よく、日本では
と呼ばれて、文系の大学の学部で教えられているわけであるが、そもそもこれは、欧米では
- 言語分析哲学
と呼ばれていたものであって、なぜ前半の「言語」が省略されて呼ばれているのか、というところに、私はなんらかの「陰謀」のようなものを感じざるを得ないw
この言語分析哲学は、バートランド・ラッセルから始まる、とされている。さて、ラッセルは、どういった主張をしたのか?
一つ目が、「感覚与件」の理論である。
感覚与件は、私たちが目を閉じるとか耳をふさぐとかなにかに触れるとかすることによって、感じなくすることはできますが、それがどのように感じられるかは、基本的に私たちの意志とは関わりがないと考えられます。目を開けばある色や形が見えますし、いやでもなにか、音が聞こえます。このように、私たちの意志や考えとは関わりなく与えられているもの、これは、ある人々にとっては、大変魅力的なものでした。
どういう意味で魅力的かというと、私たちの考えは間違っている可能性があるとしても、感覚与件は私たちの考えとは関わりなく私たちに与えられているのですから、その意味でそれは私たちにとって「絶対に確か」なものです。「感じられるがまま」には、間違いようがありません。
そして、もう一つが「固有名」である。
ラッセルの見解に従えば、例えば「詩島萌々」という固有名は、「二〇一六年に結成されたオフィス系アイドルグループ「カプ式会社ハイパーモチベーション」の、山形県出身のメンバー」のような「記述」を圧縮したものだということになります。なぜかと言うと、詩島萌々を知らない人からそれが何か尋ねられたら、「二〇一六年に結成されたオフィス系アイドルグループ「カプ式会社ハイパーモチベーション」とかいった仕方で答えますよね。ラッセスは、普通に「固有名」と言われているものは、そういった記述を圧縮したもの、つまり「簡略記述」(truncated description)だと考えます。
まあ、一見して分かるように、ラッセルは
- 言語
の話をしている。では、彼以降の言語分析哲学者が何を言ったのかというと、
- ラッセルは間違っている
と言ったわけである。つまり、
である。このことは、とても興味深い事態だと言えるでしょう。まず、上記の一つ目の「感覚与件」の議論から分かるように、これはかなり
- 実体論
的な議論であることが分かるであろう。人間は「言語」によって
- 真実
を知ることができる。しかし、ラッセル以降の言語分析哲学者たちは、これに次々と挑んでいった。なぜか? それは、言語学の以下の命題に関係している:
- どんな「真実」も「言語」で記述されなければならない。
しかし、もしもそうだとすると、これは困ったことになる。なぜなら、私たちは、すでに
によって、記号論理学がさまざまな「限界」について主張していることを知っているからだ。
つまり、なぜリチャード・ローティが古典的哲学、つまり、
に反対したのかといえば、彼らの「イデア論」、つまり、
- 心
という
- 心の鏡
が「嘘(うそ)」だから、ということになる。私たちは、どんなにがんばっても、
- 真実
を語ることはできない。なぜなら、何かを語るための、その何かを、
- 「絶対に」記述できない
からだ。つまり、私たちが行っている説明は、必ず、その対象の「ある特徴」について語っているに過ぎない。つまり、その説明は絶対に
- 必要十分にならない
ことが宿命づけられている。私たちは絶対に「真実」に到達しない運命の中にいるのだ。
こういったレトリックの方向が、なぜ私が言語分析哲学を
と呼ぶのかをよく説明するであろう。言語分析哲学は、自分たちが発見した「真実」を利用して、世界中にある
- 「真実」は存在する
と主張している、いわゆる
- (古典的)哲学
と呼ばれている一連のものを、次々と「攻撃」するようになった。彼らは「嘘(うそ)」を言っている。こんな反倫理的なことが許せるだろうか、と。
例えば、ローティの最初の代表作である『哲学と自然の鏡』においては、以下のような形で、ロックとカントは
- 間違っている
という主張を行う。
ローティの批判の要点を単純化して述べれば、こういうことです。私たちは、ある見解が正しいか正しくないか、真か偽かを判断しようとする場合には、それが正しい理由、正しくない理由を挙げなければなりません。例えば、「三角形の内角の和は二直角である」という主張が正しいとするのであれば、それを示す作業、つまり、「正当化」の作業が必要であって、これをするには三角形の一辺に平行な線を対角のところに引いて、錯角が等しいとかいったことを指摘する必要があります。「金は王水には溶けない」という主張に対しては、実際に濃塩酸と濃硝酸を三対一の体積比で混ぜて王水を作り、それに金を投入してどうなるかを見なければなりません(この場合、これによって当の主張は「正当化」できないことが示されます)。このようにして、個々の「知識」ないし「認識」と言われるものが妥当であるかどうかを確認するには、それぞれに応じて「正当化」の作業をする必要があります。
ところが、ローティに言わせますと、ロックが『人間知性論』でやろうとしたことは、そうした「正当化」ではなく、私たちの心の中でどのような仕掛けが働いて知識が得られるかを「説明」するものでしかありません。ローティはこれを、「なぜなら私は目がいいからだ」と言うことによって自分が信じていることを正当化するのと同じだと言います。
