これは言うまでもなく「認識論」のことである。そして、これをここでは以下のように、列挙することで、その描像をより明確にしておきたい。
- 主観/主体
- 私
- 意識
- 脳
- 欲求/苦痛
- 人格同一性
- 幼児心理学
私たち人間は「認識マシーン」なわけであるが、その認識マシーンである私たち自身は「私」を認識できるのか、というのは一定の条件内においてしか不可能だ、ということになる。それは、認識マシーンの「限界」を意味しているわけで、認識マシーンなら、なんでも認識できるわけではない。しかし、だとするなら、この認識マシーンが行っていることはなんなのかがどうしても問われなければならなくなる。認識マシーンは完全な認識ではない。しかし、その
- 外
に認識マシーンが出るわけにはいかない。それは「不可能」なのだから、そもそもそんなことを空想することさえ意味がないのだ。
しかし、もっと根本的に、この認識マシーンを「制約」しているものがある。それが
- どうやって生まれ、どうやって「成長」してきたのか?
に関係する。認識マシーンには「時間」を前後した「同一性」を前提しているところがある。だとするなら、その「最初」はいつなのか? つまり、産まれたばかりの赤ん坊だった私たちが、一体どんな遍歴を経て今、このようにあるのか? つまり、この認識マシーンはどうやって「作られたのか?」が、
- なぜ今、「そうある」のか?
に大きく関係しているわけである...。