リスペクトされる人間

この前紹介した、『日本社会の周縁性』という本では、日本社会が徹底した

  • 経験

に対応して思考してきた、音声言語文化の国なんだ、ということが書かれていた。これに対立するのが、「文字」による、対象物の具体的イメージをもたない、抽象的な言語間構築物のことで、そういったものに一定の「敬意」をもっている社会だということになるだろう。
こういった特徴を考えたときに、日本における「リスペクト」とはどういうものだったのか、と考えてみたい。
日本でこういった精神性を象徴してきたものとして、武士の「切腹」があるだろう。つまり、「ハラキリ」である。

懿公には、弘演という忠臣がいた。懿公が殺されたとき、弘演は外交の使命を帯びて他国に出張していた。弘演急を聞いて駆けつけたが、間に合わなかった。狄人はすでに去り、惨劇の現場には、懿公の血まみれの肝臓がポツンと置かれていた。まさに「肝脳、地に塗る」である
前章で見たように、古代中国人は肝臓を意識の座であると考えていた。
加藤徹『怪力乱心』)
怪力乱神

弘演は懿公の肝臓に向かって、外交の報告を行った。それが終わると、天をあおいで慟哭し、悲しみを尽くしたあと、肝臓に向かって言った。
「わたくしめを衣服の代わりになさってくださいませ」
弘演はみずからの腹を割いて贓物を取り出すと、懿公の肝を入れて息絶えた。

弘演の壮烈な殉死の話は、天下に伝わった。斉の君主で春秋五覇の筆頭に数えられる桓公は、感心して言った。
「無道のせいで自滅した衛国に、これほどの忠臣がいるとは。復興させぬわけにはゆくまい」
桓公はいったん滅亡した衛国に援助を与え、国を復興させた。世の人は弘演の忠臣をたたえた。
加藤徹『怪力乱心』)
怪力乱神

まあ、病気の治療とかで、切開手術をしたことのある人は分かると思うが、お腹の切るということは、お腹の「筋肉」を切る、ということなんだよね。そしてそれは、まあ、なにやっても、人間の体って、お腹を「動かし」て生きているから、痛いわけだ。
(まあ、こんなことを考えていると、刃物って怖いんですよね。動物や魚の肉を切るときに使うのも、相当に痛いんだろうなと思われてくるし、そうやって出された料理まで、黙ってしまう。)
そしてそれは、多くの日本の大衆であり、農民にも伝わったと思うわけである。農業をやっていれば、腹を切るなんてこともあっただろうし。そして、そういう時にこそ、そういった人の人間性って現れるんでしょうね。ギャアギャア泣き叫ぶ人、苦しくてもそれを外には見せず耐えている人。まあ、そんなようなところで、人間の徳とかが、理解されてきたのでしょう...。