片山杜秀『皇国史観』

さて。社会秩序はどうやって確立すればいいのか? それは、「なぜそれが正しいのか」が人々が納得する形にならなければならない。
例えばこれを、江戸時代の最初の、徳川家康になって考えてみよう。

家康はその実力によって、政権を樹立しました。しかし、力によって築いた権力は、力によって滅ぼされる可能性があります。徳川幕府は日本最強勢力ではありますが、すべての力を独占する中央集権的な権力ではありませんでした。各藩がそれぞれ軍事力も経済力も保有する分権的な体制だったのです。

家康は関ヶ原で勝ちましたが、だからといって、各藩は自らの軍事力をもち、「実力」があります。そして、その藩の武士は、その藩の主(あるじ)に忠誠を誓っているのであって、家康に誓っているのではない。だというのに、どうやって「秩序」を成り立たせるのか?
ここで家康が考えたのは、儒教であり、朱子学です。

儒教において、皇帝=天子とは天の徳を体現する存在です。天の徳が地上に実現することによって、王朝が成立し、正統性が保たれる。朱子学は、今ある秩序の中に、真理は宿っている、という面を強調しました。だから、その秩序は尊重されて然るべきである。目の前の秩序を、それを守っていくということが大切であるという、保守主義的な面を、家康は好都合と思って、武家政権とセットになるイデオロギーを仏教から儒教へと、とりかえたのである。
今まる秩序を永続的に守っていく、ということは、それぞれの藩で藩主の支配をずっと続けていくということになります。家の安泰=江戸幕府の永続化であり、各大名が将軍に忠誠を誓うということは、家臣たち、領民たちの藩主への忠誠を保証することになります。それが真理であり、道徳的にも正義である。これが家康の導入した「幕府を頂点とする儒教的秩序」だったのです。

これは、一見すると、うまい考えに思えますが、一つの欠点があります。それは、そもそも朱子学

でできているわけで、つまりはなにが「正統」なのか、の議論をむしかえしてしまう。つまり、

  • 日本の君主は「天皇」ではないのか?

という疑問に常に悩まされるようになってしまった。
いや。それだけじゃない。そもそも、その天皇を「評価」するとか、「解釈」することは

  • 不遜

なんじゃないでしょうか?

そのいちばん極端な議論は、本居宣長によって代表されるでしょう。宣長は、天照大神とは神話の中だけに居るのでもないし、北畠親房のように子孫に三種の神器を受け渡して国を治める徳を説いたから偉いのでもないという立場でした。天照大神は今日もわれわれの目の前に居る。神話を素直に読めば誰でも分かることだが、天照大神とはお日さまそのものなのだ。頭上に輝いているのが天照大神そのものだ。頭上に輝いているのが天照大神そもそのだ。国学は観念操作をしない。本居宣長は、天照大神を太陽の象徴だとは思わない。太陽それ自体であると考える。その太陽の子孫として地上のお日さまであるのが天皇だろう。太陽の徳の有無を云々して何の意味があるだろう。太陽はそれ自体として現実に絶対の影響を与えている。太陽は世界を照らし、その子孫は日本に居る。それだけ分かれば十分である。儒教的な価値観で語れるものではないのです。太陽の子である天皇の代々をいちいち批評するなどもってのほかです。

つまり、宣長にとっては、すでに儒教は「どうでもいい」。天皇

  • 宗教における「崇拝対象」

であって、そのいちいちにケチをつけるなんていうのは、傲慢不遜もはなはだしい。つまり、すでに「儒教」における「政治」の「評価」の土俵にすら乗せることのできない

  • 絶対的

な存在にまつりあげられている。
問題はなんでしょう?

