ニーチェの思想:第一章「相模原事件」

植松聖が、相模原事件を起こしたとき、ネット上で哲学者たちがどういった発言をしたのかを思い出したとき、むしろ、いつもはさまざまな問題に反射神経で発言している人たちが、こと、この問題に対しては、

  • ほとんど

なんの発言もしなかったことにこそ、なんらかの「意味」があったのだろうと思うわけである。
それはつまりは、彼らは「ある意味」において、植松聖は「正しい」と考えている、ということを示唆している。それは、ピーター・シンガーが「ある条件」においては、「殺してもいい」人間が

  • 存在する

と言ったこと(つまり、功利主義的に殺人が「正当化」される)に対して、同じ功利主義者として「共感」する、というのと同じことなのだろう。
このことは、近年さかんに議論をされるようになった尊厳死を認めるのか、といった議論とも関わる。つまり、一種の「自殺」である。ピーター・シンガーはそれを「もはやすでに自殺すらできなくなった人たち」に対して、他者が「自殺を幇助する」といった文脈で、それを正当化できると考えた、と言うことができるだろう。
しかし、である。
そもそも、こういった話はもっと違った形で検討されることを必要としているのではないか? それは、例えば、

  • 頭の良い小学生(=優等生)

が、ある日、「気付く」わけである。「道徳って存在しないんじゃないのか?」と。毎日、親や先生に「怒られ」てすごすことに、イライラしていた優等生は、なんでこんなに成績優秀な

  • 僕(ぼく)

が怒られなければならないのか、と疑問をもつ。怒られるべきは、「頭の悪い小学生(=劣等生)」なんじゃないか? 彼らは、どんなに勉強をしたって、成績がよくならない。ということは、彼らは「ダメ」だということを意味する。それに対して、優等生の「僕(ぼく)」は「イイ」ということになる、だって、こんなに勉強ができるのだから。だったら、なんで彼らが怒られないで、自分が怒られるのか?
そしてこれは、「奴隷」を正当化する議論へと繋がる。劣等生は、どうせずっと「ダメ」なんだから、彼らは「奴隷」になるくらいしか

  • 役に立たない

わけだ。なんでそんな彼らと、同じ教室で同じ授業を受けなければならないのだろう? そうして、優等生は、難関進学校への進学のための勉強に、青春の全てを捧げる。奴ら劣等生は、奴隷の低学歴学校に入るのに対して、優等生の自分はこういった

  • 選ばれた

学校に入る。それによって、自分が「奴隷側」にされることを逃れる、というわけだw つまり、人間には「貴賤」がある。人間社会には「奴隷」がいて、それを使役する「貴族」となるべき存在がいるのだ、と。
なんと恐しいと思うかもしれないが、古くはアリストテレスが奴隷主義者であったわけであるし、つい最近まで、アメリカには奴隷制度があった。つまり、

  • それまで

は誰も、奴隷があってはならないなんて思っていなかったんだ、ということになる。
さて。上記の議論で、その優等生がなににいらだっているのだろうか? それは一言で言えば

  • 道徳

である。道徳が「ある」から、自分は怒られる。でも、道徳なんて存在するの?
ここで、私たちは、はたと気付くわけである。世の中の、自称「哲学者」の言っていることって、これとまったく同じなんじゃないのか、って。つまり、

  • 反道徳主義

である。道徳は存在しない。だから、自分が子どもの頃に「怒られた」ことは、間違っていた。その大人たちは、自分に

  • 謝らなければならない

のだ。自分は不当な扱いを受けた。あってはならない扱いを受けた。だから、そういった仕打ちをした大人たちは、今すぐ、自分の目の前に現れて、その時のことを謝るべきなんだ、と。そうするんことで、自分は「間違っていなかった」ことが証明されて、自分の

  • 名誉

が回復する。つまり、これは彼ら優等生たちの「過去の怒り」がつき動かしている、なんとしても証明しなければならない人生の「目的」なのだw