経験論と「合理論」

普段、私たちは当たり前のように「日常」を生きていて、回りの人と、いろいろなことを話しながら生きている。そうした場合、まさか、そういった一連の(言語行為を含んだ、さまざまな)行為が

  • 無意味

だとは思っていない。ところが、経験論、つまり、「科学」によっては、そういった話されていることの「意味」について、その「正当性」が、いつまでたっても「証明」されない。その一番分かりやすい例が

  • 自己意識

である。しまいには、ラディカルな一群の哲学者たちは、

  • 自己意識は「存在」しない

と言い始めている。なぜなら、その存在の証明が、いつまで経ってもできないから、と言うわけである。
ある意味で、こういった一連の「対立」が、経験論と「合理論」の昔ながらの対立の背景にある、と考えられるのではないか。
経験とは、観察のことであり、(言語分析哲学では)「感覚与件」と言うわけだが、つまりは、

  • 経験以外に一切の「知」は「存在」しない

という立場である。このように言うと、一見すると、今の「自然科学」と相性がいいように思えるだろう。しかし、考えてみると、これは

  • 自然科学で「証明」されていないものは、「存在しない」と言っているに等しい

と聞こえるわけである。いや、この立場は、「はるか未来」に自然科学で証明されるものは、「存在する」と言っているんだから、なんの問題もないんだ、と言うわけで、実際に、以下のように

が、こういった論陣をはっているわけであるw

私の見るところでは、適用すべき何らかの「形而上学的独断原理」をもっている場合にのみ、われわれは、自分の自己関係的論証が真実ではなくむしろある論理的構造をあらわにしたと論じることができるであろう。というのも、そのような原理だけが、

  • (A)感覚与件経験はありえない

という結論から

  • (B)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものでなければならない

ということ、あるいは

  • (B’)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものであるかのような経験でなければならない

ということさえ引き出せることができるであろうから。感覚与件経験の存在を不可能にするのは(B)ないし(B')が真であるという事実である----これがわかれば、準備はすべて整ったことになるであろう。しかし、カントが行なったのは、(A)を示し、独断的に(B')へ移り、それから<別の可能性が想像できないような仮象は「経験的実在」と見なされる>という超越論的観念論の一般的原理を用いて(B)へ移ることでしかない。しかし、「演繹」や「論駁」は、(B)の「例外を考えることは原理的に不可能である」ということを示すような論証を、何一つ与えてくれはしない。ブープナーには悪いが、<われわれは原理的に何を考えうるか>ということに制限を課することができるものは、天にも地にも存在しない。せいぜいわれわれになしうるのは、誰も実際に例外を考えついていないということを、示すことだけである。それゆえ、自己関係性を導入しても、「単なる事実的論証」は進展しえないのである。
リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

もしも、「はるか未来に証明される」ことなら、なぜ「それ」を、今の私たちが

  • 推測

できないのだろう? このアイデアが、ヘーゲルの立場であった。つまり、「ある程度」なら、その

  • 未来に「発見」される「事実」

の「可能性」の範囲における

  • 合理的

な行動を、今を生きる私たちはできるんじゃないのか、とヘーゲルは言うわけである。つまり、ここにおいて「理性」は、かなり、

  • 広い

概念として、私たちを「強迫」してくることになる。
つまり、こういった「経験論」の立場は、

  • ラディカル

なのだ。つまり、単純に「危険」なのだ。なぜなら、ある現代の自然科学による「不存在」が「仮説」として主張されたときに、そもそもその

  • はるか未来での、その仮説が覆される可能性

を、どのように「合理的」に、

  • 今の私たちの感覚

で語ることができるのかが分からないからだ。
ある経験論哲学者が、「自己意識は存在しない」と言ったとしよう。つまり、人間は「下等動物と同等の存在である」と言っていることになる。そこから、

  • (カントが言った)人間の尊厳は間違っているのではないか?=人間を、もっと、「社会の都合によって」殺してもいいんではないか?

という議論が始まったとしよう。そして、これに実際に近い議論をしているのが、戸田山先生だ。

例えば、『自由意志なしで生きる』の著者ダーク・ペレブームは、自由意志の概念を消去して、その帰結として道徳的責任概念をなしで済まそうとする(Pereboom、2001)。一方、『反道徳的責任論』のブルース・ウォーラーは、自由意志概念と道徳的責任概念のつながりを切断した上で、最小限の自由意志は残し、道徳的責任の方は消去するという戦略をとっている(Waller、2011)。しかし、いずれの論者も、基本的な論拠は同じである。つまり、道徳的責任概念(自由意志概念)を支えている人間観・世界観は自然科学的な人間観・世界観と矛盾する、というものだ。
戸田山和久『<概念工学>宣言』)
〈概念工学〉宣言! ―哲学×心理学による知のエンジニアリング―

もしも自動運転の自動車が事故を起こしたとき、それを「運転者」の「責任」にしてしまうと、結局、今の自動車と変わらなくなって、自動運転の車が売れない。だったら、いっそのこと

  • 道徳(=責任)の方を「破壊」しよう!

