伊藤亜人『日本社会の周縁性』

掲題の本は、東大の民俗学文化人類学の先生による、日本が中国の「周縁」国家であったことから見えてくる、中国や、特に韓国との比較による、日本文化の特異性を論じている。
しかし、素朴に読んでいて違和感を覚えるのは、この「周縁」性については、柄谷行人がさんざん議論してたよなー、という感想なわけだがw 少なくとも、柄谷が何度も引用した、ヴィットフォーゲルは、こういった議論をしていたのだろうから、これに言及しないっていうのは、なんなのかな、とは思った。

これだけ時間をかけて宣教活動に力を注いできたにもかかわらず、キリスト教が社会の側に受容されない社会は世界的にも類例が無い。(中略)キリスト教についても、今後も布教が成果を上げる展望が望めないことを多くの日本人は直観的に分かっている。

日本では、なぜか、これだけの間、欧米圏と仲良くしているのに、キリスト教がまったく布教しない。しかも、多くの人の実感でもあるわけだが、まあ、まったく今後においてさえ、これが普及する感じがしないわけである。
これは、謎である。
なぜそうなのか? 例えば、韓国を考えてもらえば、韓国のかなりの人口の割合は、キリスト教徒である。
うーん。
ただ、ここまで書いてきて、少し回答に「もにょる」わけである。というのは、そもそも日本人は、他のどんな「宗教」にしても「信仰」しているのだろうか?

これに対して韓国では、宗教はどこまでも個人の信仰によるものであって、夫婦でも親子でも互いに干渉しない。夫がキリスト教でも妻は仏教徒であったり、あるいは、ともにキリスト教であっても宗教や教会が事なることも少なくない。(中略)個人の精神的自律を重視してきた東アジア文明社会の伝統では、精神生活においても組織は排除すべきものなのである。

韓国において、各個人の「信仰」は決して、他人が介入できる領域ではない。よって、普通に家族で別の信仰をもっていることがあるし、それに対して、家族であっても何も言わない。誰がどんな信仰をもつのかに対して、徹底して他人が

  • 介入しない

のである。それは、あくまでも「個人の人格」の問題であるのだから、他人は絶対に介入しない。
というのは、これはそもそも、「儒教」の教えだから、なのだ。

キリスト教イスラム教のように行動規範が信仰をベースとして習慣化されている社会では、暗黙のうちに個人は神の意思に沿うにふさわしい行動が求められる。同様に朝鮮社会でも、何世紀にもわたる儒教による民衆教化を通して、個人は仁徳にふさわしい行動が期待されてきた。

ようするにどういうことか? キリスト教にしてもイスラム教にしても、もしも「信仰」しているなら、そこに

  • 書いてある

のだから、「そのように生きる」であろう。同じように、儒教でも、「仁徳」だって言っているんだから、それがどんなに

  • 抽象的

だろうが、「そうする」わけである。それが「信仰する」ということなのであって、この

  • 言っていることと「行うこと」とが一致する

ということが、前提なのだ。
というか、である。
そもそも、この二つって「区別」できるのだろうか? 言ったことと実際の行動が違ったら、それって、人間じゃないですよね。私たちは、言ったとおりに生きるし、思ったとおりに生きるし、そうやって「語る」ことと、生きることが違うことだなんて思ってもいない。
だとするなら、この、日本における

状況というのは、何を意味しているのか?

彼は、豊富な読書を通して儒教や仏教にもよく通じていたが、それらを自分の思考の基礎や前提として受けいれているのではない。論理的な枠組みの中に現実の事例を位置づけるのではなく、あくまで自身の経験をもとに現場で対処しながら、古典の内容を吟味するというのが尊徳の基本的な姿勢であった。教えを乞う人たちに対して、彼がしばしば儒家や仏僧の古典や経文の一節を引用したのは、補足的な説明のため古人の言葉を採用したものにすぎず、化が実際に接していた儒学を修めた藩士や仏僧に対しては、偏狭な観念論者と酷評していたのである。

上記の引用は二宮尊徳について書いているわけであるが、これって、ほとんどの日本人にとって、そうなわけでしょう。つまり、キリスト教だろうが、仏教だろうが、儒教だろうが、日本では、すべての教えが、あくまでも、

  • 古典文学

と同じような扱いのものとして、「批評対象」として扱われるだけで、いっくらたっても、それが

  • 内面化

されないってことなのだろう。それを柄谷行人は、日本語の中の「カタカナ」の役割に求めたわけだけれど、おそらく、日本語には(つまり、「訓読み」には)抽象表現が極端にない。つまり、徹底して

  • 書き言葉じゃない

話し言葉だ、ということなのだろう。文字というのは「書く」と、「それ」という形で、その文字そのものを「指示」できてしまう。これが、「抽象的」な思考の出発点で、ようするに

