私は実在論がなにか分かっていない:おわりに「科学的実在論」

まあ、これで終わりにしたいが、私は「実在論」の問題を議論すると言っておきながら、科学的実在論にほとんど言及しなかった。それは、上記の植原先生の本でもほとんど言及されていないから、というのもあるが、もっと言えば、この例は、結局のところ

  • 科学

とはなにをやっていることになるのか、について深く考えさせられると思うわけである。
確かに、科学者は自らが「素朴実在論者」だと言うだろう。そして、実際に彼らはそういった用語で語る。しかし、彼らがなんと言っているのかと、実際に彼らが

  • 何をやっているか

は別である。そもそも、科学の命題とは、ある対象の「ある側面」を、わざわざとりだしてきて、その特徴「だけ」をモデル化するものである。つまり、科学者は一見、世界について語っているように見えながら、実際は、その「モデル」について考えているわけである。科学はその「モデル」と、実験結果が「整合的」である限り、否定されない。それは世界を「そのまま」記述するのとまったく違う。そもそも科学論文は、それだけでは「読めない」。その実験室の、「文脈」を実体験として共有している、科学者集団だから、その暗示的な記述が、

  • なにをすればいいのか

が分かる、という構造になっていることと不可分である。科学的実在論は人間が、自然な視力では見えない、小さな対象をめぐって行われる。人間の目で見えないのに、それが「在る」と言うことには、一体どんな意味があるのか? 見えないということは、それは機械がはじきだす

  • 数値

しかない、と言っているのと変わらない。それを科学理論側のモデルに戻せば、あるのは

  • 数式

だけ、ということになる。さて、私たちは「実在」のことを「数式」と言って、満足できるのだろうか? いや、なぜこんなことになるのか、と問い直さなければならない。その答えは

  • 科学

にある、と言うしかないであろう。科学が「何をやっている」ことになるのかを抜きにして、「実在」という言葉の「位置」を決定することは、おそらくできないのだろう...。