アニメ「ゆゆゆ」と皇国史観

アニメ「勇気友奈は勇者である」は、少し前にテレビアニメとして放映された作品であり、当時としては、特に、若い人たちを中心に熱狂的な人気を獲得した。
ところが、今ふりかえってみると、この作品について、上の世代が活発に

  • 批評活動

をやったかというと、ほとんどそういったものを見かけなかった、というのは、なかなか興味深い現象だったように思われる。
それはなぜなのか、と考えてみると、非常に簡単に言ってしまえば、「あまりに皇国史観を全面に出しすぎている」というのがあったように思われる。こういった傾向は、例えば、日本のアニメ史の分析において、徹底して、宇宙戦艦ヤマトが無視されてきた理由とも関係しているだろう。
そういった観点に言うと、彼ら、上の世代がこういった「皇国史観」的な問題について、まったく無自覚だった、といったことはなかったのだと思う。それは、例えば、エヴァンゲリオンを考えても、多分に「皇国史観」への批判的な視点が含まれていたんじゃないのか、と解釈することはできたわけであるし、実際にエヴァをそういった観点から見直そうとしたような、意欲的な批評はあったんだろう、と思う。ではなぜ、「ゆゆゆ」はそうならなかったのかといえば、あまりにも

  • 直接的

に「皇国史観」を描きすぎたので、右翼からの攻撃を嫌って、なにも言わなかった、といったところなのかもしれない。つまり、エヴァはどこか「高尚文学」であって、さまざまに、アフォリズムがあって、難解な「解読」といった行為がはやったわけで、そういった「文学趣味」の人たちの琴線をくすぐる仕掛けが大きかった、ということなのだろう。
ただ、こと「作品の構造」という視点で考えたとき、「ゆゆゆ」とエヴァは似ていなくもない。というのは、その「作品の終わり方」といった意味で、その

  • 物語の破綻

といった視点で考えるとき、どこか似ている感じがしてくるわけであるw
アニメ「ゆゆゆ」は、以下の三部作で構成される:

  • 勇気友奈の章
  • 鷲尾須美の章
  • 勇者の章

このうち「鷲尾須美の章」は、「勇気友奈の章」の二年前の時系列なので、実質、「勇気友奈の章」、「勇者の章」の二つの章で構成されている、と解釈できる。よって、以下それぞれ、

  • 第1章:勇気友奈の章
  • 第0章:鷲尾須美の章
  • 第2章:勇者の章

と呼ぼう。
第1章は、勇者部のメンバーがバーテックスとの戦いを経るに従い、次々と「身体機能の一部を失う」という経過をたどる。つまり、

  • そこまでして、なぜ彼女たちが戦わなければならないのか?

が問題設定としてあった。しかし、ここからがエヴァと似ている。第1章のラストで、「なぜかは分からない」が、勇者部のメンバーの一人一人の「失っていた身体機能」が、少しずつ回復してきていることが示唆されることで、ある種の

  • ハッピーエンド

という形で作品は終わる。つまり、どこか

  • 無理矢理のハッピーエンド

という意味で、(テレビアニメ版の)エヴァに似ているわけであるw
確かにこれで「ハッピーエンド」という意味では、これで作品は終わりになってもいいのかもしれないが、言うまでもなく、バーテックスがいなくなったとはどう考えても思えないわけでw、なにもこの「戦い」は終わっていないw よって、第2章「勇者の章」が作られたわけだ。
(ちなみに最初に言っておくと、第2章の途中で、なぜ彼ら勇者部のメンバーの「失っていた身体機能」が回復したのかについて説明がされる。それは、「神樹様」がなんらかの形で「肩代わり」してくれている、といった説明で、つまりは、なんというか

  • 本当の回復ではない

といったことが示唆される。)
さて。ここから第2章の話をしていこうと思うのだが、私の今の評価を最初に書いておくと、

  • 第1章、第0章は高評価、第2章は低評価

となる。なぜ私が第2章を認められないのかというと、それは私自身のWW2での日本の皇国史観に対して、今、どういった評価をしているか、に関係してくる。
第1章、第0章はいろいろ考え方は人それぞれかもしれないが、基本的にWW2での日本の皇国政策における、

  • 若者の犠牲

をテーマにして描かれたことは自明だったと思う。そして、例えば第1章での主人公の勇気友奈の発言をみても、必ずしも、

  • 体制批判一色

といった感じではない。そういった意味で、私は第1章、第0章が、このような形で描かれたことには、一定の正当性がある、と理解している。
対して、第2章は、言ってみれば、日本の「WW2での敗戦と戦後の民主主義社会」が描かれたのだ、と考えている。そして、それを描こうとしたことに対して、私は批判的なわけではない。そうではなくて、これは果して、本当に

