湯浅正彦『存在と自我』

つまびらかにカントの哲学を考えてきたとき、おそらく、最初に気付かれる点は、カントが

だ、ということだと思うわけである。つまり、カントのアプリオリ性とか、超越論的といった議論は、明らかに、ダーウィンの進化論以前の文脈に依存して行われている。
ダーウィンの進化論は「科学」である。つまり、ダーウィンはそれを「観察」や「実験」によって、

  • 発見

したのであって、それ以前には、人間社会の「知識」として、それはなかった。
よく考えてほしい。それ以前の、アリストテレス的な世界観においては、そもそも人間を含めた、生物の「生物種」は、

  • 不変

と考えられてきた。つまり、聖書の創世記において、神が人間を「造った」そのときのまんま、今の人間が「ひきつがれている」という認識だった。だから、神は人間に「人」と呼びかけたのであり、今でも私たちはそれを「自分たち」のことだと思っている。
こう聞くと、「ようするにカントは間違えたんだね」といった、悟りを語る哲学オタクがあらわれるわけだけれど、待ってほしいわけである。

大澤 カントもそうですね。現代思想系の人間にとっては、カントは、ふつう、敵です。カントについては、ネガティヴに言及するのがふつうです。「カントは問題があったけれど、それに対して私はこうだ」と。
大澤真幸柄谷行人『戦後思想の到達点』)
戦後思想の到達点: 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る (シリーズ・戦後思想のエッセンス)

これって、リチャード・ローティにしても、ピーター・シンガーにしても、ちょっと人格を疑いたくなるレベルで、カントを、ボロクソのクソミソに罵っている。そして、こういう態度をとることで、彼らは、その分野での

  • 第一人者

として、世間からチヤホヤされている(これを読んでいる人にも、彼ら二人が大好きな読書も多いのだろう。そういえば、東浩紀先生の『観光客の哲学』でも、カントは下半身が分かってないとかで、ボロクソに嘲笑してたよね、こういう「売名行為」だけはうまいんだよね)。
でもさ。本当に彼らが書いている

  • カント論

って、読む価値があるの? というか、彼らって、本当にカントを読んだことがあるんだろうか? 間違いなく、読んでないよね。だって、二人とも、専門は、分析哲学であり、功利主義なんだからw
つまり、真面目に読む気もないくせに、著書でカントに言及すると、世間がチヤホヤしてくれるから、自分の名前を売る道具として「使っている」だけなんだよねw
カントの『純粋理性批判』の第一版の序文には以下のようにあります。

しかし、私が批判ということで意味しているのは、書物や体系の批判のことではなく、理性が、すべての経験に依存せずに、切望したがるすべての認識に関しての、理性能力一般の批判のことであり、したがって、形而上学一般の可能性ないしは不可能性の決定、またこの形而上学の源泉ならびに範囲と限界との規定のことであるが、しかしこれらすべてのことは原理にもとづいてなされるのである。
(カント『純粋理性批判・上』)
純粋理性批判上 (平凡社ライブラリー)

ここでカントが、「すべての経験に依存せずに」ということを言っているわけだけど、これって明らかに、

を意識しているわけでしょう。それは、スティーヴン・ピンカーの『人間の本性を考える』が有名だけど、つまり、ロックのような、タブララサ。「すべてが経験により獲得される」といったような主張に対して、

  • 生得的

なものをなんで無視するんだ、と言いたくなるわけでしょう。しかし、カントの時代には、まだ進化論がなかった。つまり、創世記の、はるか太古に神が人間を「創造」してから

  • 不変

だ、ということを前提とするなら(つまり、そういう「常識」を前提にしている、世間に向って議論をするなら)、「それ」を

という言葉で議論をすることは、全然普通のことなんじゃないですか?
カントが生きていた時代の、彼の回りの「言説」がどういったものであって、どういった人に向かって彼が語りかけていたのかを考えるなら、リチャード・ローティにしても、ピーター・シンガーにしても、ああいった

  • 偏執的

なカント dis って、ちょっと、人格を疑うレベルじゃないですか?
しかし、ね。そもそも、ローティは、どうも、そのことを分かってるかのようなことを言ってるんですよね。

われわれは現在から振り返ることによってデカルトホッブズを「近代哲学の創始者」と見なしている。しかし、彼らは自分たちの文化的役割をレッキーの言う「科学と神学の闘い」という見地から考えていたのである。彼らは知の世界をコメルニクスやガリレオにとって安全な場所にするために(慎重にではあるが)闘っていた。自分たちが「哲学の体系」を与えているなどとは思わず、むしろ、キリスト教から知的生活を解放することと並んで、数学や力学の研究の興隆に寄与しているのだと思っていたのある。
リチャード・ローティ『哲学と自然の鏡』)
哲学と自然の鏡

当たり前だけど、カントも本音を言えば、哲学なんて「どうでもいい」わけです。こんなの、デッチアゲですよ。ただし、これによって、

のさまざまな「アカデミズム」に対する「圧力」を、どうやって回避するような、議論の枠組みを作るか、っていう方が、何百倍も重要だったわけでしょう。これによって、始めて、学問の

