙げている

なわけであろう。しかし、多くの一般の方にとって、ここでなぜ「人間主義」という言葉がでてきたのか、というのは、よく分からないはずだ。
こういった態度は、どこか「ジャーゴン」を思わせる。つまり、どうせ大衆は分かるわけがないと考えて、最初から説明する気がないわけで、嫌味な態度だ。
ところで、この日本では、やたらと

という言葉が「嫌われる」。そのことと、ニーチェや、フロイトや、ハイデガーといった

  • ドイツの哲学者

が人気であることは、大きく関係する。彼ら、ドイツの哲学者は一般には「反-人間主義」の哲学者と呼ばれている。この場合、の「反-人間主義」と、なんらかの意味での

  • 人間を「動物」として扱う=動物を「動物学」が扱うように、人間を扱う=人間の個々の「能力」を、まるで「動物」においてのそれと同じように扱う

といった態度とが関係していることが分かるだろう。こういった延長上に

  • 受験「能力」主義

もある。なぜなら、そうやって「科学」によって「計算」された「能力」によって、人間の「価値」を

  • 序列化

することには、人間が「たんなる動物である」という一線から考えずにはありえない態度だからだ。
こういった「科学主義」は現代の科学万能であり、科学の「明るい未来」を宣伝されてきた戦後の日本人には当たり前のように思われるかもしれない。そして、そういった「科学」の可能性に対して、古くさい「人間の価値」のような議論をする

  • カント

や、それに追随する

を馬鹿にするわけである。なんて「非科学的」か、と。
そして、こういった延長に、ニーチェや、フロイトや、ハイデガーといった

  • ドイツの哲学者

がいる。彼らが終生「敵」としたのはカントである。つまり、カントの「人間の尊厳」思想であり、つまりは「人間主義」なわけだ。
ところで、日本で、東浩紀の本しか読んでいない人たちは、まさか、彼の専門である

が、こと「フランス本国」においては、まったくの「周縁化」された哲学者として扱われていた、という経緯を、まったく思いもよらないのであろう。

パリ第十大学の教授フランスワ・キュセが二〇〇三年に『フレンチ・セオリー』を出版したが、これはアメリカにおいて、フランスの現代思想がどのように受容されたのかをテーマにしている。それによると、構造主義ポスト構造主義といったフランスの現代思想(「フレンチ・セオリー」)は、七〇年代以降アメリカで大きな影響を与えつづけてきたが、フランスの状況はそれとまったく対照的だったのである。

フランス、それはいわば逆さまの世界である。まずはアメリカが、続いて世界のその他の国における知の領域が少しずつラカンデリダ的、あるいはフーコードゥルーズ的なものの見方を血肉化していく間、こうした見方だけでなく、彼らのテーマについて議論するための可能性そのものも、急激にフランスから追放されてしまっていた。[....]フレンチ・セオリーの政治的・哲学的争点がアメリカの大学で中心的な位置を占めているとき、フランスでゃフレンチ・セオリーは二重の意味で不当に扱われた。[...]フランスの大学では、当初華やかだったフレンチ・セオリーの地位が、最終的に周縁的なものになり[...]
(『フレンチ・セオリー』第一四章)

ここで指摘されていることは、一般的なイメージとかけ離れているのではないだろうか。日本での印象からすれば、フーコードゥルーズデリダなどは、いわばスター的な思想家であって、本国でもたえず主導的な役割を担いつづけてきた、と思われるだろう。ところが、日本においてフランス現代思想ブーム(「ニュー・アカデミズム」)が訪れた八〇年代前半のころは、フランスではすでに「周縁的」なものへと「追放」されていたのである。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

この岡本さんによると、 フーコードゥルーズデリダといった、まさに日本において

として崇められている哲学者が(確かに、アメリカでの評価が進む一方ではあるが)、こと、本場のフランスでは、どんどん「周縁的」な場所に追いやられた、と言っているわけである。
それはなぜか?