  • 無定義用語

を使った、「コミュニケーション」が、文字言語文化では活発になる。ところが、日本語は徹底して、「話し言葉」であって、

  • 文字がない

から、あくまで言葉は、

  • なんらかの「経験」

  • 対応

してでしか、使われない(つまり、徹底した「経験主義」)。つまり、キリスト教や仏教や儒教の古典を引用するときでも、その思想全体の「整合性」がどうのこうのじゃなくて、その人がなんらかの「経験」をした、「それ」に

  • 対応

した形で、その「フレーズ」が「構造化」しているかどうかで、言及されるだけで、つまりは、「本気」でその古典が「言おうとしていること」に興味がないわけである。
対して、韓国はどうかというと、論語孔子が「言った」のなら、

  • 「それ」に従うのか、従わないのか

が、もろ「信仰」をするのかしないのかの「二択」を意味してしまっている。だから、必然的に以下のような、

  • 二元論

を避けることができない。

儒教の人間観では、内面の徳すなわち精神性を人格の基本とみなし、その一方で外面にあたる身体や技能は軽視されることになった。徳あるいは精神性は内面に秘められた観念とされ、それは文学と書によって説かれる。内面の「徳」を貴ぶのに対して身体と不可分な「才」・「技」は賤とみなされる。こうした貴賤観念は社会的評価にも反映され、内面の徳を具えた人は貴とされ、徳を欠き才と技で生活する人は賤とみなされる。内面の徳にかなう生活像を理念として掲げて文と書を重んじる文人層は貴とされ、身体を働かせ、物を扱い、道具を用い、物を作り、物を商う人々は賤とみなされた。

誕生祝いの日に、筆や算盤や大工道具などを並べて、無心な子供がどれを手にするかで子供の将来を占ったりすることは、かつて日本でも行われていた。(中略)日本では、どれを手にしようとも、子供の将来をさほど悲観したりしなかったと思われるが、韓国の親たちは子供の将来に特に期待するところが大きい。幼な子にも筆や書を手にすることをのぞみ、大人たちはそれを祝福したのである。韓国では、子供が将来学問や文筆に関わる職業に就くことを期待する気持ちは今も変わらない。

そりゃあ、論語孔子が「仁徳が大事」と言っているんだから、ということは、つまりは、

  • それ以外は大事じゃない

ということにならなければならないわけでw、必然的にこの「職業」の貴賤が避けられない。だって、そう「書いてある」んだから、しょうがない、ってなるわけである。
しかし、ね。
まあ、これが日本と、その他の国の「文化」の違いっていうことになってしまっている、というわけなんだよね。

その学生によれば、はじめて日本の漫画やアニメの世界に触れた時、それまで自分を取り囲む韓国の文芸は、どれもが観念的な枠組みを押し付け、規範や教訓的な話ばかりであったことに気づいた。これに対して日本の漫画やアニメは、そうした論理的観念的な世界とは全く異なり、個人の揺れ動く感性やこだわりや官能の世界を全面に出しているのだという。自分たちは異本のアニメや漫画に接することで、韓国では接することのなかった新しい世界が目の前に開かれているのを実感したのだという。そして、韓国の観念的・教訓的な世界とは、男性の知的指導層が作り上げてきたのもであるのに対して、日本の漫画やアニメでは、女性性を何はばかることなく前向きで魅力的に提示しているのだという。

日本のアニメは、日本のフェミニストからは馬鹿にされて、糾弾され続けているけれど、このような形では

  • 評価が高い

わけである。そのことの意味は、ようするに、

ってことなわけでしょう。フェミニストの態度は、一種の「キリスト教道徳」なわけだ。もちろん、それを主張している人たちは意識をしていないのだろうけれど。
そして、この事情は、韓国における儒教でも同じで、彼らが「儒教を生きる=信仰する」限り、その道徳から外れたことを主張できない。よって、必然的に、あらゆる芸術は、儒教道徳の説教説話に還元される。ならば、必然的に、儒教が何千年とそうだったように、男尊女卑な内容となる。つまり、この

  • 網から抜け出せない

のだ。それは、その宗教を「信仰する=生きている」限り避けられないのであって、つまり、思想と

  • 距離

がとれないのだ。フェミニストからは日本のアニメの「無思想性」が馬鹿にされるわけだが、むしろ、そうであるからこそ、日本のアニメが

  • 女性性を何はばかることなく前向きで魅力的に提示している

ことを可能にしていることに、無自覚なのだ...。

日本社会の周縁性

日本社会の周縁性

  • 作者:伊藤 亜人
  • 出版社/メーカー: 青灯社
  • 発売日: 2019/09/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)