言語は生得的か?

こと、「遺伝子」の問題は、ナチス・ドイツ

を想起させるため、評判が悪い。しかし、このことは逆から言うこともできる。遺伝子は「科学」である。だとするなら、なぜその科学の

  • 成果

から目をそむけるのか? 科学の進歩を「受け入れる」こととは、

  • 啓蒙

と同値のことなのではないか? このことから、現在非常に危険視されている、ニック・ランドなどの

  • 暗黒啓蒙

の議論が想起される。人間は遺伝子によって「決定」されているのなら、なぜ勉強による「選別」など行うのか? 遺伝子を見て、誰が「優秀」になり、誰が「優秀にならない」のかが

  • 生まれる前から(=生得的に)

分かっているなら、そうやって、最初から「才能に恵まれている」子どもだけを「選別」して、彼らに「エリート教育」を行えば、

  • 効率的

じゃないか、と言ったのが「功利主義者」であるw つまり、この功利主義と、「啓蒙=科学原理主義」は、根底で繋がっている。問題はそれを「遺伝子」が、ナチス・ドイツ的に

するのか、にある。もしも科学がこれ以上、発展することによって「ナチス・ドイツを正当化することがありうるのか?」が問われているわけであるが、これにほとんど「肯定的」に答えている人たちが、いわゆる、進化心理学という分野だと言うことができるだろうw 私たちは、未来のはるか果てにおいて、もう一度、ナチス・ドイツの「亡霊」を呼び出して

  • やっぱり彼らは「正しかった」

といったような「歴史修正」を、未来の、発展した「科学」の名の下に行うことになるのか? しかし、「科学の発展=啓蒙」と考えている限り、このような「可能性」から逃れられると思うことには、なんらかの限界があるということなのだろうか?
しかし、そもそもこの「遺伝子」と「環境」の問題は、いわゆる「グールドvsドーキンス」論争においても、お互いがそれぞれの影響に対しては、一定の役割を認めているわけで、その

  • 相関

を紐解くことは、そもそも簡単ではない。

ヒトの中で(ほとんど)普遍的なもう一つの形質について考えてみよう。実質上すべてのヒトは言葉を話すことができる。多くの言語学者が「生得的な言語能力」について語っている。これはすべてのヒトが共有するといわれれいる。もしこの形質に変異がないならば、この言語能力の共有は何を意味しているのだろうか。この考えを理解するためには、ヒトの集団----その中ではこの形質は普遍的である----を、ひとまわり大きな集団の中に埋め込んでみなければならない。例えば、ヒトとニワトリを一緒にして考えてみよう。この大きな集団の中では、言葉を話すものもいればそうでないものもいる。この変異のパターンをどう説明すればよいだろうか。単にヒトとニワトリは異なる環境で育つということだろうか。あるいは遺伝的な違いが何か役割を果たしているのだろうか。
残念なことに、ここでわれわれは遺伝子/環境相関の問題にいきなり直面する。ヒトはニワトリと遺伝子的に異なっているが、ヒトとニワトリは異なる環境に暮らしているということもまた真である。遺伝子と環境がそれぞれどのくらい貢献しているかを特定するためには、[ヒトをニワトリの環境におくなどして]この相関を壊さなくてはならない。あるいは----そうしたことは倫理的な考慮のためにできないので−−−−相関が壊れたときに何が起こるかを理解するようにしなくてはならない。韓国語とフィンランド語の例と同じように、二×二の表の四つの欄すべてを埋める必要があるのである。
表の四つのエントリーは、ある生物個体が言葉を話せうかどうかを記述している。この例では、遺伝子と環境の貢献は完全に対称的である。適切な遺伝子を持つことは[言葉を話せうことにとって]本質的であるが、適切な環境に暮らすことも同様に本質的なのである。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

チョムスキーの普遍言語論が代表しているように、多くの言語学者は、世界中の言語が

  • 本質的には「同一」

である、という分析をした。どの言語も、主語があり、述語があり、その順番が違っているケースがあったりはするけど、

  • 大きくは違わない

わけであるから、つまりは、人間の「遺伝子」には世界中の人間が「産まれる前から」もっている

  • 言語の原型

があるんじゃないのか、と推測する。そして、これは、もっと多くの属性に対しても敷衍される。つまり、人間は産まれる前から、ほとんど全てのことは「決定」しているんじゃないのか、という疑いである。このことは、究極的には

  • 教育不要論

に到達する。世界中の人、全員に「同じ」教育をすべきだ、というのが教育学の理念である。しかし、そもそも生得的な差異があるなら、

  • 誰を教育して、誰を教育しないか?

といった「選別」を行うことによって、教育の

  • 効率

を上げられるんじゃないのか、と考えたのが、功利主義者である。彼らは、そういった意味で「エリート主義者」である。彼らは、今の日本の教育の平等に「反対」する。教育への福祉のお金の投与は、一部のエリート進学校にだけおこなうべきだ。頭の悪い奴等にお金を投入することは、「お金と時間の無駄」であり、進化論的にも根拠づけられる。
彼らは、ある意味で「イノセント」なわけである。これは「科学の進歩」が与える、人々の「幸福」を

