生まれてこないほうが良かったのか?:第五章「形容詞」

そもそもこの、反出生主義は、多くの「まっとう」な哲学者から、馬鹿にされている。それは、大きくは以下の理由である。

ここではまず、「良い」について、一つの区別を導入したい。一言で言って良いと言っても色々な種類の良さが想定できる。ここで取りあげるのは、何かが良い(より良い)として、それはそれ自体として絶対的に良いか、特定の目的や人物に相対的に良い、という区別である。
(佐藤岳詩「ベネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について」)
現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこない方が良かった」という思想―

こうやって聞くと、まだ不十分なレトリックになっているわけで、もっとラディカルに議論をするなら、それは「形容詞」とは何かに尽きていう、と言ってもいいと思っている。
形容詞とは、英語の場合を思い浮べてみれば分かるように、それは「比較級」において使われるものであった。つまり、

  • AよりBは、なになにである

と。そしてこの場合、その「なになに」は、ある意味で、なんでもいいわけだ。というか、もっと言えば、それは

  • 無定義述語

になっている。形容詞とは、数学で言えば、「順序構造」のことであって、外延的にはそれに尽きている。死ぬことが「良い」「悪い」というのは、なにか、

  • 絶対的な「善」「悪」

なるものがあるかのように使われている。そして、哲学の分野で、そういった使われ方をするのが、「徳(ヴァーチュ)」とは何かが議論されるときだ。しかし、そのことは逆に言えば、そういった「相対的関係」なしに形容詞を使うことには無理がある、ということを示唆しているわけであろう。
これで、反出生主義の「反証」は終了である。よって、反出生主義は「間違っている」し、馬鹿馬鹿しいし、相手にする価値はない。
しかし、である。
なんか変じゃないか? だったら、なんでこんなことが議論をされているのだろう? それは、ベネターの反出生主義に「反論」をしている人たちの

  • はぎれの悪さ

に関係している。なんで彼らの口ぶりは、なんだかんだと、もぞもぞと、口ごもっているのか?
それは、もしも上記の理由で、反出生主義を「ゴミ屑」だと言うなら、

  • ほとんどの正統派の、哲学の議論が「同じ理由」で「ゴミ屑」にならなければならない

からだ。つまり、ベネターがやっていることは、ある種の「アニロニー」なのだw ベネターは、いわゆるキリスト教徒が

  • (神が命令した)「子どもを産むこと」は<良い>ことだ

を「証明」した、と言ってきた。そして、それはまるで「自明」のことのように、このキリスト教文化の中では扱われてきた。それに対して、ベネターはまったくそのレトリックと

  • 同じ

構造を利用して、「だったらそれと、まったく反対のことも言えるよね」というのを「証明」してしまったわけである。だから、彼ら正統派哲学者たちは「混乱」しているわけであるw