笠木雅史「進化論的暴露論証とはどのような論証なのか」

功利主義者のピーター・シンガーなどがさかんに言い始めた論法として

  • 進化論的暴露論証(evolutionary debunking argument)

というのがある。

  • [進化論的前提]:われわれの現在の道徳的信念の起源についての進化論的説明は正しい。
  • [説明的前提]:進化論的前提が正しいならば、われわれが現在持つ道徳的信念の多くは、その真理を前提にすることなく説明される。
  • [認識論的前提]:説明的前提が正しいならば、われわれの道徳的信念の多くは、われわれが通常持っていると考える認識的性質を持っていない。
  • 懐疑論的結論]:したがって、道徳的懐疑論は正しい。

つまり、私たちが今、道徳と呼んでいるものも、進化論の産物なんだから、ということは「真理じゃない」よね(適応主義によって、そのように「至った」というだけなのだからw)。よって、道徳は「存在しない」、と。
これを、いわゆる、古典的な「懐疑論」と一緒にしてはならない。というのは、功利主義者のグリーンやシンガーは、この「レトリック」を使って

  • おもしろい主張

をしているからだw

この基礎的な道徳的信念の形成方法をなんと呼ぶかは論者によって様々である。「道徳的感覚」「道徳的直観」「システム1」などの名称が用いられる。de Lazari Radek & Singer(2012)、Greenn(2008, 2013)、Singer(2005)はこのような道徳的信念の形成方法は、義務論的な判断を行う方法であるとした上で、暴露論証を義務論的な判断の信頼を否定するために用いる。理性的・反省的な道徳的信念の形成方法は功利主義的な判断を行う方法であると彼らは考えるため、義務論を批判し功利主義を擁護するために暴露論証を提示するのである(しかし、Street(2011)の考察を敷衍しつう、このような暴露論証の適用対象の限定は極めて難しいと、Kahane(2011)は論じる。de Lazari Radek & Singer(2012)は、この批判への応答を含んでいる)。この点についての議論は、[説明的前提]に現れる「多くの信念」にどのような信念を含めるのかについての議論でもある。

おもしろいね。グリーンやシンガーは自分たち「功利主義者」の立場として、カントの義務論主義者が

  • 間違っている

ことを論証するために、この「進化論的暴露論法」と使った、というわけである。
しかし、どうなったのだろうか?
上記の引用で、Streetの主張が紹介されているわけであるが、ようするに、もしも、カントの義務論が「進化論的暴露論法」でダメとなるんだったら、

にならざるをえないんじゃないの? っていう、あまりにも素朴かつ自明な反論をくらったわけだw
うーん。
この議論さ。今、世間でさかんに言われている、「二重過程論」が「トンデモ科学」なんじゃないのかっていう議論と、恐しいまでの平行性があるよね。つまり、さ。功利主義者たちが、さかんに饒舌なまでに語ってきた

  • 直観と理性の区別(それに対応した、カント主義と功利主義の「違い」という、カント主義への「レッテル貼り」)

って、そもそも「現象」として存在するの? 一体、どこで「線」を引こうとしているの? まったく意味不明なんだよね。
さて。掲題の本文では、さまざまな観点から、この「進化論的暴露論法」が論じられているわけであるが、そこで、もしもこここで「道徳実在論」を擁護するとするなら、一体どういった主張によってそれはなされうるのか、を主張しているところがあるので、紹介したい。

このタイプの暴露論証の懐疑論的結論を[正当化の信頼性条件]と[正当化の阻却証拠不在条件]のどちらに訴えて導入するにせよ、これらの論証に対する応答とてもっとも議論されているのは、「第三要因説(third-factor account)」と呼ばれるものである。

