ニーチェの思想:第三章「反道徳証明その二」

しかし、なぜニーチェが「反道徳」を考えるようになったのかの、その動機を考えてみたとき、上記のような心理学的な説明は、ある意味で、後から発見されたものといった印象を受けるわけで、そもそも、ニーチェはこういった説明を発見する前から、

  • こんなことは嘘っぱち

だという直観があったわけであろう。では、それはどこから現れたのか?
もちろん、言うまでもなく、「進化論」である。ダーウィンニーチェより少し前の世代の人である。もちろん、ニーチェダーウィンの進化論を知っている。つまり、ニーチェダーウィンの進化論によって、それまでのキリスト教が、まったく維持できなくなったことを知っているわけである。
進化論は、人間や動物が、神によって生み出されたものではないことを証明した。つまり、それまでは、人間や動物という種は「普遍」だと考えられてきた。なぜなら、人間や動物は神が生み出した、と考えられていたからだ。実際、聖書には神によって、人間や動物が呼ばれている。よって、人間も動物も、その神が呼んだ存在から変わってはならない、ということを示していたわけだ。
そう考えてみると、ニーチェが言っていることの、ほとんど全てが

  • 進化論「のこと」

を言っているだけなんじゃないか、という気もしてくる。道徳が「ない」ということも、人間や動物が神によって生み出されたのではない、ということを言い換えただけであるし、だから、人間には生きる「目的」がない、ということも導かれる。もはや、神が人間に与えた「意味」や「使命」に、生き甲斐を探すことは許されない、というわけである。

ニーチェははっきりと理性的意志の存在を否定している。その理性的意志とは、行為主体がたまたまもつことになった諸傾向を超えた上にある独立した存在者であると理解されており、カントがそれによって行為主体のアイデンティティを定義することを提案したものである。「意志」は、諸傾向ないし「衝動」から独立など全然しておらず、実際にはそれらの配置にほかならないのである(『意志』四六[一八八八年初頭 一四[二一九]]参照)。これと関連して、ニーチェは政治的なアナロジーを好む。「いかなる意志においても、命令と服従が決定的に問題なのである。すでに述べたように、それは多くの「魂」によって構成された社会構成物を基盤としているのだ」(『善悪』一九)。もし自己がさまざまな衝動による一つの「社会構成物」ないし「共同体」であるばらば(同前)、種々の利害関心を包含した政治的構成物(たとえば議会)が法律について議論する際に受動的でないのと同じよいに、さまざまな衝動が自己の方向性における支配的発言力を求めて争っている際にそれが受動的であるということはないのである。
カント的な見方が魅力的なのは、それが熟慮の現象学の中心的な側面を説明するために必要であるように見えるからである。私が熟慮するとき、私は自らの諸欲求から一歩下がり、それらを支持するか拒否するかを決める。このことは、私がその諸欲求を超えた上にある何かであること、そして私がそれらに対して何らかの種類のコントロールを及ぼしていること、包含するように思われる。
(バーナード・レジンスター『生の肯定』)
生の肯定: ニーチェによるニヒリズムの克服(叢書・ウニベルシタス)

カントの批判哲学は、ちょうどキリスト教の道徳に対応している。それは、「神の視線」から見た「善悪」が、私たちの死後の神による裁きの判断材料となる、という考えである。つまり、私たちのなにかの行為には、必ず、それを行おうとした人の

  • 意図

が関係している。その意図が「善意」だったのか「悪意」だったのか。カントはこれが問題なんだ、と言うわけである。それは利己的だったのか、それとも利他的だったのか。カント哲学は、利他的でなければ、それを道徳的に価値があると考えない。それは、実際に神が死後に「審判」をするときの判断材料としてもそうだ、ということで、ちょうどキリスト教に対応している。

