掲題の論文は、
ヘンリッヒ他『超越論哲学と分析哲学』
という、1992年に出版された、カント哲学に対する分析哲学からの批判と、それに対する、カント哲学研究者からの「応答」をまとめた論文集に収録されている(言うまでもないが、この出版年とは、日本のこの、翻訳本の方のこと)。つまり、けっこう昔の論文集ではあるのだが、そもそもカント哲学に興味のある
- すべて
の人が読む必要がある、興味深い内容だ。
言うまでもないが、現代の哲学と呼ばれているものは、基本的に全て「分析哲学」だ。つまり、それ以外をやっている人はいない、と言ってよい。その理由は、それ以外とは、つまりは「ある過去の哲学者の論文の研究者」のことを意味しているのであって、それ以上でもそれ以下でもないからだ。
では、なぜ「分析哲学」は特殊なのか、ということになるが、それは、ある意味で、分析哲学は
- 哲学の否定
である、というところに特徴があるからだ。哲学者の言っていることは「間違っている」。それを証明するのが、分析哲学だ。だから、現代の「哲学の否定」という、学問の流行と
- 相性
がいい。しかし、その使命が、そもそも、哲学の否定だというなら、早晩、分析哲学も「滅び」が約束されている、ということになるだろう。実際に、リチャード・ローティが言っていこともそれと変わらなかった。
では、これが実際には、どういうことなのかを以下で説明していこう。
分析哲学が、哲学を「否定」するとき、それは
- 科学の否定を含意しない
のだ。ん? 何を言っているのか分からない、そう思われるのではないだろうか。しかし、分析哲学者は真剣だ。彼らにとって、この二つは
- 分離可能
という立場にたっている、ということになる。では、その場合に、哲学を否定して何が残るのか、ということになるだろう。
この観点からすれば、プラグマティズムと観念論の唯一の違いは、次のような両者の考え方の違いにある。すなわち、図式と内容の区別を排するには形而上学的教説(表象されるべき対象の心的性格、「《主観》と《対象》の合一」を保証する性格)が必要だと観念論者は考えたが、これに対して、必要な論証は実践的なものだけ、つまり、<ひとたび整合性が保証されたなら対応の問題を提起しても意味がない>という論証だけだとプラグマティストは考える。
(リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
つまり、全ては
- 実践だけ
というのが、彼らの主張ということになる。この立場に立つのが、リチャード・ローティのプラグマティズムだ。
ん? と思ったのではないか。そう。この「実践」という言葉は、そもそも
- カント
の言葉だったのではないか?
ある認識主張ないし規範的主張が、保証されたすべての信念とそれらが基づく諸原理とからなる文脈の中で、有意味な立場を占めているということが示せるなら、正当化を行ったことになる。カントの定言命法の正当化は、このようにして組み立てられている。カントの論証の構造を確定しようとするとき、われわれは常に、彼の実践哲学を念頭に置くべきである。
ヘンリッヒは、そもそもカントが「実践的哲学者」として、
であることを強調する。ところが、なぜかローティは、自らがプラグマティストだと主張するときに、
- カント哲学とは違う「新しい」立場
として、プラグマティズムを設定するわけだが、おそらく、ほとんどの人には、この「意味」が分からないだろうw というか、誰にも分かりようがないがw
というか、である。
以下のように(別の論文でではあるが)、ローティはカントが「理論哲学に対する実践哲学の優位」を主張していたことを認めているわけであるw
もちろん、厳密にいえば、カントは道徳的信念に道を譲るために知識を否定した。しかし、共通の道徳的良心を通じて下された非認知的命令が「理性の事実」----人間であるとは、合理的な行為主体であるとは、時間空間上の限定の束という以上の何ものかであるとはどういうことかについての事実----の存在を示すという保証がないならば、超越論的道徳哲学とはいったい何なんだろう。カントは超越論的知識がいかにして知識となりうるかを説明することはできなかったが、そのような知識の存在を主張するのを断念することもできなかった。
(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