第三要因説によれば、進化論的説明がその真理ではなく、適応性によってわれれわの道徳的信念を説明するにせよ、少なくとも幾つかの適応度の高い基礎的な道徳的信念の持つ特徴は、道徳的真理と相関する。したがって、これらの道徳的信念の進化論的説明が正しいならば、同時にこれらの道徳的信念の形成方法の信頼度は高いということになる。
第三要因説に属する諸説は、道徳的真理と相関するのはどのような基礎的な道徳的信念の特徴かという点で異なっている。ここでは、デイヴィッド点イーノック(David Enoch)とエリック・J・ビーレンバーグ(Eric J. Wielenberg)の第三要因説だけを紹介しておく。イーノックは、「生存や繁殖の成功は概して良いことである」ということが道徳的真理だと想定する(Enoch 2010, 2011, ch. 7)。生存や繁殖の成功が適応度を高めるならば、この道徳的真理を信じた上での生物の行動も適応度が高いことになる。したがって、この信念を生み出す信念形成方法が自然選択により獲得されるはずであり、それは同時に真なる信念を生み出すため信頼度が高いと、イーノックは論じる。ビーレンバーグは、「高度の認知能力を持つ生物は権利を持つ」ということが道徳的真理だと想定する(Wielenberg 2010, 2014, ch. 4)高度の認知能力を持つことが適応度を高めるならば、権利をもった生物であることも適応度が高いことになる。したがって、高度の認知能力を持つ生物であるわれわれが「自分たちは権利を持つ」という信念を形成する場合、それは真であり、この信念の形成方法は信頼度が高いと、ビーレンバーグは論じる。

第三要因説の批判者は、第三要因説は何らかの道徳的真理を想定する点で、論点先取であると批判する(Crow 2016; Horn 2017; Joyce 2016b; Locke 2014; Schafer-Landau 2012; Street 2016)。これに対し、第三要因説の支持者は、認識論的懐疑論についての暴露論証は、道徳的信念が知識であることや正当化されていることだけを疑問視しているのであり、それが真であると想定することに問題はないとする。ある信念形成方法の信頼性を、その方法によって形成されるどのような信念も真であると想定することなく、独立に示すということはほとんど不可能である。このような厳格な要求を信念の正当化の阻却証拠を阻却するために課すことは、不当な要求であると第三要因説の支持者は考える(Schafer 2010; Enoch 2010, 2011, ch.7; White 2010; Clarke-Doane 2012, 2015, 2016a; Setiya 2012; Wielenberg 2014, 2016)。

まあ、なんだ。上記の「第三要因説の批判者」の「論点先取り」という批判は、逆に言ってしまえば、

  • お前のその「難癖」を認めたら、私たちが今、前提として生きている、ほとんどの「信念」が成立しないと言っていることになるわけで(つまり、これは「カント的義務論」だろうが、功利主義だろうが、そういった道徳だけではなく、「あらゆる」信念そうなってしまうわけで)、そんな「古典的な、根源的懐疑論」の話をお前はしたかったのか?

と言っているわけだ。
なんでこんなことになるんだろうね゙?
まあ、普通に考えれば、そもそも、グリーンやシンガーは「カント的義務論」を論破して、自分たちが信仰する「功利主義」の正当性を示すために、この

  • 進化論がどうとか

をもってきたわけだ。そして、彼ら自身はこの論法は十分に説得力があると思った。しかし、上記の引用でも書いたように、そもそもこの彼らが前提とする

  • 直観と理性(二重過程論で言えば、システム1と、システム2)

  • (二つの道徳理論の間に勝手に線引きされた)区別

が「うさんくさい」わけだw もちろん、グリーンやシンガーの立場からは、この区別こそが、カントが駄目で自分たちが良いことのエビデンスなんだから、絶対に捨てられないわけだが、なんでそれを聞いてる私たちまでが、その屁理屈につきあわなければならないのかねw
私の立場から言わせてもらえば、そもそもこの進化論的暴露論証はその、

  • 進化論的前提

こそが疑わしい。それは、ダーウィンの進化論が間違っていたということではなく、

が疑わしいって議論も十分ありうるように聞こえる。多くの道徳的な信念の形成がなぜ、自然選択「だけ」によって形成されてきたと考えなければいけないのか(まあ、適応主義者なら、それを「ほとんどすべて」と仮定してよい、と考えているわけですから、こういった態度になるわけですが)。もし、そこを疑えるなら、そもそもこの議論は、最初から満たしていないのですから、話半分に「そんなこともあるのかもしれない」程度に聞かなければならない、って、そんな話にも聞こえますけどね...。

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