環境の激変が続くと、何が起きるか。現場への情報と権限の集中です。国元や江戸にいる殿様や家老たちなどの上級武士にいちいちお伺いを立てて、御沙汰をまって行動したのでは、とうてい間に合わない。情勢は刻一刻と動いている。その情報を手にできるのは現場の人間です。現場が自分の判断で即時に対応しなくては、どんどん遅れをとってしまう。

これが「民主主義」です。日本は明治以降、議会制民主主義を採用しますが、これは、こういった

  • 行動者

が、

  • 「発見」した人

をトリガーに始まる、より、機動力のある体制に移行しなければ、国難に対応できない、という考えに関係します。
こうやって見てくると分かるでしょう。明治維新以降の日本の政治は、

  • 儒教的な「秩序」概念
  • 宗教的な「絶対神」概念
  • 民主主義的な「人民の政治参加」概念

が「悪魔合体」した、恐しいキメラへと成長していきます。

平泉が戦後に著した『少年日本史』は、この「回天」の話で結ばれています。
「......之を創案し、之を指導したる黒木少佐その人は、若干二十四歳、満で云えば二十二歳、温厚にして紅顔、極めて純情の青年でありました。それが未曾有の兵器を作り、非常の作戦を考えたのは、只々忠君愛国の至誠、やむにやまれずして、敵を摧(くだ)こうとしたのに外ならないのでした。しかも是れは、ひとりの此の人に止まらず、当時の青少年皆そうでした」
そして、こう続きます。
「純情の青年に、愛国の至誠あらしめ、非常の秋(とき)に臨んで殉国の気概あらしめたものは、幼時に耳にした父祖の遺訓であり、少年にして学んだ日本の歴史であり、その歴史に基づいての明治天皇の御諭(おさと)し、即ち教育勅語に外ならなかったのでありました」

こういった「自殺」的態度は、上記の

から「必然的」に導かれる結論だと言えるでしょう。民主主義社会では、

  • 一人一人の「個人」

が政治参加することが求められる。では、その「個人」は、政治に何を見出すでしょう。言うまでもありません。「まだ、人々の天皇への帰依が<足りない>」ことです。
儒教秩序においては、大義名分が重要です。つまり、上下の命令関係です。上司の言うことには絶対に従わなければならない。しかし、同じ藩の中での主(あるじ)と部下においては、それは「諫言(かんげん)」という形式をとります。つまり、同じ地域なので、お互い同じ景色を見ているわけで、その「文脈」から、なにが「合理的」なのかについての、コンセンサスが上司と部下で成立する。
しかし、宣長に言わせれば、天皇は神なのですから、絶対的な崇拝の対象です。つまり、私たち個人は「自分たちが住む地域」のコンセンサスを「超えて」、天皇への

  • 絶対的な、抽象的な関係

に全てが還元されます。つまり、ここにおいては「地域」はどうでもいい、となってしまうわけです。私たちは天皇に会ったこともなければ、どこに住んでいるのかも知らない。つまり、そもそもそういった人と「主従関係」など不可能であるし、ましてや「諫言(かんげん)関係」なんてありえないわけです。
そうではなく、ただただそこいあるのは、「抽象的」な関係、「言葉だけ」の関係です。全ては「神」への「忠誠」の度合いしかない。そこにしか、全ての行動の

  • 価値

はない。その神への自分たちの「崇拝の量」が足りないから、日本は戦争に負けようとしている、と解釈される。
ここにおいて、「(宗教的な)自殺国家」が誕生します。誰にとっても一番大事なもの、つまり、「自分の命」を、天皇に「捧げ」た人が

  • 偉い

のであって、この「価値観」は絶対となります。よって、必然的にすべての「信者」は、「自殺」をすることになる。近年の新宗教において、世界中の多くの地域で、新興宗教における

が絶えないのは、こういった関係にある、と言えるでしょう。
さて。私たちは何を間違えたのでしょう? 言うまでもなりません。そもそも「天皇」は、平泉澄が考えたような、

が「起源」ではないからです。

そのときのことを、「大礼の後」という文章に残していますが、そこで柳田は、大嘗祭は規模の差はあるけれども、我々が村で行っている、秋の実りを祝う祭りと著しく類似している、と結論づけているのです。そうなると、天皇は秋祭りを仕切っている神主、宮司と変わらないということになります。

