ニーチェの思想:はじめに

東浩紀先生の『観光客の哲学』は、後半に家族論が書かれている。そこで書かれる、中心的な位置に、ドストエスフキーの『悪霊』における、登場人物の一人、スタヴローギンがいる。

ぼくはさきほど、チェルヌイシェフスキーを現代における国際派の知識人に、地下室人を同じくテロリストに比した。その延長で考えたとき、ぼくはスタヴローギンはテロリストではなく、むしろリバタリアンなIT起業家やエンジニアたちと比較するのがよいのではないかと考える。冒頭にも記したように、スタヴローギンは小説ではテロリストいて描かれている。そして実際に広くそう読まれている。けれども実際には彼は、殺人にしろ放火にしろ、みずから破壊行為には手を下していない。彼は集団の構成員の欲望を操作しただけである。しかも、とくに目的があるわけでもなく、操作できるから操作してみただけなのである。スタヴローギンは小説の最後になってもなにひとつ反省していないし(自殺はするが反省が原因とは考えられない)、なにひとつ法的な責任を追及されてはいない。その描写は、『罪と罰』のラスコリーニコフなどとはまったく異なっている。
ドストエフスキーが描いたスタヴローギンの本質は、社会改革への意欲にも理想主義への呪詛にもなく、無関心病にある。他人の運命を操作する。操作できるから操作する。目的なく操作する。現代社会で、そのようなニヒルな関係を世界に対してもつことができるのは、金融市場を介して億単位の金額を日々動かしているビジネスマンや、ネットサービスを介して万単位の金額を日々動かしているエンジニアぐらいなものである。彼らの指先のちょっとした操作で、地球の裏側で何人ものテロリストが自爆する。それが二〇一七年の現実だ。ジラールはスタヴローギンの思想をニーチェの超人思想と比較している。たしかに、かつてテロリスト=革命家は超人だったかもしれない。けれども、いま、トルコで、シリアで、イラクで、あるいはそれに呼応して先進諸国で自爆する若者たちに、超人の面影はなったくない。テロはいまでは、地下室人たちの破れかぶれの呪詛の表明でしかない。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

ここで、東先生が「無関心病」と言っているのが、ショーペンハウアーニーチェが考察した

と「まったく同じ」であることは注目に値する。つまり、虚無主義とは

のことである。そして、東先生は、これこそ「ポストモダンとしての現代の終着点」として、ほとんど共感をおしまない。つまり、東先生は、このスタヴローギンに

  • 共感

している。ここで考えてみてほしい、東先生の言う「共感」とは、こういうもののことを言っているのだ。一般的に共感とは「優しさ」のことと考えられている。しかし、東先生はそういったものを指して、「共感」と言っているのではない。
つまり、この本での中心的な位置に置かれている、リチャード・ローティの「共感論」が、完全な「エリート主義」からの「共感」であったことを想起させる。そして、それをニーチェは次のように説明している。

また、ニーチェは別の箇所でこう論じてもいる。同情は価値をもつのだが、その価値は同情的な行為主体の性格に依存する、と。「本性的に主人であるような人間−−−−そのような人間が同情を覚える場合、なんと、この同情は価値をもつのだ! だが、苦悩する者たちが覚える同情など、どれほどよいものであろう! あるいは、一層悪いことに、同情を説く者たちが覚える同情など!」(『善悪』二九三)。
(バーナード・レジンスター『生の肯定』)
生の肯定: ニーチェによるニヒリズムの克服(叢書・ウニベルシタス)

ニーチェが喝破しているように、「主人」は「奴隷」に「同情」するのだ。同情しながら、彼らは「残虐」に奴隷を扱う。それは、彼らにとって

  • 矛盾しない

のだ! なぜなら彼らの「安楽」は、その奴隷に対する「残虐」によってもたらされているのだから。これについて、東浩紀先生は、それを以下のような形で「正当化」する。

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。これは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なこどに!)矛盾しないものと考えられている。その合意そのものが、ぼくたちの社会が、規律訓練の審級と生権力の審級をばらばらに動かしていることを証拠だてている。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

この東先生によって語られる「恐ろしい」思想が、まさに、これから議論の中心としてここで語ろうと思っている、ニーチェの「生の肯定」の思想そのものであることが分かるのではないか。東先生は、人間が「未来に生き残るため」に

  • 奴隷にしていい

と言っているのだ。しかし、人間を「奴隷」として扱っていい

  • 場合がある

と言うということは、常にその人間を「奴隷」として扱う、と言っていることと変わらない。なぜなら、ある人間を「奴隷」として扱っていい場合があるということは、その人間には「人権がない」ことと同値だから。つまり、

  • どんな場合も、その人間を奴隷として「扱っていい」

というお墨付きなのだw
リチャード・ローティは「哲学者=芸術家」が、彼らの「神からの神託」としての、「直観的な詩作」によって

  • 人類を導く

ことにこそ、「哲学者の価値」がある、と主張した。つまり、私たち人類は、そういった「詩人としての哲学者」を、こういった価値ある存在として

  • あがめたてまつらなければならない

と主張した。つまり、人間には、

  • 哲学者=芸術家
  • 一般人

という二つの階層があって、人間の中で価値があるのは前者「だけ」で、後者はまさに「動物並み」の存在として、奴隷並みに扱っておけばいい、と切って捨てたのだ。
どうだろう? この主張って、完全に

そのものなわけでしょうw ニーチェが何を言ったのかについては、以下で説明していくが、いわゆる世の中で「哲学者」を

  • 自称

している人たちの、ほとんど全員が「ニーチェ的エリート主義者」であることは注意がいる。つまり、彼らがなんで「哲学者」なんていう、時代遅れの概念にこだわっているのかには、こういった

  • エリート主義を正当化したい

という動機であり、理由があるわけである。
さて、上記の引用において、すでに

という言葉が現れているように、東浩紀先生のこの本は、ほとんど「ニーチェ」の思想の焼き直しに見える。つまり、東先生はニーチェの「思想」の継承者として、この本を書いている。しかし、この本の日本の読者、つまり、東浩紀ファンクラブの人たちは、ほとんどそのことについて、多くを考えていなようである。きっと、先生は純粋な「善意」によって、この本を書かれたのであろう、と。
しかし、それはどういう意味なのだろうか? つまり、東先生にとって、ニーチェの「エリート主義」はどういう形で総括されているのだろうか? そして、東浩紀ファンクラブの人たちは、

  • エリート主義に賛成なのか?

が問われていることに、彼らはまったく無自覚なのだw