もはや、ローティが何を言っているのかが、私には分からない(この奇妙な「傾向」って、スティーブン・ピンカーが『人間の本性を考える』で、ジョン・ロックの「ブランクスレート」を批判するレトリックと、まったく同じだw そもそもロックの『人間知性論』では、「全てはブランクスレートだ」なんて主張していないのに、ロックがそう言っていると攻撃しておいて、なぜか突然、『人間の本性を考える』を読んでいると、「ロックは「全てはブランクスレートだ」と主張していなかった」ということを、今さらのように、「告白」を始める。しかも、同じ本の中でw。つまり、何がしたかったの?)。
私がなぜローティを認めていないのかというと、ようするに、ローティはカントを読んでいないからだ。ローティのカント批判のレトリックは、
という展開になっている「だけ」で、それは、プラトン批判やデカルト批判としては検討に値しても、カント批判としては無意味なわけでしょうw カントが、なんらかの形で、哲学の
- 伝統
としての「合理主義」を意識しているのは間違いないとして、しかし、それをどのように扱ったのかは、まったく、カント個人に属させなければならないはずなのだ。
例えば、ローティの最も典型的な議論が以下だ。
すでに述べたように、ローティはその後、超越論的論証全般が支持されえないという立場をとった。『哲学と自然の鏡』というローティの包括的な著作は、「完全に失われてしまった世界」という論文で予告された著作であるが、彼はそこで次のような見解をとっている。超越論哲学は認識論一般がそうであるように、鏡を比喩に使って人間の主観を解釈している。しかし自己意識を伴わない存在者でも、この自己意識という奇跡的な付属品を伴った存在者と同じ働きをする、という想定を証明するような「謎解き」の問題が構成されるゆえに、そのような鏡の比喩は放棄されねばならないと考えたのである。
(クラウス・ハルトマン「超越論的議論」)
ローティがずっと頭の中で思考実験をしているのは、
- 言語理論
である。つまり、いわゆる「言語論的転回」と呼ばれている、
- 全てを「言語」で表現される現象
という解釈に関係した立場である。つまり、「あらゆる」人間に関する現象は「必ず」
- 言語で表現される
のだから、この「言語で表現されたもの<全体>」を
- 調べれば
人間の「真実」が分かる、という立場である。しかし、もしもそうだとすると、そもそも記号論理学や、ゲーデルの不完全性定理を始めとして、最初から
- 言語には、一定の「限界」がある
ということが分かっているのだから、そもそもそれと整合性のない主張は否定される、ということになる。
(上記の引用が言っているのは、ようするに、AIでありロボットだって人間と「会話」ができるんだったら、人間にはあるとされている「自己意識」って、いらない
- なくても会話が「存在」する
ということになるよね。だったら、そんな「認識論」なんて「無意味」だ、っているレトリック。つまり、ここで焦点があてられているのは、あくまでも「言葉」の「存在」だけであって、その全体論だけが「全て」なんだ、という立場となる。)
これはどこか、ヘーゲル哲学に似てくるわけである。一切の人間の事象は「言語」を分析すればいい。どうせ、あらゆることは言語で記述されるのだから、この言語され分析していれば、この
- 世界
のことは分かる。いや。分からないとしても、「きっといつかは分かる」。なぜなら、いつか分かったなら、必ず、それは「言語」で記述されるから。ここから、ヘーゲルの
- 絶対知
という立場が生まれる。この世界の「究極的」な無限遠点において、この「知識」は
- 完成
する。だとするなら、私たちは、その「無限遠点」を、どうやって
- 推測
するのか「だけ」を考えればいい、ということになる。その無限遠点は、どういった形になっているのか? これを、どうやって、現代の私たちが「推測」するのか。学問の全ては「これ」だけ、ということになる。この立場においては、現代の知識が「間違っている」と言われることには、なんの興味もない。なぜなら、間違っているのは「当たり前」だからだ(なぜなら、今は「無限遠点」ではないからw)。つまり、そもそも
- 学問の目的
が、なんなのかが分からなくなるのだ。なぜ学問は行われているのだろうか? ヘーゲルにとって、学問とは
- 無限遠点の知識
のことであって、「今の知識」のことではない。彼にとっては、今間違っていることを言うことに、なんの苦しみもない。全ては「無限遠点」のために、どうやって今を
- 犠牲
にするのか、にしか興味がない。
ローティはなんと言ったか? 全ての「形式化」に
