人文的な世界

よく時代劇で、水戸黄門にしてもその他にしてもそうだけれど、勧善懲悪な、悪巧みをして、民衆を苦しめる悪人を、「お上」が成敗して助ける、といった作品が何度も繰り返し作られた。そして、こういった日本人の性質の傾向として、自己責任で、民主主義に自らコミットメントをする、自律した個人、という、現代の規範から考えたとき、あまりにも、強者に「依存」した傾向のものとして、それが日本人批判の定型的なパターンとして使われてきた(こういった傾向を、執拗に嘲笑し続けているのが、宮台真司先生で彼の好きな言葉に「田吾作」がある)。
しかし、なぜこういった作品が執拗に描かれるのかといえば、実際に、その時代には「自由」がなかったからであろう。そして、明らかに「強者」による、放縦な暴力が蔓延していた。そして、そういった暴力に対して立ち向かう力のない、ただの庶民は、みんな、ただただ、それに泣き寝入りすることしかできなかった。だから、その

  • 理不尽

が、なんらかの形で「転覆」されるストーリーが好まれたわけであろう。
つまり、そもそもの最初に、庶民ではどうすることもできない、黙って泣き寝入りすることしかできなかった、この世界の

  • 理不尽

な感覚があったから、そういった物語が好まれた、という関係になっているわけである。
そして、こういった傾向は、キリスト教においても変わらない。イエス・キリストが、私たち、ただただ運命に振り回されることしかできずに、理不尽なまま、この世界を去らなければならなかった人たちが

  • 本当にそんなままでいいのか?

という、問題提起に対して、いわばイエスの「復活」という形で、そこで

  • 全ての世界の「理不尽」が解決される

と語られたから、人々はキリスト教に「熱狂的」に礼賛したわけであろう。
つまり、なぜ日本の江戸時代を描いたものとして、上記のような「時代劇」が好まれたのかといえば、そこに

が「なかった」から、それを代替するものが求められたから、といった関係にあったはずなのだ。
例えば、今期のアニメ「リゼロ」第2期の第1話で、レムの乗った馬車は、圧倒的な実力差のある敵に襲撃され、一方的に、なぶり殺しにされる(この後の作品展開としては、意識が戻らないという形で、その「残虐」な負けシーンは省略されるのだが)。
普通に考えるなら、これだけの圧倒的な実力差があるなら、真っ先に逃げることを考えるべきだが、レムは勇敢にも、この鬼畜の敵に向かって闘いを挑もうとしているところが描かれる。
私たちは、この人類の太古の歴史のほどんどが、こういった

  • なにもできなかった、無力な大衆が、なぶり殺しにされた

歴史で彩られていることを知っている。そして、思うわけである。なぜ、こんな理不尽が許されるのだろうか、と。なぜ神は、この悪を裁かないのだろうか、と。
そして、この後、主人公のスバルは、このレムの悲劇をなんとか取り戻そうと、いつものように

  • 自殺

を試みるわけだが、今回のセーブポイントは、レムがやられる悲劇の前には戻れないことを確認して、彼はこの方法での解決を、あきらめる。
しかし、である。
私はこの場面を見ていて、気持ち悪くなった。というのは、世界中の多くの自殺者のうちの、かなりの割合は、こういった

  • 生まれ変わり

を「試みる」といった感覚で、自殺をしているんじゃないのか、と思ったからだ。死ねば、生まれ変わって、また別の人生を生きられる、と思うなら、今の人生がどこか

  • 不満

があるなら、「自殺をすればいい」ということになって、つまりは、こういったアニメが、ある種の

  • 自殺幇助

の機能を果たしてしまっているのではないか。
例えば、ニーチェがあれほど、カントを、生涯に渡って、罵詈雑言を投げ続けたのはなぜだったのか、と考えるわけである。そう考えたとき、一般的にニーチェキリスト教を敵対視してきたと理解されているが、それは違うんじゃないのか、と思うわけである。
そうじゃなく、ニーチェは、キリスト教が「大事」だったから、カントを、どうしても許せなかったんじゃないか。
カントがやったのは、学問からの宗教の影響の独立性を主張したわけで、それってつまりは、

  • この世界の真理に、宗教の影響がない

ということになるわけで、つまりは、

  • 悪に対して、宗教が介入「できない」

形に、カントは、この世界をデザインした、と受けとられたわけであろう。
ニーチェは、このキリスト教に対する、「過小評価」が、どうしても許せなかったのではないか? ニーチェの「超人」というのは、そういった形で、「神が死んだ」後に、その神を

  • 代替

する存在として期待されて現れる。だから、こういった存在は、一種の「貴族」として、その「サイコパス」的な、他に超越した能力が、

  • 神の代替

としての「機能」を期待される、といった「アイロニカル」な関係になっている。
ところで、今期のアニメ「魔王学園の不適合者」において、魔王アヌスは、サーシャが15歳の誕生日に亡くなることが、どうしても受け入れられず、その運命の

  • 過去の歴史の改変

を行う。つまり、

  • 神の意志

に逆らって、過去の歴史を変えることによって、サーシャの15歳の誕生日に死ぬという運命を破棄する。つまり、「魔術」には、そういった神の意志さえも改変するだけの能力がある、という解釈になっている。
つまり、「神がいない」ということが、

  • 非道徳的

な、アナーキーな世界であることを意味し、そのことが、この世界における、弱者が一方的に、なんの目的もないままに、無惨にこの世界から亡くなることの「理不尽さ」が、どんな下腿であれ、報われることがない、という世界が、どうしても

  • 受け入れられない

私たちが、なんらかの「神に代わる何か」を求めずにはいられない、ということを意味している、というわけである...。