秋元康隆『意志の倫理学』

世の中の哲学理論を見渡しても、カント以外にまともに読むに値するものがどれだけあるのだろうか、ということは少し考えさせられるわけである。そのことは、例えば

  • 自由

という言葉を思い出してもらっても分かる。

カントは人間について、叡知的な私(独:das intelligible Ich)と、感性的な私(独:das sensible Ich)が共存する存在として捉えているのです。誰もが、理性的な側面と、感情的な側面の両方を備えている、という言い方をすれば分かりやすいかもしれません。
この二つの側面は、しかしながら、しばしば衝突することになります。例えば、先ほど挙げたように、感情が「トイレを汚してしまったが、知らん振りをして立ち去ってしまいたい」と望み、他方で理性が「私は自分が汚したトイレをきれいにすべき」という道徳法則の命令を自覚するような場合です。
無論、我々には理性の命令の方を優先することが求められるのです。その際、叡知的な私は感性的な私に対して道徳法則に従うように「強制」(独:Notigung)を加える必要があります。なぜなら道徳法則を尊重することは我々の倫理的義務だからです。

なぜカントが「自由」について語れるのかといえば、それがなんなのかを彼の理論が定義したから、なわけであろう。つまり、上記でいえば「叡知的な私」と「感性的な私」の区別を定義したから、そういった議論ができる。
もちろん、これが「正しい」のかどうなのか、といったことを議論している人は多くいる。しかしこの場合、その「正しい」かどうかという質問は、何を言ったことになるのだろう? というのは、言うまでもないが、カントは別に、

  • 神経生理学

の「実験」をやって、そういった「実在」を云々しているわけではないからである。つまり、これは最初から、ある「フレーム」なのだ。つまり、思考のためのフレームなのであって、少なくともカントはこのフレームの延長で、一貫性のある議論を行った、ということなのだ。
しかし、である。
だとするなら、一体どういうことになるのだろうか? つまり、カント以外の世の中の哲学者が使う「自由」という言葉は、彼らはそれを、どういった

  • 意味

で使っているのだろう? 彼らはカントに賛成なのか、反対なのか? いや、彼らは多くの論点において、カントを否定し、あまつさえ、軽蔑、侮蔑さえしている。しかし、そういった彼らが使う、この「自由」という言葉は、あまりにも

  • 曖昧

なのだ!

そこでさっそく、カントの考える「よい」とは何なのかについて見ていきたいと思います。彼は「よい」と呼ばれるものにも、様々なものがあることを指摘しています。具体的には、以下の四つです。(一)倫理的なよさ、(二)才能(理解力、機知、判断力)におけるよさ、(三)気質(勇気、果断、根気)に関するよさ、(四)運(権力、富、名誉、健康)におけるよさです。カント自身はここで言及していませんが、この四つ以外にも、結果のよさ、技術的なよさ、美的なよさなど、様々なよさを挙げることができるでしょう。

よく「真善美」と言う言葉が使われます。この場合、それらは「区別」されている、ということがカントの主張です。つまり、それらは、それらで別々の「法則」があるわけです。ところが、反カントの通俗的哲学者たちは、この「分割」が

  • この世界に「実在しない」

という意味で、「どれが本質なのか?」という議論を始めます。そして、彼らはこの世の「真実」を見つけてしまうわけですw
さて。カントにとって、この「区別」が本質的であるということは、「道徳」には

  • 独自の役割がある

ということを言っているわけです。つまり、道徳は人間のある側面を分析したものなのであって、それと「他のもの」を

  • 混同

することは、ものの本質を間違う、ということを示しているわけです。

では、なぜそのような行為に道徳的価値が認められないのでしょうか。理由は簡単です。それは、そのような行為はその者が自分自身のためになしたものである、つまり、利己的な行為であるためです。このような行為に道徳的価値は認められないのです。
先ほど例として挙げた「見返りを求めて」「下心から」といった利己的な欲求のことを、カントは「傾向性」(独:Neigung)と呼びます。(日本語でも、ドイツ語でも)見慣れない表現ですが、漢字を見て分かるように、これは「傾き」という意味であり、人間は油断をしていると、自らの欲望の方に転がっていってしまうというニュアンスがあるのです。この利己的な感情である傾向性に発した行為が、倫理的価値を持つということはありえないのです。
では我々は、どのようにして傾向性から行為することを避けることができるのでしょうか。−−−−傾向性とは、自然に発する感情(感性)です。人は感情の赴くままに動いている限り、傾向性を抑えることはできません。その傾向性を抑えるために必要なのは、(感情の対概念である)理性なのであり、具体的には、それに発する意志(独:Wille)なのです。

