アプリオリ(≒超越論的)概念は早晩、滅びるのか?

前回は、リチャード・ローティのカント批判論文に対する、カント研究者による批判的な吟味が行われた論文を紹介したわけであるが、そこで、あまり議論の中心にしなかったことがある。それは、まあ、掲題からお分かりではあろると思うが、カント哲学の中心概念である

の問題である。ようするに、ローティは「アプリオリ」「超越論的」を認めていないのだ。なぜか? それは前回も書いたように、彼が

  • 経験論者(より厳密には、ヒューム主義者)

だから、ということになる。つまり、ローティは

  • 科学における「実証」(=つまり、実験)

は、それが(バートランド・ラッセルが言ったように)「感覚与件」であるという意味で、これを徹底的に「肯定」するわけであるが、その一切の「分節化」を、

  • 原理

として認めない。つまり、これがなぜローティがカントを認められないのかを意味しているわけで、つまりは、ローティは(分析哲学クワインを徹底して踏襲しているという意味で)、徹底した

だ、ということになる。ローティにとって、一切の「感覚与件」の「分節化」は、その時点で「欺瞞」である。なぜなら、なぜそのような「分節化」が

  • 唯一正しい

のかを、どのような理論も(原理的に)説明できないからだ。そうである限り、ローティは「そこ」に留まるしかない。それ以外の選択肢が(経験論には与えられて)ない、という意味で。

ローティは長年、新たなプラグマティズムを目指してきた。しかし、私見によれば、<堅実なプラグマティズムなら、プラグマティズムの原理に基づく論理哲学を取り込めなければならない>ということを、われわれはクワインから学ばなければならなかった。しかも、プラグマティズムの論理哲学は、強いアプリオリ性に反対しなければならない。<ある意味では、論理は文脈依存的である>というのが、クワインの不確定性テーゼの本当の核心である。
(ディーター・ヘンリッヒ「挑戦者か競争者か」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

プラグマティズムは、

  • 全ては「文脈依存」である

という立場である。つまり、一切の主張はこの「文脈」と独立には語れない、という意味で、そもそもの最初から、手足を奪われている。
カントの超越論的論証は、カント独特の定義であるが、それを分析哲学の文脈では、以下の形で、より「広義の概念」として解釈される。

そうすると、ここでわれわれは、複雑な連関に直面していることになる。すなわち、実在に関する諸言明がそれとして可能であるためには、ある関係が前提されなければならないが、同時にこの関係は、論理分析をはじめて可能ならしめるようなある前提を表わしている。有意味な言明の論理的前提についての解明が、解明の能力、その限界と可能性をも明らかにするのである。言語の論理的前提との関係において、分析はそれ自身に関係する。超越論的という概念を用いるようヴィトゲンシュタインを誘ったのは、この複雑な形式的構造にほかならない。われわれはこの本質的構造要因を表示するのに、とりあえずこれを自己関係的と呼ぶことにしよう。
(リューディガー・ブープナー「カント・超越論的論証・演繹の問題」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

まあ、少し分かりにくい定義であるが、ようするに、公理的数学における

  • 無定義用語

のように、もはや

  • それ以上には遡れない

ような、つまり、「それ」そのものが、

  • この理論が、どういった特徴(=限界)をもっているか

を示す、といった関係にある。それは、カントにおける「超越論的自我=我想う」が、カント哲学における、

  • 一切の(もはやそれ以上には遡れない)認識活動の源泉

のような形になっているように、その理論が、そもそも「何に依存しているのか」という、

  • からくり

を暴露する関係になっている。
よく、子供がお母さんに絵本を読んでもらっているときに、「なんで」と質問する。普通はそれで終わるのだが、お母さんの説明を何度行っても、その度に「なんで」「なんで」と質問を返していったとき、どこかの段階で、お母さんは困惑してしまう。つまり、必ずどこかで、

  • これ以上は遡れない

なにかにぶつかることになる。それが、私たちの日常において、あまりにも「自明」な基底にあるものとして、普通は疑われないものとして、会話において働いているキー概念となっていることを意味する。
しかし、これは「全ての(モデル)理論」は、これが避けられない。懐疑論者は「これ」を見つけだすことが、彼らの第一の戦略だ、ということになる。
ローティは、カントの「超越論的」の概念を、上記の「自己関係的」の概念とニアリーイコールのものと解釈した上で、基本的には、

