私は実在論がなにか分かっていない:はじめに「実在ってなあに?」

ここのところ、本屋の、分析哲学関連や科学哲学関連の本棚を見ると、(特に日本人学者による)

といった新刊の本が、のきなみ並んでいる。そして、その代表的なものが、

植原亮『実在論と知識の自然化』
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

ではないか、と思っている。ところで、この本のタイトルにもある「実在論」ってなんなんだろう? というのは、例えばこの本における「実在」の定義にしても、結局この人は何が言いたいのだろうか、と分からなくなるような説明が続くからなのだ。
しかしここで私が「分からない」と書いたことを、人によっては

  • 分からない

と言うのだろう。というのは、それだけ、世の中的な「常識」としての「実在」という言葉は、自明なものとされているからだ。
それだけ、世間一般の普通の人にとって、「実在」という言葉が当たり前のように通じるなら、なぜそれを改めて、考察しなければならないのか、と思うかもしれない。いや、私がここでやりたいのは、そういったことではない、と言った方がいいのだろう。私がいらだっているのは、ここにある「形而上学」だと言ってもいいかもしれない。とにかく、以下で考えてみよう。
まず、上記の本の考察に入る前に、世の中的に「実在論」と呼ばれているものには、以下の、まったく違った内容に関係している、三つのタイプがある:

  1. 反観念論 ... カンタン・メイヤスー『有限性の後で』に代表されるような、いわゆる、観念論を「否定」するタイプの議論(そして、その代表として、シェリングを再評価していく)。このタイプの中に、ポストモダンや社会構成主義、サイエンスウォーでの議論を含めることができるのかもしれない。
  2. 古典的普遍論争 ... スコラ哲学で行われていた「普遍論争」。
  3. 科学的実在論論争 ... 科学哲学の文脈で行われている、原子や電子などの、人間の目では見えないような物理的対象の「実在」を争うタイプ。

まずは、これらに対応して、上記の植原先生の本の主張を眺めてみたい。