ニーチェの思想:第四章「新しい価値」

しかし、よく考えてみると、このショーペンハウアーニーチェの考えは、自らを狭い隘路に追い込んでいるように思えてくるわけである。
ニーチェはこれによって、道徳を「意志」することを正当化できなくなった。つまり、もはや道徳について語ることはできない。すべては「欲望」だということになった。たとえそれが、一見「善意志」に見えても、そうであっても、それもなんらかの「欲望」につきうごかされた、それを「動機」とした、反射行動なのだから、

  • それを「良い」と言うことはできない

ということになってしまった。つまり「善意志は存在しない」ことが証明されてしまったのだから、もはや、この世界に「善がある」と考えることができなくなってしまった。
さて。
このことは大変なことである。つまり、人間には生きる「目的」がなくなってしまったのだ。すべてが「欲望」「本能」なら、そこには「価値」がないことになる。なぜなら、全て「利己的」なのだから。なら、そもそも人間に

  • 生きる意味

はあるのだろうか? ショーペンハウアーニーチェは、どうしてもこの問題から逃れることができなくなったのだ。もはや、それを彼らは、カントのように言うことができなくなった。自ら手足を縛ってしまった。
ここから、ニーチェはずっと

を語っていることになってしまった。なぜ生きるのか? 生きるから。もはや、この円環から抜け出せなくなった。つまり、それ以外の一切の説明を、自らが自らで禁じてしまったがために、なにも言えなくなってしまったのだ。

ニーチェはさらに別の意味で、道徳的諸価値は生を否定する、あるいはニヒリズム的でありうる、と示唆している。たとえば、次のような典型的な箇所を見てみよう。「私の主張は、現在の人類が最も欲しているものを諸価値に要約するならば、それはデカダンスの諸価値である、ということである。ある動物、ある種が、その本能を喪失し、選ぶもの、好むものが自身に対して有害なものになってしまっている場合、私はその動物を堕落していると呼ぶ。[...]私は生それ自体を、成長への、存続への、力の蓄積への、力への本能だと見なしている。力への意志が欠けているところには、衰退がある。私の主張は、人類のあらゆる再考の諸価値にはこの意志が欠けており----衰退の諸価値、ニヒリズム的価値が最も神聖な名において支配している、ということである」(『アンチ』六)。
この箇所によると、諸価値が生否定的であるのは、それに従うことが生に有害である場合、つまり、それに従うことで生の保存や繁栄のための条件が掘り崩されてしまう場合である。たとえば、「もし、死につつある者、惨めな者、年寄りに対する尊敬を捨てることを生が要求しているならば」、そも場合、殺すなかれという命令はこの意味で生否定的である(『喜ばしき』二六)。同様に、ニーチェが主張するように、生が成長と力を要求するならば、従順や同情を徳にすることもまた同様に、生否定的である。
(バーナード・レジンスター『生の肯定』)
生の肯定: ニーチェによるニヒリズムの克服(叢書・ウニベルシタス)

もはや、ニーチェ

  • 人間が存続し続けること「そのもの」

  • 価値がある

ということを、壊れたレコードのように、いつまでも繰り返し言い続けるだけのロボットになってしまった。しかし、それがどれだけ奇妙な主張であるかは、ある行為が良いか悪いかは、その「目的」によって決定する、という常識に照らし合わせるときにはっきりする。ニーチェは、その「目的」に関係なく、ただ「生きていること自体」が

  • 価値

だと言うしかないところに追い込まれてしまった。
いや。ニーチェは「なにも価値はない」と言いたいわけではない。ただ、それがなんなのかを彼は語れないのだ。ただそれを彼は

  • 新しい価値

だと言うしかない。

ニーチェペシミストは、私たちの生存が私たちの諸理想に届かないよう運命づけられており、それゆえ価値がないと単に確信しているのではない。むしろそのペシミストは、私たちの生存は特殊な、伝統的な諸理想に届かないに違いないとは信じているが、だからといって、その生存は価値がないと信じているのではないのである。ニーチェペシミストなのは、キリスト教的−プラトン的価値の実現の見通しに関してのみであり、彼は「新しい諸価値」の可能性を信じているのである。
(バーナード・レジンスター『生の肯定』)
生の肯定: ニーチェによるニヒリズムの克服(叢書・ウニベルシタス)

その「可能性」が、きっと未来には証明されるはずだ、と。