の、どちらも「認めない」という立場に立ちながら、他方において、以下の意味において

  • デイヴィッドソン

の「超越論的」な議論を、

  • 逆説的

に認め、これこそを彼の「ポストモダン哲学=プラグマティズム」のアイデアとして、中心的に置く。

デイヴィッドソンのその論証そのものは、ヒュームを非とするカントの論証や「形而上学実在論」を非とするパットナムの論証と同一の、「超越論的」戦略を例示している。本節ではこれを示すことが試みられる。戦略上のこの類似性は、デイヴィッドソンの論証を超越論的立場の一例と見るに十分なものと思われるが、それにもかかわらず、彼の論証の目的は、懐疑論や反懐疑論的超越論的立場を可能にするデカルト的・カント的弁論の全体を、不可能にすることにある。(デイヴィッドソンには悪いが)私は「概念図式」という観念や、「図式と内容の区別」に反対する彼の論証を、プラグマティズムを擁護する論証として、したがって、認識論の可能性を否定する論証として、解釈する。言い換えれば、私の見るところでは、デイヴィッドソンはあらゆる超越論的論証を終わらせるような超越論的論証----すなわち、「実在論的」な超越論的論証の標準的範型が乗っていた足場を取り壊すような超越論的論証----を、見出したのである。
リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)

ローティは、デイヴィッドソンが「自ら」超越論主義者だと言っているのに、それを

  • 自らを「超越論主義者」として振る舞うことによって、逆に、一切の「超越論哲学」の「不可能性」を証明した

と解釈することによって、

  • 逆説的に(=アイロニカルに)

ローティは

  • 自分はデイヴィッドソンの仕事を、プラグマティストとして解釈する

と強弁する。
うーん。正直、何を言ってるのか分からないのだがw、まあ、柄谷行人による、ゲーデル不完全性定理の解釈に似たような議論を行っていることが分かるだろう。一切の議論は、その徹底によって、

  • 必ず

内部から「破綻」する。それに対して、東浩紀先生は『存在論的、郵便的』で、

  • だったら、一切の理論は「意味がない」

つまり、

  • 理論(=数学)なんて、勉強したって「意味がない」

つまり、

  • この世界の「本質」は、「身体論」なんだ

という

  • 悟り

のことを「哲学」なんだ、と主張したわけである。ところが、柄谷行人は『内省と遡行』において、

  • それは、あくまで「理論の徹底」が「ある」から、見出されることに過ぎなくて、つまり、理論の「実践」には、それそのものの「意味がある」

という立場を示したわけであるが、東先生は、そういった側面の柄谷を「無視」したわけであるw

プラグマティズムの哲学は、論理学や算術をどの程度まで取り込めると考えられるか。これは未決の問題である。論理そのものという概念自体を意味あらしめるためには、何らかの原理が不可欠と思われる-----ある形の無矛盾原理とか、それと同様に今日では、後者関数のようなものとかがそれである。
(ディーター・ヘンリッヒ「挑戦者か競争者か」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

まあ、この辺りから、アプリオリとか超越論的のカント的な問題を考えていこう。カントがなぜ、こういった概念を使ったのか。それは、なぜロックやヒュームのような

  • 経験論

に満足できなかったのか、に関係する。それは、ニュートンから始まる、近代科学と、アリストテレスから続く、伝統哲学が議論してきた、形而上学との関係を、どちらかを廃棄するのではない形で両立させようとした、と言うこともできる。
上記の引用で、ヘンリッヒは、

  • そもそも、一切の「文脈依存性」を標榜するプラグマティズムが、どうやって「数学」を行えるのか?