- 反対
したのだw その代わり、彼が賞賛したのが
- 詩(し)
である。
ここでいう「共感」とは、アテナイの人々がアイスキュロスの作品『ペルシャの人々』をみた後により多く示すようになった反応、またはアメリカの白人たちが『アンクル・トムの小屋』を読んだ後に以前よりももっと示すようになった反応、またはボスニアでの集団殺害をテレビ番組で見た後に私たちがもっと持つようになる感情のことです。
(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
ローティは本気で言っているのである。ローティは「あらゆる」理論的、かつ、形式的なものに「欺瞞」を見出す。そして、そういったものを「きどっていない」
- (文学であり、)物語
こそが、この「世界」を「先導」し「導く」と考える。つまり、ローティの言う詩は、ただの詩ではなく、
- エリートによる詩
を意味する。つまり、ここに「哲学者」の役割がある、と言う。哲学者は、上記の議論から、もはや、一切の理論的な仕事に取り組むことを放棄しなければならない。この、
- アイロニカル
な状況において、むしろ、ニーチェ的な意味で、アイロニカルだからこそ、
- あえて
「哲学者」を演じる、ことになるw つまり、ここにおいて、その哲学者が語る内容は、すでにその主張が「欺瞞」であることは、当然のこととして「前提」とした上で、
- そうでありながらも、あえて
この世界に語りかける。その一閃の「暗闇の中の跳躍」に人類の未来を賭ける、という構造になる。しかし、この「重責」を担えるのは、市井の市民ではないw 一般大衆は、この「アイロニー」を理解していないがゆえに、この重責を担う能力に欠けている。つまり、これを唯一実行できるのが
- 哲学者(=つまりは、芸術家)
ということになり、むしろ、芸術家が
- 適当
なことを言えば言うほど「(この世界にとって)良い」、というわけであるw
しかし、である。ここでたちどまって、実際に、ローティがどう言うことによって、哲学を批判しているのかを振り返ってみよう。
プラトンは人々にもっとお互いへの思いやりを持たせるためには、人間が共有しているもの、すなわち理性について指摘すればよいと考えました。
(リチャード・ローティ「人権、理性、感情」)
人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ
道徳哲学は、人間がどう行動すべきかを分析してきました。しかし、それをいくら「彼ら」、非道徳的に行動している人に話しても、彼らの行動は変わりません。それは、その道徳哲学に彼ら非道徳主義者が「納得」しないから、というよりも、なぜその「学問」に自分が従わないといけないのかに納得しないから、と言う方が正しいでしょう。ところが、ローティは、そう考えません。それは、
- プラトンであり、カントが「間違った」からだ
と解釈します。つまり、道徳哲学は「非倫理的」であり、本来はそうでない
- 別の方法
を行わなければならなかった、と主張します。
しかし、です。
それは、プラトンであり、カントの「問題」なのでしょうか?
ローティは(分析哲学者の間で容認されているスタイルのイメージとは反対に)、<歴史と文明の哲学>を目指している。私はこのやり方を賞賛する。
つまり、掲題のヘンリッヒは、そもそも、ローティが言っている「文学」を大切にしようとか、歴史的文脈を大切にしようとか、各論には
- 全て
賛成なのだw そうではなく、そういったことをローティが言うときに持ち出される、
- 懐疑論的なレトリック
が、(つまり反カント主義的な論陣が)いや、お前、そんなことを言ってるけど、それが
- 本当
には何を言っているのか、分かってないだろ? っていう立場なわけである。
当たり前だけれど、カントを否定するには、相当にカントを読み込まなければならない。カントが、どういった、当時の文脈の中で、こういったことを言ったのか? それを言うことによって、どういった効果を、彼自身が期待していたのか? こういったことを無視して、カントを
- 非歴史的
に読むことによって、カントを「嗤う」ことは簡単なのだ。そうではなく、そもそも
- カントの「関心」はどこにあったのか?
- カントは、どういった反論には、「どうでもいい」と気にしていなかったのか?
- カントは、どういった反論には、それを恐れ、警戒して、理論武装したのか?
- なぜ、カントの行動には、こういった傾向性があったのか?