古事記』などでは、病気や災害も含め、下界で起きる「国つ罪」と、神々の住む高天原(たかまがはら)における罪である「天つ罪」が出てきます。「天つ罪」は犯すと高天原から追放されてしまうという重罪なのですが、それで挙げられているのが、畔(あぜ)を壊して田に張った水を流してしまう畔放(あはなち)、田に水を引く溝を埋めてしまう溝埋(みぞうめ)、すでに種を埋めたところに重ねて種まきしてしまう頻播(しきまき)、田畑の持ち主を示す杭をごまかす串刺(くしさし)といったように、ほとんどが農地のトラブルに関するものなのです。
つまり、神々の住まう古代の理想郷であるはずの高天原は、完全に農業中心の世界で描かれている。しかもこの高天原的な世界は、時間の感覚もないような、永久的に循環し、持続する世界です。春に種をまき、秋になったら収穫し、祭りを催して、柳田がいうところの「祖霊」から----天皇であれば皇祖皇宗から、新しいイネの命を授かる。そしてまた春に種をまき......というサイクルを延々と、何事もなく続いていく。そこは永久平和の世界でもあります。

民俗学の祖とも呼ばれる柳田国男は、天皇を戦前の「皇国史観」とはまったく関係なく、

  • 民共同体の神主・宮司(の頂点的な存在)

として再解釈しました。これは驚くべき発見ではあるのですが、ある意味においては、古事記などの「民俗学」的な素養からは必然的に導かれる結論だったわけです。
もう一回、整理しましょう。平泉澄は、江戸幕府の江戸システムでは駄目だと考えました。それでは、「天皇親政」国家になっていない。天皇の意思と関係なく、国民が自分の利益で行動してしまう。よって、平泉は

  • 王政復古

を唱えました。古代の「正しい」秩序に戻らなければならない。そこで彼ら考えたのが、飛鳥時代の「律令国家」です。つまり、

  • 中央集権国家

です。しかし、そこにおいて彼は、そもそも「天皇」とはなんなのか、を真面目に考えていなかった、と言わざるをえないのではないでしょうか? なぜなら、言うまでもなく、飛鳥時代の「律令国家」が始まる前から、天皇はいたからです。だとするなら、そこにおいて、天皇はどんな「役目」を担っていたのか? それが、柳田国男が「発見」した

  • 常民

の「農業王(=農業の祭司)」の姿だったわけでしょう。そして、もう一つの大事なポイントは、戦後の日本国家の再出発において、この柳田の「天皇像」を、昭和天皇自らが「受け入れた」というところにあります。

私は、こうした柳田の天皇像を、戦後皇室の側でも積極的に受け入れたのではないかと考えています。たとえば昭和天皇の末の弟である三笠宮崇仁親王は戦後、東京大学歴史学を学び、古代オリエントの専門家となりますが、この三笠宮と柳田は学問を通した交流がありました。三笠宮は一九五一(昭和二十六)年七月、新嘗祭を研究する「にひなめ研究会」を結成しますが(この年の九月にサンフランシスコ講話条約締結)、柳田もその発足メンバーの一人だった。

ここまでの議論をまとめると、どういうことになるでしょうか?
おそらく、私たちが「日常」において、支えにして生きている規範は

  • 農業共同体

的な、回りの人を想いやる、優しい共同体なのでしょう。つまり、これが「ベース」にある。しかし、それがいざ「国家秩序」といった、抽象的な日本国家の全ての国民の「総意」のようなものの創出の段階になると、どうしても、儒教イデオロギー的な抽象的な

  • ルール

を絶対視する概念が入り込んでくる。これと、宣長的な「絶対神」概念が「悪魔合体」すると、どうしても

  • 自殺的「聖性」

の「魅力=引力」に抗えなくなってゆく。では、どうやって私たちは、今後、この

  • 引力

の場から逃げ続ければいいのでしょうか? おそらくそれは、柳田国男がやったような方法しかありえない。つまり、天皇

  • (なんらかの政治的な野心を実現するための手段に)利用しない

というところにしかない。そうではなく、

  • もともと天皇とは「なんだった」のか?

を問い続けることによって、そこからひるがえって見えてくる、そもそもの私たちの社会の「秩序」の源泉に立ち返る、ということなのでしょう...。

皇国史観 (文春新書 1259)

皇国史観 (文春新書 1259)