  • 戦後の日本

なのか、が疑問なのだ。
例えば、このことは二つの補助線を引くことで、より強調されるだろう。
一つ目は、第2章のブルーレイに付属している製作者たちの対談で、以下のように語っている:

タカヒロ:(笑)。アプリの『ゆゆゆい』も配信中ですし、『勇者である』シリーズ全体の流れとしてはまだまだ動いていきます。ですが、また友奈たちがひどい目に遭うかといわれると、それはもうないんじゃないかと思いますね。

つまり、その総括として、勇気友奈たち勇者部の戦いは

  • 彼女たち(子どもたち)に「ひどい目」に遭わせていた

といった総括がされており、「もうそれはできない」という形でしめられている。
そして、二つ目が、「ゆゆゆ」のブルーレイに同梱されている、満開まつりというファンミーティングでの、声優さんたちの態度に現れている。第1回の満開まつりの最後の、主人公の友奈役の照井春佳さんのコメントは、どこか「感動的」な、情熱のこもったものになっているのに対して、第3回の、「勇者の章」を終えてのコメントは、まるで

  • 怖がって

いるかのような態度になっている。つまり、一回見た後は、怖くて見返せていない、といったことが正直に語られて、どこか、元気がない印象を与える。
しかし、その態度は当然なわけで、「勇者の章」において、友奈は

  • 助けられる側

の存在として描かれている。つまり、彼女は「勇者」として戦っているというより、「助けられる側」に移動している。そういった意味で、あまりに、第1章とは

  • 主人公の視点

から見たときに、どこか「矛盾」した描かれ方をしているように思われることが、私には、第2章が

  • 失敗作

と思える理由なわけである。
さて。何が私が気に入らないのか?
上記を見てもらえれば分かるように、製作者サイドは、この作品の主人公たちを

  • ひどい目に遭わせる

ことを、どこか「意図的」に行っている。つまり、これはある種の「サディズム」を意図した作品だ、ということになる。
そして、作品の最後はその「神樹様システムの破壊」という形での

  • 戦後の民主主義社会(=大人が主役の社会)

が現れた所で終わっている。つまり、最初からこの作品は「本来これは大人がやらなきゃいけない仕事だよね」と思いながら、子どもたちを「サディスティック」に「いじめ」ていることに、「興奮」を与えようと意図したかの雰囲気が見られるわけである。
しかし、それでいいのだろうか?
というのは、少なくとも、子どもたちは「この世界を救おう」と思って戦ったわけであろう。だとするなら、少なくとも、その子どもたちの「純粋な勇気」には、一定の評価を与えなければならないのではないか?
私が不満なのは何かというと、上記作品では、「神樹様システム」が完全に破壊された、ということの評価なんですよね。この「破壊」は、戦後の皇国史観が終わった、ということと対応しているし、そういう意味では、戦後の、靖国神社も、ある種の「終わり」を体現していると言ってもいい。しかし、どういう形であれ、

は戦後残された、わけでしょう。つまり、このアニメ「ゆゆゆ」の最後には、この「戦後の天皇」に対応するものがないんですよね。じゃあ、この「戦後の天皇」って、なんだったのかとえば、前回書かせてもらった、

だったわけなんだと思うんだけれど、おそらくそれを、私たち戦後世代は「自覚的」に生きてこなかった、ということなんだと思うんですね(つまり、それを一種の「触れてはいけないタブー」として扱ってきた)。
つまり、私はこの第2章「勇者の章」の作品構成自体に、違和感があるわけです。
もしも私が第2章を書くとするなら、まず

  • 勇気友奈が「戦う」内容にすべき
  • ただしその「戦い」は、その目的が「この世界」といったものではなく、「自分たちの身近な風景」であり、つまりは「農村共同体」に対してのもの、として描かれる必要がある。
  • 最後に「神樹様システム」が崩壊することはいい。ただし、それによって「なにもなくなる=戦後の高度経済成長的な無目的社会を無目的に生きる」といった社会が現れるのではなく、その「神樹様」の「意味=起源」が再度見直される、という形で、ある種の、柳田国男的な「永遠平和」の象徴として、再解釈される。

といった形が、よりリアリティのある、作品構成だったんじゃないか、と思うわけで、まあ、ぶっちゃけて言えば、たとえ「新樹様システム」がなくなった後も、彼女たち勇者部は、文字通りの意味の「勇者」として描けなかったのかな、といったところでしょうか...。
(そうじゃなきゃ、あの戦いはなんだったのかって、声優さんじゃなくても戸惑いますよね...。)