こういったことを理解しないで、カントを「非歴史的」に軽視することは、逆に、今度は、そう言っている人自身が、実際には、「カントが言っている前提を、無意識に使っている」という事態になっていることに気付かない、という醜態をさらすことになる...。
ほとんどの超越論的論証は、反懐疑論的・反還元主義的であり、<懐疑論者が唯一正統な選択肢として提出する還元された[切り詰められた]世界は本物の選択肢ではない>と主張する。それらは、ヒュームを論駁するためにカントが持ち出した論証を、範型としている。文化の他のすべての領域を批判する哲学的批判なるものが存在すること----文化のさまざまな部分にその資格があるとされている客観性や合理性の主張について、哲学者は科学が言えない何かを言うことができるということ----こうしたことをカントとともに主張したいと思っている哲学者は、右に述べたような論証によって勇気づけられる。
(リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
ここで「反還元主義的」と言われていることに、まず注意しよう。この言葉が分析哲学で使われるときは、一般には、論理実証主義を批判するとき、だと考えてよい。つまり、すべての言葉は、公理主義的記号論理学に
- 還元できる
という立場である。しかし、この言葉は、もっと敷衍して、「物理学」の文脈で使われることの方が普通だ。この世界の「一切」の事象は、物理学の法則に従っている。だとするなら、私たち生物の日常の一切の事象は
- 量子物理学
の法則に
- 還元できる
ということになる。つまり、この人間社会の全ての事象は量子力学によって
- 予言できるはず
ということになるだろう。ところが、この主張は、その量子力学の理論
- 自体
によって、すでに否定されている(なぜなら、量子力学は、その理論の中に「確率論」がビルドインされているから)。
つまり、そもそもの、物理学者であり、自然科学者が、そういった「還元主義」を「否定」しているのにも関わらず、今だに、後から、後から、いわゆる
- 文系
哲学者によって、この「還元主義」が復活されては、世の中を混乱させている(上記のヘーゲル主義的な絶対知も、この系列にあることが分かるだろう。この世界の基礎の法則そのものに「確率」があるのに、なぜ「無限遠点」の「実体」が「予言」できるのかw)
ローティは、上記から分かるように、なぜカントが駄目なのかの議論に、それが
- 超越論的
な構造になっている、という直観がある。つまり、そこには「物理学的基盤がない」と。その基礎から説明できないのであれば、そもそも、その「モデル」は
- 偽物
だ。つまり、哲学は「偽物」だ。
ローティが言いたいのは、ようするに「でっちあげ」だ、ということなのだ。「でっちあげ」が正しいわけがない。そんな空想のものを、どうやったって正当化できるわけがない。だったら、自分のように「全ては文学だ」と言った方が(アイロニカルに)未来の学問の姿勢として、圧倒的に正しい(誠実)というわけである。
つまり、だ。ローティが、何をイメージしているのか。なんだったら、彼はそれを「認めてもいい」と考えているのか。それを整理すると、
カント的論証の基本的特徴は提出された懐疑論的対案の整合性に対する自己関係的攻撃にある、とブープナーは主張しているが、この点では私は彼に賛成する。しかし、それらの論証の結論が必然性と非経験的性格とを有しているという点については、異を唱えることになるであろう。
(リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
お分かりだろうか。ローティは、
- 経験論者
なのだ。つまり、ローティは「ヒューム主義者」なのだ。ローティは、カントの言う
- アプリオリ
- 超越論的
を「認めない」。実は、ローティが言おうとしていることは、唯一、これ「だけ」だったのだ!
ローティは、「科学」だけが、唯一認められる、「学問」であり「知識」だ、と言いたいのだ。つまり、実のところ、ローティが言っていることは、昔ながらの、
を完全に「反復しているだけ」だった、という、「どっちらけ」の結末だった、わけである。
なーんだ。だったら、最初から、そう言ってくれればいいのにorz
さて。この辺りで、掲題のヘンリッヒについて言及しておこう。この人は、ドイツのカント研究者として、戦後の積極的に発言した人であり、日本でも何冊か、その本が翻訳されている。ただ、よく分からないが、彼の主著の一つである『同一性と客観性』は、翻訳されていないのではないか。ただ、このカント論の内容については、実は、前回紹介した、湯浅正彦先生の『存在と自我』の第二部で、詳細に検討されている。