きっかととなったのは、いわゆる「ソルジェニーツィン事件」と言えるだろう。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

この「ソルジェニーツィン事件」がフランスの知的世界に与えた影響は、きわめて大きかった。この事件によって、社会主義国っへの幻滅が広がっただけでなく、理論としてのマルクス主義そのものに対する信頼も消失し始めたのである。さらに決定的だったのは、「六八年以来人々の口に残っていた革命のライトモチーフ」が、表舞台から消え去ったことである。こうして、「六八年五月」に結びつくような「ポスト構造主義」も、しだいに共感を呼ばなくなったわけである。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

言うまでもなく、フーコードゥルーズデリダは「六八年の思想」と呼ばれているわけで、つまりは、日本でいう全共闘世代の、左翼運動から始まっている、と考えられてきたし、それを「代表」するもとといて受けとられてきた。しかし、もしもそうならば、彼らの思想も当然のこととして、この

をまぬがれない。つまり、フーコードゥルーズデリダ

(そこには、ニーチェフロイトハイデガーが含まれる)には、どこかしら

を「肯定」するような側面があるのではないのか、と疑われたわけである。
しかし、話はここで終わらない。岡本さんは、さらに次のように議論を展開する。

それに追い打ちをかけるように発表されたのが、ジャン=フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』(一九七九年)である。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

リオタールがポストモダンを特徴づけるとき、「モダンの大きな物語が終わった」、と規定したのは有名な話であろう。このとき、モダンの「大きな物語」には、マルクス主義の原理(「労働者としての主体の解放」)も含まれている。したがって、リオタールのポストモダン論は、マルクス主義的な革命思想への葬送曲と理解することができるだろう。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

一般的には、ポストモダンと言えば、ドゥルーズの差異の哲学と新和的だと見なされている。ところが、ドゥルーズガタリの受け取り方を考えると、むしろ「新哲学派」の流れで理解したほうがいいだろう。リオタールのポストモダン論は、「ソルジェニーツィン事件」以来続いてきた、マルクス主義共産主義への批判、さらには革命的左翼思想への非難の一環として、理解されたわけである。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

ここでの岡本さんの解釈は興味深い。ようするに、「ポストモダン」とは、

への批判の亜種として現れたことから分かるように、フーコードゥルーズデリダ

(そこには、ニーチェフロイトハイデガーが含まれる)に対する批判としての、一種の

だった、と解釈している、ということになるのではないか。
さて。そもそも、フランスにおいて、改めて「人間主義」が復活した、というのは、どういう意味なのだろうか?

したがって、「六八年の思想」が「反-人間主義」を唱えていたとすれば、「六八年五月の出来事」をまったく誤解していたことになるだろう。フェリーとルノーにおって、「六八年五月」は、まさに人間主義の観点から理解されなくてはならない。しかも、この「人間主義」は八〇年代になて主流の考えになってきたのである。次の箇所は、時代の変化をよく伝えているので、注意して読んでほしい。

六八年<五月>の出来事が、人間主義の再来と考えられがちであるのは、まんざら根拠ないわではない。[...]いまや皆が気づいていることだが、いま、時代の精神は(つまり「八〇年代」の精神は)好んで「主観性」の効力を見直そうとしている。たとえば人権についての倫理にかんしてみられる意見一致(コンセンサス)、また左翼陣営においてすら観察される、個人あるいは社会が国家に対する自律を求めるしだに強まりつつある傾向は、すべて一見したところ六八年の精神の対極にあるいくつかの価値の復権を証言しえいるように思われる。しかしよく考えてみれば、<五月>のライトモチーフのひとつは「制度(システム)」から人間を守ることではなかったろうか。

この引用で確かなことは、「八〇年代の精神」がすでに「人間主義」「主体」「個人」へとシフトしている点である。「六八年の思想」は「反-人間主義」を唱えたけれど、七〇年代の全体主義批判、「ヌーヴォー・フィロゾフ」からの派手な攻撃を受けて、八〇年代には時代の中心から追放されたわけである。
(岡本裕一朗『フランス現代思想史』)
フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)

ようするに、ここで言っている

っていうのは、単純な「反科学」じゃないわけw

  • いま、時代の精神は(つまり「八〇年代」の精神は)好んで「主観性」の効力を見直そうとしている

とあるように、「人間の尊厳」「人間主義」「人権」「主観」「主体」「民主主義」こういったものには、(今、現時点で、明確な「言語化」ができているかどうかはともかくとして)なんらかの

  • 効力

があるんじゃないのか、という

に近い視点からの「再評価」だったわけでしょう。まあ、当たり前だよね。だって、ソルジェニーツィンが明らかにしたように、ソ連型「収容所国家」という

を見せられて、やっぱり「反-人間主義は素晴しい」とか言っている人がいたら、頭がどっかおかしいんじゃないのか、とは、誰だって思うんじゃないですかね...。