こうやって見てみると、例えば、私たちが、キリスト教新約聖書を読んで理解するものと、カントの主張は直接的に繋がっていることが分かるのではないか。これは、イスラム教でも同じであるが、神は人間が死んだ後、それぞれの人間を「裁く」とされている。その場合、神が裁くのは

  • その人の「善意」であり「悪意」

なのであって、だから「その人以外に神だけが裁ける」という関係になっている。どんなに他人をあざむこうとも、「神だけはあざむけない」から、この「裁き」が一定の権威をもつわけであって、それ以外は神にも興味がないのだ。
人は「相手に優しくしよう」と、自分が「かわいい」から「利己的に振る舞おう」という、欲望に「逆らって」、意志によって行為するから、その心意気に「人の尊厳としての価値」があるということになるのであって、その「意志」の価値は、その行為による「結果」による「(人間社会全体の、経済的な)幸福」の増減には関係しないのだ。
いや、そっちだって大事じゃないか、とか、むしろ、そっちこそ大事だ、とか言って、今までも多くの哲学者が

と「弁証法」よろしく、新しい哲学理論をひっさげて、この世に真を問うてきたわけだけれど、カントが言っているのは

  • それは(カントが定義する)「道徳」ではない

と言っているだけで、別にそれらについての考察が不要だなんて、一言も言ってないわけで、カントはたんに、それを「道徳」と呼ばない、と言っているだけなのだw

私はミル同様に、社会全体の幸福の総量が増大していることを望んでいます。そして、そのためには、アリストテレスが説く卓越性は非常に重要な役割を果たすと考えています。また、誰もが卓越性を発揮し、社会全体の幸福の総量が増加するためには、社会システムが整備されている必要があります。そう考えると、ロールズの想定するような、自由が確保された上で、も1っとも不利な状況にある者に最大の恩恵がもたらされる、そして、誰もが這い上がれるチャンスがある社会は望ましいと言えるでしょう。そのような社会システムは討議に参加できる権能を有する者の多くが承認するのではないでしょうか。そして実際に、その社会システムが何らの強制もなく、人々の自由な判断によって承認されたならば、その正統性を私は受け入れざるをえないのです。
ここで私が何が言いたいのかというと、要するに、本第四部で取り扱った四つの倫理学説のそれぞれに、私はそれなりの妥当性や意義があることを認めているのです。ただし、それらは動機の質に関心を払っていないのであり、私はその点に不満を感じているのです。彼らのテキストを読んでいると、私のなかに「動機などどうでもようのですか?」という思いが募ってくるのです。他方のカントは、動機の善さについて、それ単体で評価に値することを説いている。そこに私は惹かれるのです。

例えばここで、少し違った方向から議論をしてみたい。アニメ「まちカドまぞく」は、ツイッターでも多くの熱狂的なファンを獲得して、今も言及されているわけだが、しかし、他方において、原作の漫画を読んでいるファンにとって、あの、テレビシリーズの終わり方がいかに、中途半端だったかを知っている。それは、千代田桃の、義理の姉、千代田桜がいかに

  • 重要

な存在であるかが描かれる前に終わってしまったからだ。この「まちカドまぞく」の世界は、まさにカントが語る

  • 優しい世界

である。そこには、カントの語る「善意志」が描かれている。しかし、反対に思わなくもないわけである。例えば、ベネターの反出生主義にしても、彼が言いたいのは、

  • もしも、人間に、カントが言っているような「善意志」がないなら、そんな人間に生きる「価値」はあるのか?

と問うているわけであろう。そして、今までの人間の歴史において、そういった、カントの語る「善意志」こそが

  • 熱狂的

な、人間の賞賛と、感動を呼んできた。つまり、もしもそういったものを重視しない哲学理論に、本当に「価値」があるのか、が問われているわけである...。

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

意志の倫理学――カントに学ぶ善への勇気 (シリーズ〈哲学への扉〉)

  • 作者:秋元康隆
  • 発売日: 2020/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)