要するに、革新的な哲学理論の創始者は、しばしば、問題となる「事象の連関」をはじめから完全に見抜き明瞭にはできないことから、議論を制御できなくなり、ためにそうした理論を盛った革新的なテクストには、さまざまな理論的欠陥がまつわりつくというのである。
(湯浅正彦『存在と自我』)
存在と自我―カント超越論的哲学からのメッセージ
ヘンリッヒのカント解釈の実際を考慮するなら、解釈の作業とは、譬えるならば次のようなものだと言えようか。----或る文豪が雄大な小説の構想をあたため、下書きにあたる草稿群を綴った段階で世を去ってしまう。後から作家がそうした草稿のそれぞれを吟味し、場合によってはさらに補足したり展開して、そのうちのいずれが、またそれらのいかなる配合が、あの文豪の意図に最も副うものかを見定め、その意図が完全に実現されるように仕上げる。無論その際、草稿のうちの或るものは、その目標に適合しないがゆえに、捨て去られることもあろう。またこの場合実現されるべき意図なるものは、あの文豪の自己表明によって直ちに近づきうるとはかぎらず、草稿群の吟味の作業の過程で自ずと浮かび出てくる場合もあるであろう。テクストを構成する者が、自己の意図をいつでも完全に把握し明瞭に表現しうるとはかぎらないであろうから。
(湯浅正彦『存在と自我』)
存在と自我―カント超越論的哲学からのメッセージ
まあ、誰がどう考えたって、ローティがカントを「こう」読んでないよねw まあ、世の中の、反カント哲学なんて、こんな程度の
- レベル
のもので、そういったものを読んで、俺はカントを理解したとか、馬鹿にしたことを言っている連中は、死ぬまで、その程度の頭の悪さに終わる、ってことなんだよね。
(まあ、上記の引用の個所は、つまりは、ヘンリッヒが、そういったように、カントが『純粋理性批判』の「超越論的演繹」で行った議論を解釈する場合の姿勢として、まず、前提として語ったところなわけだけれど、まあ、それだけ、カントのこの個所は、有名な
- 悪文
だ、ということでもあるんだけれどねw)
目下のところ、私にとって明らかだと思われるのは、<カントのプログラムは、概念と世界、図式と内容の区別を、ローティが攻撃しているような形で単純に前提しているわけではない>ということである。しかも私には、われわれの認識や論議とそれらの対象との区別をローティ氏が否定したがっているとは思えないのである。
ローティの、徹底した、「反原理主義」「反哲学」「歴史主義」は、一切の
- 枠組み
を認めない。...と、本人は「言っている」らしい。しかし、それは本当か? ローティは、「概念」「世界」「図式」「内容」を
- 否定したがっている?
どのへんが?
超越論的推論の問題と、競合する概念的枠組の可能性との不幸な結びつきを確立したのはストローソンであった(ローティはこの結びつきに依拠している)。しかし、概念的枠組の方を廃棄しても、超越論主義を消失させることにはならない。
まあ、「懐疑論」だよねw カントは、ある「概念枠」を使った。でも、それは駄目である。なぜなら、その「概念枠」と、別の「概念枠」との
- 優位性
を「決定」できないから(まあ、いろいろな言語があるしね)。だから、ローティは、カントは「間違っている」と言う。しかし、どうもカント自身は、そんなことを気にしてないみたいねw なんでだろw
カントは特定の概念図式が究極的なものではないとわかる可能性にはあまり関心を寄せず、いかなる認識主張も----その競争上の地位にかかわらず----まったく正当化されえないという可能性に関心を寄せた。このことは、右に述べた理由からして、哲学的に正しかった。真の懐疑論者がカントに与えた衝撃、したがってカントの恐れの源泉は、枠組の(したがってまた理論の)相対性、恣意性ではない。むしろそれは、われわれが認識と思っているものの無根拠性であった。
つまり、カントはもっと別の「反論」こそが、怖かったわけだよね。つまり、そっちこそが、彼が自分の哲学体系にとっての「強敵」だと考えていた。だとしたら、なんでローティは、カントによって「強敵」として扱われないんだろうねw
しかし、私には理解できないことがある。枠組を放棄することによって智恵へと向かった哲学者が、それでもなお哲学者として文化に貢献するということを、ローティはどのようにして言うことができるのであろうか。
だとすると、哲学者の寄与は、ヴィトゲンシュタイン流の治療というものになるのであろうか。それとも、哲学は幸いにも《文学》や《芸術》へ、もっと具体的に言えば、《生き方》や《愛し方》へと解消してしまうのであろうか。
まあ、こういうことになるよね。つまり、ローティは、なんか
- 世の中にとって「大事そう」に聞こえることに「うるさく」吠えているだけの、「哲学おじさん」になり下がってしまった
ということなんだよね。まあ、それも一つの人生なのかもね(他人には、どんなに迷惑な存在であったとしても...)。