ミゲル・アバンスール『国家に抗するデモクラシー』

それにしても、福島第一原発事故にともなう「緊急事態宣言」が今だに解除されていないと聞くと、人々は驚くのではないか。もちろん、福島第一原発の爆発した跡地は、今も悲惨な状態であることは間違いなく、まったく、廃炉の目処もたっていないというのが現実であるわけで、そういった側面を私が否定したいのではない。
そうではなくて、私が疑わしいのは、

  • 国家

はなぜ「緊急事態宣言」を解除したがらないのか、なのだ。つまり、私が疑っているのは、今の自民党による、憲法改正という名の

  • 非常事態宣言

の「記載」を目指す運動の、あまりにもの

  • 恐しさ

と同型の事態だと考えるからだ。福島第一の緊急事態宣言が解除されないということは、今も、緊急事態なのだから

  • 一切の法律を守る必要がない

というロジックだw なぜなら、緊急事態なのだから、国民は国家に従属しなければならないし、それに耐えなければならない、と言っているのだから。
もちろん、そんなことはないだろう。しかし、今、憲法改正を目指している自民党議員が、なぜ、「非常事態宣言」を憲法に記載することによって、それを目指していないと言えるのだろうかw
自民党の保守派が考えていることは、どうやって、日本の民主主義を破壊するか、である。彼らは、国民に人権を与えてはならない、と考えている。つまり、日本における

  • 主権

とは、唯一

に「だけ」あるのだ。そして、その他のすべての国民は

であることが、「真の日本の姿」だと考えている。もちろん、ここで私が「奴隷」という言葉を使うことに抵抗感をもつ人もいるだろう。しかし、これを「丁稚奉公」と言い換えたらどうだろうか? なにか、

  • 日本人の本来ある姿

のように聞こえてくる側面があるような気がしないだろうか。
自民党議員が考えているのは、どうやって、日本人から、自由や平等や友愛を無くすか、なのだ。そして、どうやって日本人を天皇の奴隷という「本来ある姿」に戻すか、なのだ。
その一番簡単な方法はなんだろう? 言うまでもない、憲法に「緊急事態条項」を加えて、光の速さで、その緊急事態を

  • 宣言

すればいい。そうしてしまえば、

は、その時点で「無意味」になる。なぜなら、すでに緊急事態だからだ。緊急事態なのだから、日本人には、人権はないのだ。国家は、国民を好きなように、煮るなり焼くなりできる。しかし、それこそ、自民党が目指している

なのだ。彼らが目指すユートピアは、どうやって「天皇が、日本人の誰かを<殺したい>と言ったら、光の速さで、それを実現するか」にかかっている。つまりは、究極的な

  • 天皇「のみ」の<自由>

を国民すべてを、天皇の奴隷と、あらためてくすることによって実現することにあるのであって、

  • それ以外はどうでもいい

わけであるw
なんて、突拍子もないことを、この人は言ってるんだ、と聞こえるかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。日本に、戦前からある土着の宗教は、ことごとく、戦前の皇国思想政策によって、天皇をその宗教における

  • 聖人(または、神と同等の存在)

として、その理論体系の中に位置づけているわけである。つまりは、どういうことか? 上記による、天皇「独裁」は、その理論体系の中において、最も

  • あるべき姿

として具現化されているんじゃないのか、と解釈することもできるわけである。
日本人の多くは、正月には、神社にお参りに行くわけだが、その神社の「理論体系」においては、もしも、天皇が死の危機にあったら、国民は

  • 命を投げうってでも、その危機から救うべきだ

と考えているのではないか? そして、上記で私が書いたことと、それと、なにが違うというのだろう?