  • 最大化

するための、人類の「進歩」であり、発展なんだ、となる。つまり、科学のファクトなんだから、これに「従う」ことが

  • 啓蒙

なのであって、と、まあ「暗黒啓蒙」であるw
この「生得的」といった人間の側面については、まあ、産まれたばかりの赤ん坊を、水の中に投げ入れると、当たり前のように「泳ぎ始める」ことから分かるように、さまざまな点において、正当化されることに今さら、反論しようとする人はいないだろう。
しかし、だとするなら、なぜ主に、教育学や心理学において「教育の平等」の正当化としての、「ブランクスレート」の比喩が使われてきたのかを考える必要がある。そして、そう考えてみると、こういった「本能」に関係した人間の特性と、そういった

  • 学習

に関係した部分とには、

と「それ以外」といった対応関係があるように推察されてきた。つまり、「ブランクスレート」とは「脳の大脳辺縁系」の「特徴」を語ったものだったのではないか、といったわけである。
しかし、いずれにしろ上記の引用にもあるように、なぜ私たち人間は当たり前のように、言葉を話しているのかについては、

  • 子どもの頃に言語を習得したから

と言わざるをえない、「本質」があるわけであろう。チョムスキーなどの言語学者が、どんなに「普遍言語」なんて言って、遺伝子に言語が「書かれている」なんて言ってみても、当たり前だけど、産まれた赤ん坊が、そういった

  • 言葉を話す人間の環境の中

で育てられなかったら、言語を話さないし、大きくなってから学習させようとしてもできない。これって、チョムスキーの「普遍言語」と

  • 矛盾

してませんか? ってことなんだよね。
まあ、この「修辞的」な、文系的な議論って、どこか、実在論論争と似ているんですよね。チョムスキーは「普遍言語」が、生得的に存在する、と言った。でも、その産まれたばかりの赤ん坊を、「人間共同体」の中の「言語会話環境」の中に存在し続けないことには、大人になってから、どんなに回りの大人が、その人に言語を習得させようとしても失敗する。ということは、どういうことか? ここにあるのは、

  • 「普遍言語」が実在する

という表現のナイーヴさ、なのだ。そうではなく、それを成立させるための、さざまな細かい「条件」の無限の集積が、結果として、多くの人間の子どもが、その言語共同体環境の中で、言語を習得するのを成功する、という「事実性」だけなのだ。

多くの社会生物学者は、このパターンの変異を遺伝的な観点から説明することを好む。しかし、種内変異はすべてこのような仕方で説明されなくてはならないというのは、社会生物学の理論を作るときのコミットメントとして避けられないものではない。このことが社会生物学というリサーチ・プログラムに本来備わたものではない理由を理解するためには、リチャード・アレクサンダーの研究が有益な例となる(Alexander 1979)。アレクサンダーの興味は種内変異の説明にある。例えばアレクサンダーは、叔父方委任(avunculate)と呼ばれる親族システムに従う社会と従わない社会があるのはなぜか、という問いに取り組んでいる。この状況下では、男性は自分の配偶者の子供より自分の姉妹の子供の世話をする。アレクサンダーによると、この親族システムは、男性にとって自分がわが子の本当の父親であると確信を持つのが非常に難しい社会で生じる。もし女性が十分多くの不特定の男性と関係を持つとすると、男性はおそらく、自分の妻の子とよりも、自分の姉妹の子と[平均すると]より多くの遺伝子を共有することになる。よってそうした社会では、男性は自分の妻の子よりも自分の姉妹の子を助けることで、自分の生殖的成功度を最大化する(自分の「遺伝的自己利益」を促進する)のである。
私は、この説明が正しいかどうかという経験的問題に取り組むつもりはない。私の論点は、アレクサンダーは叔父方委任に従う社会とそうでない社会は遺伝的に異なっていると主張しているわけでない、というこである。アレクサンダーによると、人が遺伝的に受け継いできたものは、われわれに非常に大きな行動上の柔軟性を与えている。人間の遺伝子型は、個々人が自分の行動を調整して適応度を最大化できるように進化してきた。異なる社会に暮らす人々の行動が異なっているからではなく、異なる環境に暮らしているからである。ある環境のもとでは叔父方委任は適応度を最大化するが、他の社会ではそうではない。
種内変異に関してアレクサンダーは、面白い仕方で「ラディカルな環境主義者」である。彼は行動に関する違いを、「われわれの遺伝子の中にある」ものとして説明しようとはまったく考えていない。それどころか、行動に関する変異は環境の違いによって、説明されるはずだ、というのが彼の主張である。これは生物学的(つまり遺伝的)決定論から、ほぼこれ以上ないほど遠くかけ離れた立場である。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

まあ、この「人間社会」という

  • 環境

も、何千年と引き継がれてきて、一定の定常性をもって存在しているわけで、その

  • どっち

なのかっていう命題は、ほとんど意味不明なんだよね。それって、まるで、真空空間に、受精卵細胞を放置しておけば、いずれ

  • 立派な大人の人間になる

と言っているのと変わらないわけで、無意味な「科学の仮定」なわけだ(ニュートン力学で「ただし、摩擦は無視する」とか言ってるのと同じで、無視もなにも、摩擦のない環境なんて、ありえない、っていうの同じ)。そういう意味では、

  • 生物システム

と言って、環境と生物を分けた「存在」と考えること自体に無理がある。その生物が産まれてから、大人にまるまでの間

  • ずっと

回りと相互作用をしているのだから、「その二つ」を一つにした「全体」としての、「システム」を考えなければ、なにも言えない。つまりは、こういった特徴のもっているものって、私たちが思っているよりたくさんある、ってことなのだろう...。