は未解決の問題なんじゃないか、と挑発しているわけだが、このことの意味は、そもそも、私たち人間が「日常」において、当たり前に行っている

  • 数的一

の概念を、なぜ「分かる」のか、といったようなものを、本当に「経験論=ブランクスレート」だけで説明できるのか、という問いとなっているわけであろう。

算術的計算の場合をとれば、その様々な形とは例えば条痕といったようなものの連続のことである(その際、数の符号を表す形象の等しさは、次の二つのさらなる規則、すなわち ⇒ |=|と m=n ⇒ m|=n| という規則によって保障される)。ここで決定的なことは、カントによれば数の「概念」に対応しているのは、形象ではなくて「直観における」制作の手続きであるということである。そして提示のこの図式的手続きが、それによって概念を直観において産出するための制約が示されている限りで、「超越論的な」手続きなのである。
(ユルゲン・ミッテルシュトラース「「超越論的」について」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

何か或るものを数的一(したがって、数えられるもの、または演算記号ないし基本図形)として同定しうる人間知性のこうした能力は、確かに歴史的にはいつかあるとき初めて実現されたのであろうが、しかしそうだからといって、それが経験的な素質ないし能力として説明されうるわけではない。むしろ、何か経験的なものを数的に-同一なものとして認識できるためには、非−経験的な能力が前提されている。その「行為構造」は、生活世界から抽出しうるものでもないし、また同様に、人間知性の発展史の中で解明されたり経験的に導入さたりしうるものでもない。むしろ、それが見出される場は、カントに従うならば、超越論的統覚という場であろう----それはなるほど非−経験的な能力ではあるが、しかし決して隠された性質といった形而上学的な能力ではない。
(ユルゲン・ミッテルシュトラース「「超越論的」について」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

ミッテルシュトラースの「生活世界のアプリオリ」に関して、私が最も困難に感じるのは、まさにそれがアプリオリ性と認識とのこうした批判的結合を解消してしまうからである。ミッテルシュトラースがスケッチしている「生活世界のアプリオリ」は、彼自身も述べているように、ただ単に「前-理論的」とか「前-学問的」であるわけではない。それは、本質的に「前-概念的」なのである。「区別と方向づけ」に熟達することは、人間の「生活世界」に必要であると同様にネズミやハトの「生活世界」にも必要である。こうした様々な動物の生活様式は、首尾一貫して空間を移動したり、区別[識別]しつつ行動するという能力を同様に前提している(食べられるものかそうでないのかということに関してだけであるとはいえ)。
(ユルゲン・ミッテルシュトラース「「超越論的」について」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

うーん。つまり、さ。私たちはヒューム主義者のように、

  • 経験ではない知識

というものの可能性を考えることはタブーなのだろうか? カントのアプローチは、これを「積極的」に認めるなら、どんな哲学が構想できるか、を

  • 徹底

して行った、というところに特徴があるわけであろう。人間の赤ん坊が、産まれるやいなや、水の中に投げると、勝手に泳ぎ始めるように、私たち人間には、産まれる前から、なんらかの「知」が、すでに私たちには与えられているんじゃないのか、または、そう考える方が自然な対象もあるんじゃないのか、といった(解釈の)立場がありうるんじゃないのか、というわけであろう。その場合、それを生物としての条件として語るのか、認識論の前提として語るのかの差はあるとしても、その姿勢の違いに本質的な意味があるわけではない。
なんで私たちは、産まれたときから、回りの環境から、なんらかの

  • 数的一

の概念を、あまりにも「自然」に解釈して生きることができているのか、ということは、そもそも、回りの動物たちだって、それができているわけで、それができなければ、そもそも進化論的に、生き残ってこれたわけがないわけで、そういったものを、果して、私たちは

  • 経験

によって学んだのか、生得的にもっているのか、と問うこと自体に、あまり大きな意味がない。そういった延長に、カントのアプリオリとか超越論的といった概念の位置があるわけで、かなり根本的、かつ、原始的な、人間の

  • 能力そのもの

を問うている、という意味で、通常の自然科学以上の根底的な問いとなっている側面が、ここにある、というのが分かるであろう。
さて。他方において、掲題のタイトルとさせてもらったように、こういったアイデアが果して、どこまで未来において残りうるのか、はそんなに自明ではないわけであろう。
というのは、カント自身が『純粋理性批判』において、この問題に言及しているわけである。

