生まれてこないほうが良かったのか?:第一章「聖書」

雑誌「現代思想」の、反出生主義特集もそうだが、そのほとんどの著者は、

  • 反反出生主義者

である。つまり、ベネターは「間違っている」ということを必死になって主張している。なぜか? これには、非常に「分かりやすい」理由がある。それは、そもそもその主張が

  • 聖書に反している

からだ。

パレスチナに由来するこの一神教伝統群の、いずれにおいても尊ばれている創世記の記述を引こう。

神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」(『新共同訳聖書』)

島薗進「生ま(れ)ない方がよいという思想と信仰」)
現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこない方が良かった」という思想―

ここに、なぜ多くのキリスト教徒が彼の主張に反射的に嫌悪感をもつのかの理由がある。聖書によれば、神は「子供を産め」と

  • 命令

したことになっている。キリスト教徒とは、神の命令に従いたい人たちのことなのだから、これを否定するベネターを肯定するわけがないのだ。
ということはどういうことか?
そもそも、「西洋哲学」と呼ばれてきた一連の哲学的言説は、

  • 全て

この「反反出生主義」だったのではないか?

戸谷 (中略)たとえばヨナスの思想では、人類はまず存続しなければならず、そのために一人一人の人間が生まれてこなければならない、と考えられています。子どもを生むのはその子どもにとって良いことだから生むのではなく、人類存続のためであり、生まれてきた子どもにとって良いかどうかは問題ではない、とヨナスは言っているわけです。これってすさまじく暴力的ですよね。
(盛岡正博・戸谷洋志「生きることの意味を問う哲学」)
現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこない方が良かった」という思想―

パーフィットは遺作 On What Matters において、もっとも重要なこと(what most matters)とは「人類の歴史の終焉を避けること」であると述べる(Parfit 2011:620)。

たとえ、過去それ自体が悪いものだったとしても、未来はそれ自体として善いものであり得る。そしてこの善さは過去の悪さを凌駕し得る。そうすると、人間の歴史は全体として価値のあるものとなるだろう。あるいは、私たちは過去はそれ自体として価値をもつわけではないとしても、よりよい[未来の]善の必要不可欠な部分として価値をもつと、正当に主張することができる。(Parfit 2011:612)

(佐藤岳詩「ベネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について」)
現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこない方が良かった」という思想―

まあ、どちらにしても「聖書主義」ですよね。一見、まわりくどく語っているけど、言いたいのは「聖書の言っていることは正しい」に尽きている。
もしも人間が神の

  • 奴隷

だとするなら、人間は神の「命令」に「従わなければならない」ということになるだろう。問題はそれを、キリスト教徒は

  • 幸福(=幸せ)

だと呼んできたことなのだ。人間は神の奴隷なんだから、子どもは「産まれてこなければならない」ということになる。そして、神のその「命令」に従っているのだから

  • 幸せ「でないはずがない」

というわけであるw なぜならそれが、キリスト教徒にとっての「幸せ」の

  • 定義

だからなのだw
しかし、このことは「反転」して語ることができる。ある子どもが「いじめ」を受けていたとしよう。しかし、その子どもは「神の命令」によって

  • 生きなければならない

わけであって、つまり、その「いじめ」に

  • 耐えなければならない

わけだw そして、「大人」になって、子どもを産んで、また、その子どもが「いじめ」を受けて、その人と同じように「生まれてこない方がよかった」と言う。しかし、どんなにこの「輪廻」を繰り返しても、神は一向に、その人の「苦しみ」を理解しない。ただ、ひたすら、奴隷に「命令」するように、

  • お前が子どもを生むことがお前の「幸せ」なんだから、それ以外のことをごたごた言うな

としか言わない。