こうした総合のメカニズムの考察は、ローティによれば、先ほどのロックの場合と同じで、私たちが知識とみなす一つ一つのものを取り上げてそれを正当化するものではありません。私たちは、知識(認識)を得る際に、なにかに対してあることを「述語づける」こと----例えば、「金」に対して「王水に溶ける」ということを「述語づける」こと----をします。けれども、その述語づけは、直観や概念を多重的に結合する「総合」のプロセスを提示することによって正当化できるものではありません。ローティによれば、カントがしようとしていることは、知識を持つ「原因」(どういうことが心の中で起こってその結果知識が得られるのか)を探ろうとするもので、知識の「根拠」(なぜそれが真なのか)を示すものではありません。
ローティは、たんにロックやカントが「間違っている」と言っているだけではないわけです。そもそも
- 全て
の、この世界についての「真実」を自称する学問が間違っていて、
- やってはいけない
と言っているわけである。当たり前だが、こういったものの多くに「科学」も含まれるであろう。ローティは、全ての「理論」は「駄目(だめ)」だ、と言っている。これは、徹底した
であるわけだが、ある意味において、彼の主張を徹底させるなら、そういった場所に追い込まれざるをえないわけであろう。
では、こういったものに代わって、ローティが「礼賛」するものを何かというと、それが
- 詩(し)
だ、というわけである。つまり、「文学」だ。
彼は、自らの立場を「プラグマティズム」と呼ぶわけだが、この意味は、ニーチェの
と同じものだ。つまり、ここにおいて、一切の主張は「反転」するわけである。全部、駄目。ということは、逆に言えば、
- 今まで駄目と言われていた「方」こそが、「逆説的に」正しい。
ということになるわけである。ナチスに加担して、戦後は、ほとんど哲学的な考察を捨てて、ひたすら詩的な散文を書き続けたハイデッガーをローティは礼賛し、さらに、カントを徹底して批判し、むしろ、カント以上の「本質哲学」を書き続けた
をローティは礼賛する。ローティにとって、それが「真実」を「記述」しているから礼賛しているのではない。そうではなく、
- 今の私たちが何かを始めるのには、今の私たちを成立させている「文化的条件」に縛られているところからしか始められない
という意味で、その「真実なんて見つけられるわけがない」という意味での、
- 素朴な「本音」から始めている
- 「優等生を気どって」まるで「真実」が今でもあるかのように振る舞っている
連中が「偽善的」である、といる理由で唾棄するなら、それよりもまだ、そういった「保守思想家」は、
- 相対的にまし
という理由で、評価する。
しかし、である。
ようするに、いろいろレトリックを駆使して語っているけど、言っていることは、つまりは
なわけであろう。そしてそれは、クワインからデイヴィッドソンから、みんな程度の差はあれ、「懐疑論」であることには変わらないわけです。
なぜ彼らは、こういった「懐疑論」をやらなければならなかったのでしょう? それは、上記のラッセルの話が分かりやすいように、彼らの言語分析哲学の出発点に、こういった
- 実体論
があったからでしょう。言語は「真実」を語れる。つまり、言語には、この世界の真実が「対応」している、と。
しかし、そもそも、こんなことをカントは言っているんでしょうか?
よく考えてみてください。言語分析哲学者は、どの本を読んでも、
- 認識論と「知識論」を同一視している
と書いてある。しかし、なぜ認識と知識は「同一」なのでしょう? こんなことを言っているのは、言語分析哲学者しかいません。
上記のローティによる、ロックとカントの批判がトンチンカンなのは、この「認識論」と「知識論」を同一視しているからでしょう。認識論が知識論なら、言語は真実を記述できないんだから、認識論は間違っている、と。しかし、ここで議論をしているのは、「認識」なのであっって、それはそれ独立として、例えば、神経科学などが、その分析を行うにおいて、カントの多くの議論が、さまざまな
- 示唆
を与えている、といった事実が、普通にあるわけでしょう。
そもそも、ローティはなぜ「数学」について語らないのか? 数学は、なんらかの「モデル」でしかない。これが、「何について」のモデルであるのかは、そもそも数学にとって
- どうでもいい
わけである。だとするなら、ここでローティが「一切の理論に反対」して、
- 詩(し)
こそ、唯一の人類の希望の光だ、と言っているのは、なんの冗談なわけでしょうw
はっきり言わせてもらえば、ロックやカントの言っているのことの枝葉末節がどうのこうのなんて、どうでもいいわけです。彼らの「考察」が、例えば、
- オートポイエーシス・システム理論
の「認識論」に大きな影響を与えているのだとするなら、それだけで、十分に意味があるわけでしょう。それは、その理論が「真実」かどうか、なんて関係ないわけです。そうじゃない。こういった
- モデル
の提示が、さまざまな私たちの理解の説明を与えるのであるし、こういった活動なしに、「ポエム最高」とか言ってるだけの、害悪しかない
- 文系
と呼ばれている謎の人たちを、どうやってこの世界の邪魔にならないように、安全に管理するのか、こそが問われているわけでしょうw。
- 作者:恭彦, 冨田
- 発売日: 2016/11/14
- メディア: 単行本