  • 自由

の場所(つまり、アジール空間)を作れるかの方が、はるかに大事だったわけでしょう。これに比べれば、自分の書いてることが、どれくらい「真実」なのかなんていうのは、どうでもいい。逆に、これによって、たとえ嘘だったとしても、キリスト教会が、一定の範囲で、

  • 学問の自由(=自治

を認めようかと思ってもらえる方が、はるかに重要だ。なんで、こんな「当たり前」のことも、後世の人には伝わらないんだろうねw
なんのために学問をやるの? 「真実」のため? 馬鹿じゃないの? そんなの

  • 今を生きる人の「幸せ」のため

に決まっているでしょう。なんで、カントが理論理性に対する実践理性の優位を主張したの? なんで、現代の学問は、頭が悪くなっちゃったんだろうねw
さて。今でも、カント哲学は評判が悪い。その一つは、彼の理論構成が、

  • 超越論的観念論

という形をしているから、ということになる。つまり、いわゆる「バークリ」の観念論と同列のものとして、カントの哲学は解釈されている。しかし、認識論にしても、オートポイエーシス・システム論にしても、そもそも私たちが

  • 現象

しか知覚できないのは、たんなる「事実」でしかない。なんでこれが、多くの人に受け入れられないのか。おそらくそこには、カントが使った言葉である

  • 物自体

という「言葉」が、多くの混乱をもたらしている、と思われるわけである。

ここで「物自体そのもの」は「現象」ないしは「物体」の根底に存すると判定するわけにはいかないであろう。ここで、「物自体そのもの」は「現象」ないしは「表象」を生じさせる原因となるような性質だけはもつのだと主張するならば、内なる「表象」から外なる実在へと因果推論によって到達しようとすることになって、(カントが理解するかぎりでの)デカルトの「観念論」に陥ることになる。

つまり、私たちはこの

  • 物自体

という、カントが使った言葉を、そもそも「疑う」べきなのだ。

ではカントの意図に沿うような、超越論的観念論の適切な仕方はいかなるものであろうか。それを著者は『プロレゴメナ』の第四九節(Prol. 49)の次の箇所から探り出すことができると思う。
「一つの可能な経験に属する対象以外の対象にはわれわれはかかわりがない mit anderen Gergenstanden als denen. die zu einer moglichn Erfahrung gehoren, haben wir es nicht zu tun のであって、なぜなら、そうした対象はわれわれに経験において与えられることができないし、したがってわれわれにとっては無だからである。経験的に私の外にあるのは、空間において直観されるものである。そして空間は、それが含むすべての現象とともに表象に属している」。

ようするに、カント自身が「物自体」について、人間は

  • 語れない

と言っているわけですw じゃあ、なんでカントは「物自体」なんて書いたのか? それは、彼が

  • 誰に語りかけていたか?

に深く関係しているわけでしょう。この「物自体」についての言説は、ある種の

  • 比喩

として、「分かりやすい」という特徴がある。つまり、こういった表現をすることによって、カントの「学問仲間」の人たちの間での

  • 文脈

においては、よりここでの「主題」がなんなのかを強調するものになっていた、ということなのでしょう。
それではここで、カントが言っている「超越論的観念論」を、もう一度振り返ってもらいたいわけです。

カントによれば「知覚」とは、「意識を伴う表象」であり、それが「客観的」である、換言すれば「主観の状態の変様」から区別された客観ないしは対象へと関連する場合には「認識」であった(A320/B377)。しかし本章第一節で見たように、「表象」は「悟性」によって経験的に規定可能なものとして形成されることにより「対象」となるのであった。この事態は、「知覚」における「経験的意識」が、対象への関連を得て「認識」、あるいはむしろ「経験的認識」すなわち「経験」となることとも表現できよう。その際の「対象」とは、「悟性」によって或る仕方で形成された「表象」であり「現象」なのである。こうした観点から、前の段落で引用した文言を見返すならば、「あらゆる時間におけるすべての可能な経験的意識(知覚)に関する統覚の必然的な統一」と、「時間における関係からみたすべての現象の総合的な統一」とは一つの同じ事態を、それぞれ「意識」の側面と「対象」の側面とから表現したものであることが察知されるであろう。

さて。スティーヴン・ピンカーがジョン・ロックを批判したように、人の心はタブララサ。真っ白な石版の上に、書きこまれる「経験」に

  • 尽きている

という立場に、カントはどうしても立てなかったわけでしょう。つまり、なんらかの、すでに人間自身に備わっている、

  • 能力

がなければ、どう考えてもそんなことは実現できない、と考えた。しかし、もしもそう考えたのであれば、当たり前だけど、その考えを

  • 徹底

するしかないよね。つまり、それがカント的な「観念論」なんでしょ。つまり、本当に私たちは、さまざまな「経験」を、

  • なにもない所から

獲得できるの? むしろ、私たち人間の側に、そういった外界の

  • モデル

を心の内部に(ある種の、時間・空間を、その<すべての可能性>を含んだような)数学的モデルのようなものが、

  • 最初から

心の側に「存在」しなければ、その「経験」を、一定の

  • 秩序

あるものとして、心の中に「構成」できないんじゃないのか、っているのがカントの発想だよね。よく考えてみてよ。これって、そんなに変な考え方なのかな...。