生まれてこないほうが良かったのか?:第六章「生殖と人口過剰」

ところで、今日、ネットのニュース記事を見ていたら、こんなのを見つけた。

一昨年には秋篠宮家の眞子さま佐渡島で行われた「佐渡トキ野生復帰10周年式典」にご出席。「環境後進国」と揶揄されがちな昨今、誰もが嬉しいニュースのはず、だった。
ところが、最近になって地元の佐渡では、そのトキが問題になっているという。数が増え過ぎたのだ。
[記事全文]トキが増え過ぎて「もはや害鳥」佐渡の住民が困惑 | デイリー新潮

まあ、なんて「良い」話なんだろう、と私は少しアイロニカルに言ってみたくなる。トキは、ごぞんじのように、一度は日本で「絶滅」した。それは、言うまでもなく、日本人が

  • 殺した

からだ。一匹もいなくなって、この日本を「象徴」するトキがいない日本なんて、日本じゃない、と、トキの

  • 復活

を日本政府は目指した。そこで、中国から、つがいの二羽をもらって、それを人口受精で育てて、なんとか、野生に放せるまで来た。
ところが、である。
それから、月日は流れて、どうなったか? 「増えすぎちゃった」んだってさw 増えすぎて、また、昔の、日本人がトキを殺しまくった時代のように、トキが

  • 害鳥

になっちゃったw あのさw なんなんだろうね。最初から、こうなることが分かっていて、そして、実際にそうなって、だからなんなの?
なぜ反出生主義が「てごわい」と思われているか? それは、これが非常に分かりやすい例があるから、なわけであろう。その一つが「人口論」だ。
つまり、もしも人間が

  • 増えすぎ

たら、地球はそのキャパを超えてしまうわけで、必然的に

  • 人口調節

が必要になる。つまり、「口べらし」であるw

性交への関心は、ある種の性的な繋がり----つまりは、性交----に対する関心である。性交への関心を満たすことが、大抵の場合、子作りへの原動力となっている。実際のところ、ほとんどの人々が存在させられることになったのは、子作りへの関心を両親が満たそうとしたことが原因なのではなく、両親が彼ら自身の性交への関心を満たしていたからなのである。言い換えれば、大多数の人については、自分たちが存在するようになったのは、両親が子作りをしようと決意した結果というよりはむしろ、単に親の性交の結果なのである。しかしながら、性交は誰かを存在させるようにすることなしに可能であるから(例えば、避妊がうまくいった場合)、子作りをしないからといって性交への関心を(もっと限定すれば、挿入行為を伴わない生への関心を)捨てるといった代償を払う必要性はない。
(デイヴィッド・ベネター『生まれてこないほうが良かった』)
生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

ベネターは人間は「産みたい」から産んできたんじゃない、と言っている。たんに

  • セックスをした

から、子どもが産まれてきたのであって、それは、ある意味では、好き同士の男女が「近く」にいれば、ほとんど必然的に「性交」を始めたわけなのだから、むしろ

  • 避けられなかった

と考える方が自然なのだ。
しかし、である。
このことは逆に考えてると、なにか「恐しい」ことを暗示しているようにしか思えなくなる。人間が好き同士でセックスをするのは

  • 自由

である。そして、産まれてきた子どもには「人権」がある。よって、どんな子どもも社会が、立派な大人になるまで育てなければならない。だとするなら、

  • 明らかに、この地球上の「容量」をオーバーしてしまうまで、子どもが増えてしまったらどうなるのか?

というわけである。つまり、そもそも人間が「未来になるまで生き続ける」ということには、

  • 人間自身による、人間の生殺与奪を「コントロールする(=口減らしする)」

といった

  • 殺人

が不可避なのではないか? つまり、「エリート主義」である。人間を「選別」し、未来に生き残らせる遺伝子と、そうでない遺伝子を「選別」する。つまり、

  • いらない遺伝子を「ゴミ」として捨てる(=殺す)

ことを意味する。さて。

  • こんなことをしてまで、人間は「生き残る<べき>」なのか?

というわけであって、そんな非倫理的な生き方を強いられて、果して、それでも生きることを絶対の価値あるものとして、私たち人間はそれに盲従し続けられるのでしょうか?