デモクラシーの欠陥を数え上げ、その諸幻想を暴こうと躍起になるわれわれの性向が顧みてこなかったる思考様式を、一八四三年におけるマクルクスの範例的研究は思い起こさせてくれる。それに当たってわれわれは、政治的なものの終わりという主題の影響下で、このかたちの政治的共同体が語のもっとも通俗的な意味での「ユートピア」であると凡庸かつ盲信的に考えてはいけない。理性の倦怠とそれに伴う無批判な懐疑論とを脇において、最初の問いに戻ろう。真の意味でのデモクラシーとは何か。『ヘーゲル国法論の批判』の著者は「現代のフランス人」に依拠しつつ驚くべき謎めいた答えに到達した。それによれば、真のデモクラシーの到来は政治的国家の消滅を伴うというのだ。そのうえ、この本質的なテーゼを明日なき日の出のような[矛盾的な]ものとせず、そのなかにマルクスの政治的な問いの潜在的で隠された、一貫した次元を認めることに同意するならば、一八四三年のテクストと一八七一年のパリ・コミューンに関する<声明>とのあいだに、過程の思考から抗争の思考への推移を認めることになるのではないだろうか。デモクラシーは国家が消滅する過程において姿を現すというよりも、国家に抗する(contre)闘いにおいて構成されるということになるのではないか。こうして、はじめの二者択一は信用を失って撤回される。このように解される場合、デモクラシーの真理は「民主的国家」という日常表現が表象する、節度ある合意という定式と対立する。問われているのが国家であれデモクラシーであれ、この表現は批判的吟味の欠如を露呈してしまうのではないか。同様に、支配への批判の名のもとでデモクラシーを拒否することはもはや支持できない。なぜなら、デモクラシーはそのもっとも深遠な目的に向かい、支配者/被支配者関係の消滅、非支配状態の到来へと邁進するからである。

どうだろう? 日本で、最近もいろいろと注目されてきた、哲学者。東浩紀先生にしても、宮台真司先生にしても(あるいは、稲葉振一郎先生にしても)、究極的なところでは、

  • (凡庸な)国家主義者(それが、EUや世界政府に変わろうがなんだろうが)

であることには変わらないのではないか? 国民を国家の「犠牲」にすることを

  • 当然

と考える。いや、もっと単純に、大衆をエリートの「犠牲」にすることを

  • 当然

と考えているという意味では、こういった「進学校」から、東大に代表されるエリート大学から教授となってきた人たちに共通する

  • 男子校しぐさw

のようなもの(下劣な作法)を感じざるをえないわけであるw
掲題の著者も整理するように、マルクスの立場は、徹底した社会契約論の拒否であり、

の線で、国家論を考える立場だということになり、それは、つまりは、ヘーゲル

に国民を「従属」させる思考の「拒否」に代表される。
そしてそれは、現代日本でもあまりにも当たり前に考えられている

  • 民主的国家

という「自己矛盾」をはらんだ概念に対する、徹底した批判なしにありえない。
この分析を、例えば、映画「リチャード・ジュエル」に見出すこともできるであろう。リチャード・ジュエルは、アトランタオリンピックでの、爆破事件を未然に防いだ

  • 英雄

であるが、彼は「国家」によって、その爆破犯に「したたあげられる」わけである。なぜなら、国家は「体面を保つ」ために、少しでも早く、

  • 事件を解決する(犯人を掴まえる)

ことが、世界中から求められていたからである。
よく考えてほしい。彼は、多くの人々の命を救ったのだ! それは驚くべきことなのだ。私たちが感謝すべきことなのだ。そうであるのに、国家は彼を無実の罪で、罠に陥れる(まさに、今回の、カルロス・ゴーンさんの事件がそうだろう)。
こんなことがあっていいのだろうか?
それを、この映画では、リチャード・ジュエルの弁護士が代表して訴える。リチャード・ジュエルに必要なのは

  • 怒り

である。自分が、絶対にあってはならない扱いを受けた。だったら、彼は怒らなければならないのだ。映画では、リチャード・ジュエルの母親が、涙ながらに、テレビ映像の前で、国民に訴える。しかし、この理不尽な扱いは、

  • 国家

が彼らに与えたのだ。リチャード・ジュエルの弁護士は彼らに、国家と「戦う」ことを求める。国家は「神聖」ではない。国家は「権威」ではない。それは、別の言葉で言えば、

  • 真のデモクラシーの到来は政治的国家の消滅を伴う

ということを意味する。つまり、その時、国家は

から

に変わることを意味していると言ってもいいわけで、つまりは、

  • 支配者/被支配者関係の消滅、非支配状態の到来

なしに、どんな理想社会を僭称することも許されないのだ...。