この論点にきわめて敏感なセラーズが言い表すように、「考える存在者が「責任を担うことができない」ようなものかもしれないという可能性を、カントは開いたままにしている。いいかえれば、それは精神的または思考的な自動人形(automaton spirituale or cogitans)、思考する機械仕掛けなのかもしれない」。セラーズによれば、われわれはみずからをそのような思考する機械仕掛けより優れたなにかだと意識しているとカントは確信しているが、しかしまたこの「より優れた」ということがたんなる幻想、「頭脳が紡ぐ幻」かもしれないという可能性をカントは懸念してもいる。セラーズの見解は誤謬推理論におけるカントの合理的心理学批判についてのものであるが、弁証論における行為者性論にも容易に適用しうる。
セラーズの見解はまた同じく、規準章にも適用しうるように思われる。すなわち、規準章におけるカントの当惑せざるをえない示唆によれば、われわれに知られうるところをまったく裏切って、「感性的な衝動にかんしては自由と称されるものが、より高く、より遠く離れた作用因にかんしてはふたたび自然になるかもしれない」(A803/B831)。
(アリソン『カントの自由論』)
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

カント哲学が「自由」の哲学と呼ばれるように、その実践哲学は、その「自由」概念を根底として構成されているわけだが、他方において、カントは、はるか未来の先において、この自由の

  • 自然科学的な解明

が訪れる可能性を無視しない。それは、「人間の自己意識」の、自然科学的な解明が、はるか未来には訪れるかもしれない、といった認識と不可分なわけで、つまりは、はるか未来においれは、このカントの超越論的哲学の

  • 役目を終える段階

が来る可能性を否定しないわけである。
しかし、そもそも、リチャード・ローティは、カントが非経験的、非歴史的な超越論的概念といったような

  • 傲慢

な議論をしたからダメだ、と言っていたのではなかったか。ところが、カント自身が、自らの超越論哲学が歴史的使命を終える可能性について言及していた、と言っている。ようするに、ローティは、『純粋理性批判』でさえ、まともに読んでいない。読んでいないで、ずっと、死ぬまで、適当なことを言い続けた。なんで、こんな奴の言っていることを、真面目に扱わなければならないんだろうね、っていうのが、私の昔からの疑問なんだが...。

追記:
上記の議論から考えると、なんだ、リチャード・ローティなんて、なんの意味もなかったんだな、と思うかもしれないけれど、まあ、彼というか、彼にインスパイアされた、という形で、後続に大きな影響を与えている、という意味での評価ができるのではないだろうか。

それだから、構造概念として解される「主体」概念は、そもそものはじめから間主観性を意味している。というのは、ある発話状況における言語の使用は、能力を具えた発話者のほかに、さらに能力を具えた聞き手、すなわち応答できる聞き手をも前提しているからである。「主体」は理想的言語そのものである。あるいはハーバーマスに従って言えば、発話状況ということになろう。しかもそれは、その発話状況が成立するための一切の制約が与えられている場合のことだから、「理想的発話状況」ということになる。あるいはアーペルがG・H・ミードに従って言っているように、「理想的なコミュニケーション共同体」である。アーペルはこの理想的なコミュニケーション共同体を、はっきりと超越論的主観とよんでいる。
(ヘルマン・クリングス「経験とアプリオリ」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

ハーバーマスの「共同体理論」は、ある意味で、ローティの懐疑論的批判を、真摯に受けとめた結果だった、と考えられるだろう。ハーバーマスであり、その示唆を受けての、アーペルによる、

  • 超越論的語用論

は、上記の引用が最も象徴的であろう。カントの「超越論的主観」は、デカルトの延長として、徹底した、独我論的な徹底であったわけだが、考えてみれば、私たちがなにかを「正しい」とか、「妥当」だと考えているときは、そもそも、その人の

で「閉じて」いない。つまり、なんでそれを「正しい」とか「妥当」だと思うかは、

  • 相手が「正しい」とか「妥当」と認めた

といった、事実的な「行為」がある、と考えられる。つまり、こういった

  • 二人称的な解釈

から考えるなら、そもそも私たちの「主観」というものであっても、それを「共同体的」なものとして解釈することも、一つの

  • より合理的に解釈できる可能性がある

と考えるなら、こういったアプローチには、(カントを、ある意味で「超えた」)可能性がある、と考えることはできるだろう...。