昔から、
- 生物学
というのは、物理学とは、なんらかの意味で「違う」科学なんじゃないのか、と言われてきた。それは、生物学が物理学の法則に従わないから、ということではなくて、通常の物理学の手法では
- 扱えない
性質のもの「だから」、生物学という「分野」が存在するのではないのか、ということであった。それは、細胞一つを考えてもみていい。この細胞の中では、
- 年がら年中
なんらかの「化学反応」が起きている。しかし、それを「全て」
- 記述
することは絶望的に不可能なんじゃないのか、と思われるからである。言うまでもなく、今の医学であり生物学は、全ての細胞の中で起きている「化学反応」を「記述」できていない。今でも、次々と新しい「発見」があるし、つまりは、
- 分かっていない
ことがたくさんある、と考えられている。しかし、もっと言えば、たとえそういった反応の種類の全てが分かったとしても、こういった活動の十全な記述は「不可能」なんじゃないのか、と思われるわけである(これを、例えば「非線形性やカオス理論などで説明してもいいわけですが)。
ここではこれを、オートポイエーシス理論とは、どういった理論なのか、の分析から考えてみたいと思います。
まず、オートポイエーシス・システムは、以下の非常に単純なコンポーネントから構成されます。
- 生成:構成素A、構成素B... → 構成素X、構成素Y...
まず、オートポイエーシス・システムは「生成」のシステムである、ということが分かります。この「生成」機能は、
- 構成素A、構成素B...
という、幾つかの「構成素」と呼ばれる、ここでターゲットにしているオートポイエーシス・システムを構成している要素が、なんらかの形で「併存」したときに「起動」します。例えば、生物の細胞であれば、その中のある化学反応は、その中の、「アミノ酸」などの、幾つかの「化学物質」が「併存」すると、
- 自動的
に「起動」されることが分かるでしょう。
さて。ここで大事なポイントがあります。上記の「生成」は、そもそも「一つ」でしょうか? ここでは、あくまでも、その「生成」が「起動」した、
- 前
と
- 後
という「スナップショット」を「観察」することで、上記の関数が表現されているわけですが、この関数は以下のようになっていてもいいわけです:
- 生成X=生成A○生成B○...
つまり、これは、何回かの生成の「結合」であってもいい、ということなのです。
さて。ということは、どういうことになるでしょうか?
このオートポイエーシス・システムは、その「全体」を「十全」に記述していない、ということです。あくまで、私たちがこのオートポイエーシス・システムが
- 存在
する、と言っているのは、そのシステムの
- 観察時点
を「一つ」にまとめて、「それが在る」というふうに、その
- 事実性
を主張しているだけなのです。もちろん、私たちの「目の前」にあれば、「それ」は「存在」します。しかし、数学などで「存在」という言葉を使うときは、あくまで、その理論の中で
- 論証
される形になります。ところが、オートポイエーシス・システムは、そういった論証
- 以前
に、その「存在」が主張されている、というところがポイントです。
オートポイエーシス・システムの「存在」は、理論的なものではありません。そうではなく、それを
- 観察
して「在る」ならばあるし、「無し」ならばなくなった、と言っているだけなのであり、それ以上の定義づけができない、というわけです。
こういうふうに聞くと、一見
- 数学的モデル化は不可能
なように聞こえるかもしれません。しかし、考えてみるとそれは変なんじゃないでしょうか。つまり、それは、ある
- 抽象度
において難しい(物理学的な「全記述」が不可能)と言っているに過ぎず、どんな主張でも、そのレベルにおいて、一定の整合性であり、論理的な「つじつま」が合っていれば、
- 必ず
それは「そのレベル」において、
- (数学的)形式化
ができるわけでしょう。文系の学者は「なぜか」、そういった「労力」を避けたがりますよね...。