植松聖とピーター・シンガー

さて。相模原事件の容疑者である、植松聖の裁判が始まり、彼が法廷で何を話しているのかの驚くべき内容が、毎日のように、ネットのニュース記事で目にするようになって、一体これはなんなのだろう、と思わざるをえない。
しかし、私たちを本当の意味で震撼させたのは、この事件に対して、安倍首相がほとんどまっとうなコメントを発表しなかったことではないだろうか。当たり前だが、こういった斬殺事件があるたびに、世界中の指導者は、なんらかの怒りのコメントをしていきた。それは、安倍総理も同じで、例えば、京アニ事件でも安倍首相はなんらかのコメントをしていたと思う。
ところが、この相模原事件ではそれはなかった。これはなんだったのだろうと振り返ったとき、誰もが思い出さずにいられないのが、事件前の植松聖が、自民党の事務所を訪れて、なんらかの手紙を渡す行為をしていた、といったニュースであった。つまり、自民党はその時、植松の「思想」に一定の

  • 賛意

を示したのではないか、といった疑いがあるわけである。
こういうと、なにを「恐しい」憶測を話しているんだ、と思われるであろう。そういうのを、陰謀論と言うんだ。デマを流すのを止めろ、と。
しかし、である。
私の考えは、もっと「過激」だ。というのは、日本人のかなりの「エスタブリッシュメント」は、実際には、植松と同じ考えなんじゃないのか、と疑っているわけである。
その「証拠」もある。
それが、「ピーター・シンガー」だ。

シンガーは、ある状況下における嬰児殺しが正当化できるという彼自身の考えに関して、「それは親と医者とが協議をして決めるものだ」と言った。「集団のなかに入っていって人を殺すような狂気じみた奴とは同じではない」と。
生命の質がないような場合における慈悲殺の擁護としてシンガーの立場を受け入れることはたやすいことであろう。たしかにそれは筋が通っているように思える。しかしシンガーは、許容可能な嬰児殺しに関して、番組で示した見解よりも深刻な結論を持っていることを公にしている。彼は従来の道徳性の境界線を、彼自身が厳格な客観性であると信じて疑わない考えをもとに押し広げようとしているのだ。次の文章は彼の著書である『実践の倫理』からの一節である。

「障害新生児の死が、幸福な人生へのよりよい見通しをもった別の乳児の誕生につながるなら、それは障害新生児が殺されたほうが幸福の総量が大きくなるということを意味する。障害新生児に関わる幸せな人生の損失を、次に生まれる子どもに関わるより幸せな人生による利得によって上回ることができる。したがって、もし血友病の乳児を殺すことが周囲の他人に対して不利な影響を与えないなら、幸福の総量の観点から、その子どもを殺すことは正しいであろう」(4)。

本文中で、シンガーは現実に血友病者の死を求めているわけではないのは明らかではある、とはいえ、健康な個人は本質的に障害のある人よりも幸せに違いない、という仮定は障害者に対する差別であり、偏見である。そして、そのような仮定は自分自身を冷徹な論理の持ち主であることを誇るような人から出てくる極端に偏った思考であることを明らかにする。いったい、そのような偏った思考の持ち主に、生命の質が何によって構成されるのかなどを決める資格があるのだろうか? そして、障害新生児の親や医者が子どもの生命の質を決定する資格がよりあるなら、それは私たちすべての文化的な偏りに起因するではないのか?
(ナオミ・チェイニー「安楽死と優生思想との境界線はどこなのか」)
ピーター・シンガーは障害者に対するヘイトクライムをまき散らす加害者なのか?|yas_zon|note

なぜここで、シンガーを問題にするかは、日本の知識人の多くが

であり、そしてこの、功利主義者の「権威」でもあるシンガーをとても、

  • 好意的

に引用し続けている事実がある。つまり、ここで考えてみてほしい。もしもあなたが「功利主義」を自称するなら、なぜピーター・シンガーの主張に賛成なのか、反対なのかを言わずに済ませられるだろう? ということは、どういうことか? ピーター・シンガーを一貫して、好意的に紹介し続けている日本の哲学者たちは、そもそも、彼と同じように考えている、ということなのではないか。
もしそうだとするなら、上記の論文が論じているように、シンガーの主張と、植松の主張が、シンガー自身がどんな言い訳をしようと、厳然とした「類似性」があることは、言い逃れのできない事実なわけだから、ひいては、彼らは植松とほとんど変わらないことを考えている、ということにならないか?
なぜ、シンガーの主張はこういったデリケートな隘路に入っていくのか? 彼は、『実践の倫理』において、自らの功利主義

という形で語った。この「恐しさ」が分かるだろうか? 彼は「パーソン」、つまり、「理性的で自己意識のある存在」という尺度で、功利主義的に「幸福計算をすべき」だと言ったのだ。そこから、彼の「動物解放論」が生まれる。しかし、この主張を敷衍していけば、まず、猿やチンパンジーは「より人間のパーソンに近い」という意味で、人間と同等に扱わなければならなくなる。そして、その

も言えるのだ。それが上記の、「障害児」だ。彼らに「パーソン」が見出せないなら、むしろ、

  • 猿以下に扱わなければならない

と言っているのだ。恐しいね。
しかし、どうだろう? これって「自民党が言っていること」なんじゃないのか? 自民党は、反民主主義であり、反人権であり、「天皇が唯一の日本の主権」という思想なんだから、その天皇になんの「奉仕」もできない、「障害者」という「パーソン」が

  • 猿より劣っている

人たちは殺していい、と「言いたい」人たちなのではないか?
そして、私は日本のアカデミズムにおける「功利主義者」を自称している人たちは、こういった自民党や国家官僚の

  • 要望を叶えよう

という延長で、この「功利主義」という思想を主張しているんじゃないのか、と疑っている。彼らは、そういった形で国家に「奉仕」することで、自分の大学という「国家奉仕機関」における「役割」を果たそうとしている、そう考えられないか...。