と言っているのが、戸田山先生だw つまり、この世界から、法律の「罰則」を無くす、わけである。だれもが、どんな「犯罪」を犯しても、その人が罪を問われることはない。なぜなら、

  • 必ず

その人の「過去」を遡って行けば、その人がそういう行動をとったことが「しょうがなかった」と言わずにはいられない

  • 因果関係

が(少なくとも、一つや二つは)「必ず」存在するから、と。
どうだろう? 上記の、リチャード・ローティの議論と非常に似ていることに気付かないか?
現代の自然科学が証明できないことは、もしかしたら、はるか未来の自然科学が証明するかもしれない。しかし、こういった議論は、ここにおける

  • 合理性

の概念を通して見たとき、アイロニカルな態度になる。もしかしたら、はるか未来の自然科学が証明するかもしれない、と言ったとき、そこには二種類あるわけである:

  • 「本当に」そうかもしれない、と今の私たちでも「合理的」に、そう思えること。
  • いや、どう考えても、そんなことがあるはずがない。それくらい「合理的」に考えれば、いくらでも証明できるはずだ...。

前者についてはいいだろう。問題は「後者」だw ここで私たちは、何が「合理的」なのかの話をしていたはずだ。だとするなら、なぜ後者について、「譲らなければならない」と思えるのだろうか? 今の自然科学で、どう考えても証明できそうにないと思うなら、

  • 今の社会を「そういう社会」にすべきだ

と考えることは、「合理的」ではないだろうか?
こういて、「経験論」は、ラディカルな

  • 社会変革運動

へと変貌していく。私たちは太古の昔から、「道徳」に従って生きてきた。しかし、その道徳を、経験論=自然科学は

  • 存在しない

と言う。つまり、「間違っている」のだから、(彼らに言わせれば、それに従わせようとする一切の社会制度は)「悪」だ。つまり、一切の

  • 法律

は「悪」だ、ということになる。つまり、どんな法律違反も、それに対応した「懲罰」を

  • してはならない

ということになる。では、全ての政策は、どのように行えばいいのか、という答えが

ということになる。どんな法を守って生きている市民も、どんな法を破る犯罪者も、「等しく」

  • 全員が「幸せ」になる「最大値」を「計算」する

ということになる。
ある人がルールを守らないことは「しょうがない」。なぜなら、その人の過去を遡れば、その人がそのように振る舞わなければならなかった、なんらかの「原因」が発見されるはずだから。だとするなら、どんな罪も、どんな悪も、その人を責められない。
人間には「自由」はない。人間は、ロボットと同じ「自動機械」だ。だから、人間に罪を問うことはできない。
うーん。
こういった(経験論的な)考えを、徹底的に突きつめていった先に、こういった議論があることは分かるだろう。
しかし、である。
だとするなら、カントがやっていたことはなんなのだろう?
それは、一方において

  • そういった「経験論=自然科学」を研究し続ける「場所」を確保する

ことを行いながら、他方において、

  • 今、「合理的」と思われている、この人間にとっての「自明性」に対して、一定の「正当性」を確保する

ということだと言えるだろう。私たち人間が、はるか太古の時代から行ってきたことは、もしもそれに進化論的な説明を行うなら、

  • 「そう」することによって、私たちは「生き残って」きた

ということになるし、

  • 「そう」したから、私たちは「生き残れた」

ということになる。ところが、「経験論=自然科学」は、その一切を

  • 今、その「正当性」を「証明できない」

という理由で、

  • その一切の「慣習」の「破棄」

を要求する。経験論は、ある、今証明できない主張を、たとえ、はるか未来にはそれを合理的に証明できるようになるかもしれなくても、

  • そんな未来まで待てない

わけである。なぜなら、どう考えても

  • 今は、それが「不合理」にしか思えない(=なぜなら、どんなに頑張っても、今はそれを証明できないから)

というわけである。
では、カントはどんな議論をしたのか?