「諸々の欲求や情念」から独立した存在者としての(「純粋」な)理性というカント的考え方の否定を繰り返していること以外に、この一節はそれらの欲求や情念の規範的役割のラディカルな改訂も提案している。それらは各自「いくばくかの理性」をもており、理性は全般的に「さまざまな情念や欲求間の関係のシステム」である。この発想は公刊著作にもこだましている。たとえば『善悪の彼岸』は、個々人の「道徳」----ここではそれは個々人の諸価値の体系として理解されている−−−−を、「その人の本性の最内奥の諸衝動が互いの関係のなかでどのような位階秩序を有しているか」を反映するものとして描いている(『善悪』六)。
実践的推論についてのニーチェによる別の考え方をよりしっかり理解するために、ショーペンハウアー自身の見解のさらんる特徴を検討することにしよう。それは重要すぎて簡単に見落されるほどである。カント的な見方では、熟慮は私の偶然的な諸傾向についてなされるものであり、その諸傾向によって形づくられた立場から見た世界についてなされるものではない。そしてもし熟慮が私の偶然的諸傾向についてのものであるならば、カント主義者にとってみれば、それはしたがって諸傾向に基づいてなされるものではありえず、諸傾向から独立した観点からなされているに違いないと思われるのである。
他方、ショーペンハウアーにとって、熟慮は「動機」についてのものである。動機は彼にとっては諸傾向そのものではなく、むしろ、世界の明確な諸特徴であり、その諸特徴が、私たちの「性格」を形づくる固有の諸傾向に従って、私たちを動かすのである。性格とは、ショーペンハウアーの述語である。私の性格は、出来事が実際にそうするように私を(情動的に)動かすのはどのようにしてなのかを説明するものである。たとえば、他者たちの苦境は私にとって一つの動機である。つまり、それは私にある特定の仕方で影響を及ぼす。なぜなら同情が私の性格の一部だからである。この性格特性がなければ、まったく同じ苦境でも私に影響を及ぼすことがまるでないか、あるいは、及ぼすとしても同じ仕方ではないのである。
熟慮を動機についてのものと考えることで、ショーペンハウアーはその焦点を行為主体の諸傾向----それが行為主体の性格を形づくるのだが−−−−から世界へと動かした。苦境に陥っている他者を助けるべきかについて私が熟慮するとき、私の焦点はその人の苦境にあり、助けることに対して私がもつ傾向にはない。まさに私が助けることへの傾向をもっているから、その人の苦境が私の熟慮のなかで目立ってくるのであろう。だが私の熟慮の対象は、その人の苦境であって私の傾向ではない。その一方で、私の傾向がまずもって、そこから私が熟慮することのできる観点が形づくるのである。もし私が諸傾向をもっていなければ、カント的な見方においては、それについて熟慮すべきものを私はもたなかったであろうが、ショーペンハウアーにとっては、それに基づいて熟慮すべきものを私はもたなかったということになるだろう。
諸傾向を熟慮の対象と考えることで、カント主義者は諸欲求を規範的権威を欠いたものとして扱うことにもなる。それらは受動的衝動であり、独立した理性的権威からの裁可を待っているのである。そしてこのことが、カント主義者が私たちの偶然的諸欲求の外側にある規範的権威----純粋理性のような何か----を探すよう強いられていると感じる、もう一つの理由なのである。ひとたび熟慮に関するそのような見方を捨て、偶然的諸傾向をしてそこからまずもって熟慮がなされるパースペクティヴを形づくるものと見なすならば、私たちは、諸傾向が規範的重要性を有しており、それゆえその外側に規範性の源泉を探す必要などないことを理解する準備ができることになるだろう。
これがおそらく、私の「さまざまな情念や欲求」の各々が「いくばくかの理性」をもっていると言い切ったときにニーチェが念頭に置いていたことであろう。もちろん、それらの情念や欲求は衝突するだろうし、私が最終的に実行する理由をもつものはそれらの「関係」の関数になるだろう。後にこの考えに戻ることになるが、いまのところ私が注意しておきたいのは、この連関ではニーチェショーペンハウアーに味方し、はっきりとカントに反対しているということである。「価値評価そのものの働きの意味は何であるのか。それは形而上学的別世界を指し返したり指し下すことなのか。(カントがいまだ信じていたように。彼は偉大な歴史的運動以前に属するのだ。)要するに、それは発生したのか。それとも「発生」しなかったのか。答え。道徳的価値評価は一つの解釈(Auslengung)であり、説明の一つのやり方なのだ。解釈それ自体は、ある種の生理学的諸条件の徴候であり、同様に、一般に流布している判断の特定の精神的水準の徴候なのである。誰が解釈するのか。----私たちの諸情動である」(『意志』二五四[一八八五年秋-一八八六年秋 二[一九〇])。『善悪』一八七も参照)。ニーチェは私たちの価値判断が「形而上学的世界を指し返したり指し下す」ことを否定している。括弧内におけるカントへのほのめかしが示唆しているのは、ニーチェは、そのような判断が純粋実践理性(ニーチェがしばしば使う広い意味でそれは形而上学である)の立場からなされるのを特に否定しているということである。
(バーナード・レジンスター『生の肯定』)
生の肯定: ニーチェによるニヒリズムの克服(叢書・ウニベルシタス)

上記の引用にあるように、ショーペンハウアーはそういったカントの考えに真っ向から反対した。もしもカントが言うように、私たちが道徳的な判断をするときに、私たちのさまざまな欲望につき動かされる本能を、ある超越的な視点からコントロールしているような、第二の視点としての

  • 理性

としての「主体」が存在するならば、一体それは「どこ」にあるのかを、まさに「物理学」として証明しなければならない。それは、一体どこなのか? もちろん、脳の中をいくら探したって、そんなものは存在しない。ということは、そんなものはそもそも最初から存在しないんじゃないのか? 
ショーペンハウアーはカントの言う、超越的な「理性」の役割を否定する。そして、それを彼は「性格」と言う。私たちのさまざまな行為は、そういった諸性格の、それぞれに対応した「動機」によって決定している。つまり、さまざまな欲求や本能が人間の中にはなるだけなのだ。
ショーペンハウアーはそこから、人間の「善意志」を否定する。人間はたんに、さまざまな欲求につき動かされているだけで、たとえそれが一見、「善意志」に見えても、それでさえも、

  • 一種の性格(=キャラ)

がなしたものでしかないわけで、つまりは、一種の欲求でしかないのだから、それに価値なんてない。ショーペンハウアーに言わせれば、大事なのは、苦境に陥っている人が助かったのかどうなのかであって、それを助けた人の心の中はどうでもいいわけである。
ニーチェはこのショーペンハウアーの思想を継承する。カントの言う「善意志」が存在しないということは、人間の行為は、さまざまな「欲求」や「本能」が、心の中で

  • (政治の比喩を使って)民主主義的に

気めたことに過ぎず、つまりは、「誰も意志していない」わけである。ここには、善を選択した「主体」はいない。つまり、ここには無限退行がある。つまり、ここで民主主義的に、ある判断が選択されたとしても、今度はそれ自体が、なんらかの「民主主義」のプロセスによって、「誰も意志しない」で選ばれる。この過程を無限に退行していけば、いずれ

にまで、辿り着く。よって、道徳は存在しない。なぜなら、誰も「善を意志していない」から。