生まれてこないほうが良かったのか?:第四章「死者の復活と輪廻転生」

実は、私も最初は、この反出生主義について、ぴんとこなかった。なにを言ってるんだろう、といった、はてなマークがいっぱいだった。ただ、こう考えてみればいいんじゃないのか、と思ったのが、以下のカンタン・メイヤスーの議論を補助線としてみたときだった。

一方の、宗教的な弁論はこうだ。「私は自分自身の死を受け入れることを望む(esperer)ことはできるが、非業の死者たちの死を受け入れることを望むことはできない。私に将来訪れる終わりを前にした恐怖ではなく、彼らの過ぎ去った、取り返しようがない過去の死を前にした恐怖、それこそが私に神の存在を信じるよう強いるのだ。(中略)私は死者に対しても何かを望みたい。さもなくば生は空虚である。その何かとは、来世、すなわちいつかもう一度生きる----彼らのあの死とは別のものを生きる----機会のことだ」。
(カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

すなわち、ジレンマを解消することは、死者の復活可能性----解消のための宗教的条件----と、神が現実存在しないこと----解消のための無神論的条件----とを結びつける言明を思考可能なものとすることに帰着する。
(カンタン・メイヤスー「亡霊のジレンマ」)
亡霊のジレンマ ―思弁的唯物論の展開―

なぜキリスト教において、

  • 人間が、未来の果てまで生き残ること
  • 人間が自分を「幸せ」だと感じることを素直に喜ぶこと

を「礼賛」するのかというのは、メイヤスーに言わせれば、それは「必ず」

  • 死者の復活

とセットになっていることなしに「ありえない」という考えなんだ、ということなのだと思う。
しかし、である。
このことを逆に言ってみると、もしも、不幸な最後をとげた「死者」が、もう一度「復活」して、「幸せ」になれないなら、そのことは

  • 人間の滅亡

が「しょうがない」と言っているのと変わらないんじゃないのか、というふうに聞こえたわけである。
さて。
このことは何を意味しているのだろう?
私は、キリスト教における、この「死者の復活」というのは、仏教における

  • 輪廻

と、ほとんど同じことを言っているんじゃないのか、というふうに聞こえるわけである。
まあ、いまさら言うまでもないが、ベネターの反出生主義は別に新しい主張ではない。哲学の歴史では、ショーペンハウワーの哲学と、ほとんど同じである。しかも、ショーペンハウワーは、ニーチェが一時期いれあげていた以外は、ほとんど哲学史上、無視されている存在で

  • 馬鹿にされている

と言ってもいい。つまり、誰も彼を真面目に相手にしてこなかったわけだ。しかし、重要なことは、ショーペンハウワーは、当時のドイツにおいて、徐々にではあるが、さかんに「翻訳」され始めていた

を積極的に評価し、自らの哲学と応答していた、というところにある。つまり、ショーペンハウワーの「ペシミズム」は、そもそもインド哲学にその出自があるのであって、これを無視しては、なにも言っていないのと変わらないわけだ。

存在しているなかで最も優れた状態は、仏教の教えによれば「涅槃」、あらゆる欲求そして(従って)あらゆる世俗的な苦痛が抹消されてしまっている状態である。仏教徒がこの状態を生きている間に成し遂げることができると考えている一方で、ショーペンハウアーはこれを否定しており、私もショーペンハウアーに賛成だ。けれども仏教徒は「涅槃」の状態に逹することで輪廻転生から抜け出せるのだと本気で考えている。この点で仏教徒の見解は「欲求することの終わりは、(受肉化した)生の終わりと連結している」というショーペンハウアーの見解に近くなっている。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

こうやって見ると、その対応関係が分かりやすいだろう。仏教では、仏教以前のインド思想において「輪廻転生」は

  • 救い

であったはずであるのに、仏陀はそれを「苦しみ」だと言ったわけである。それは、まさに

に対応している。キリスト教徒はそれを「救い」であり、「喜び」だと言うわけだが、仏陀はそれは

  • 苦しみ

だと言った。つまり、仏教というのは、ある「ねじれ」があるのだ。この「苦しみ」を抜け出すためには、仏陀に習って

  • この世に産まれてきて、仏陀に習って、修行をして「悟り」を開かなければならない

わけである。つまり、この輪廻という「苦しみ」から脱出するために、一度、この世に産まれて、修行をして、「悟り」を開くという形で、つまりは、

  • 生きる

ことが「求められている」という構造になっている。