超越論哲学の基本的見解から話をはじめることにする。われわれは世界経験によって手にいれた知を正当化しようとする際に、この知を超えた独断的形而上学の領分にあるような諸原理に立ち戻って、それに依拠することはできない。しかし反対に、単なる経験に固執していては、どんな正当性も得られはしない。つまり一方では、まさに正当性が問われている知よりも高くかつ確実な知といったものを自由に用いることができないし、他方では、問われている知をただ所有しているだけではまだ十分に知とはいえないのである。なぜなら事実的経験には、妥当性や間主観的な信頼性の保証は含まれていないからである。そこで超越論的反省の戦略は、現に手元にある知が正統的な知でもあるということを、「代わるべき別の選択肢のなさ」(Alternativenlosigkeit)[以下では単に<選択肢のなさ>と記す]を証明することによって、はっきりと示すことにある。
<選択肢のなさ>の証明とは結局、選択肢と思われたものがいかなる知をももたらさないという結論に逹するか、あるいはそれがなんら現実的な選択肢を提示しているのではないという結論に逹するかのいずれかである。前者の場合には、選択肢であると主張されたものが知の概念自体を解体してしまうことが示される。カントは「超越論的弁証論」における不可避的な二律背反と誤謬推理の発見で、反証を決定的になしとげたと考えた。後者の場合には、提示された選択肢それ自体が、そもそもそれに代わるべき選択肢となるはずの当の知の諸要素を使用してはじめて、理解されうることが示される。選択肢を理解するのに現にある知の本質的要素を必要とするのであれば、それはもはや真の選択肢とはいえない。この論駁の主要な例は、カントの「原型的知性」という思考実験のなかに見られる。
(リューディガー・ブープナー「超越論的論証の構造としての自己関係性」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

私たちが日常的に行っている、日々の行動。つまり、

  • 日常会話

に、私たちはこれが、当然「意味」があると思っている。ところが、「経験論」は、それが「証明されない」という理由で、どうしてもその

  • 正当化

ができない。しかし、当たり前であるが、私たちは事実、毎日、さまざまな会話をしていて、なんらそういった

  • 不都合

を感じていない。つまり、経験論者が何を言っていようと、それで困っていないのなら、そこには、なんらかの

  • 一定の合理性

がある、と「なぜ」言ってはいけないのか、っていう議論になるよね。

われわれの論議とは独立の、外在的(形而上学的)な意味における世界について、有意味に考えることはできようとできまいと、われわれは以下のことについて思いをめぐらすことができる。対象概念の地位は、この論議の内部ではいかなるものか。われわれはこの概念をどのように使用するか。対象についてのわれわれの論議が正当な認識をもたらすという主張を、われわれはどのようにして理解できるか。
(ディーター・ヘンリッヒ「挑戦者か競争者か」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話

私たちは会話をしている。それによって、お互いの行動は、さまざまに

  • 制限

されている。だとするなら、それによってもたらされる、なんらかの「秩序」が、私たちを今まで「生き残らせてきた」と考えることもできるだろう。そうした場合、そこに

  • 在る

その、「言語的な秩序」を、なぜ「実在しない」と言わなければいけないのだろう?
ある二人が、なんらかの会話をしていたとき、

  • なぜその会話は「成立」しているのか?

という問いに、その会話の「対象」の「実在性」を必要条件とすることは、ありえない。会話が成立して、「それによって」お互いが、なんらかの「制限的行為」を行うことによって、一定の、なんらかの秩序が成立しているなら、その会話には、なんらかの

  • 機能

がある、ということになる。つまり、その会話は、一定の「機能」を果たしている。だとするなら、本当にその会話の

  • 対象

の「実在性」が、それほど問題なのか、は少くとも「実践的」には疑わしい、と言うことはできるだろう。
上記のカントが言っていることは、例えば、この前私が例に挙げた、公理論的数学を考えてもいい。ある「無定義述語」は、そもそも、それ以上を遡れない。だったら、それを使っては駄目なのだろうか?
例えば、現在の数学のほとんどを展開することができる、公理的数学のZFCは、そもそもその「無矛盾性」が証明されていない。そしてそれは、例えば、ゲーデル不完全性定理を考えれば、普通に考えれば難しそうに思われる。しかし、

  • はるか未来

においては、もしかしたら、なんらかの証明が発見されるかもしれない、という可能性までを除去しているわけではない。
(例えは、選択公理の独立性の証明は、「もしもZFが無矛盾ならば」それに選択公理を加えても、選択公理の否定を加えても、無矛盾、という形の証明になっている、というわけ。)
つまり、もっと極論を言えば、カントは

  • 文系

に一定の「合理性」を認めるための「場所」を確保した、と言うこともできるだろう。そういったものの「合理性」が、どういった「カラクリ」なのかは、まさにここで言う

  • はるか未来

にならないと分からないのかもしれないが、少なくとも、どう考えても、私たちが日常的に「会話」をしていることには、一定の合理性であり「意味」があると私たちは信じて疑っていないわけで、

  • 合理論

とは、こういった「直観的」な私たちの「常識」を、なんとかして

  • 経験論(=自然科学)

から守ろうとして、過去から連綿と受け継がれてきた立場である、と考えると自然に受けとられるようになるのかもしれない...。